終戦(敗戦)記念日に思う

酷暑の中78回目の終戦記念日を迎える。想像力を駆使して灼熱のジャングルで空腹に耐えながら塹壕を掘る20代の自分を思い描いた。何も考えず黙々と作業をこなしている。思わず身震いして目を空ける。暑いが令和でつくづく良かったと思う。
子供の頃三越前にはまだ傷痍軍人がアコーディオンを弾きながらカンパを募っていた。一人は膝から下、足が両方なく、一人は片手の手首がなかった。親に「あの人たちはどうしたの」と聞いた。「戦争に行って怪我をしたのだよ」戦争・・・・戦争って何だろうと子供ながらに思った。
自分の親世代は戦争を経験している。近所に住んでいた叔父は戦争にも行っている。祖父は進駐軍相手の仕立て屋を営んでいた。だが戦争の話はほとんど聞いたことがない。誰もが口を閉ざしていたのだと思う。戦争の悲惨さを語り継げという。だが戦争を経験している世代は余り残ってはいない。そしてあまり語りたくない要素が含まれている。忘れれば無かったことになる???・・・その途端新しい戦前がまたやってくる。
安倍総理の挨拶を覚えている。先の戦争で亡くなられた英霊に感謝する。今の繁栄は貴方たちが作った礎である。・・・・と言った内容であった。310万の国民が亡くなっている。その7割は餓死と言う犬死である。亡くなった一番多い年齢層は22,23歳・・・・死ぬために生まれてきたと言っても良い。
感謝すると言う事は愚かな時代の延長線上にあることを認めることとなる。すべきことは徹底した謝罪である。そして戦争の事実を全ての国民が認識することである。戦没軍人の魂は靖国神社に戻ってくるという発想は国家神道と言う共同幻想に支えられている。そして戦没軍人を神格化し彼らを無意味な死に追いやった指導者に免罪符を渡す政治施設でもある。
音楽にイントロがあるように戦争にも予兆がある。それは単に軍事予算の増加だけではなく政治、社会、文化、金融すべての分野に忍び足でやってくる。聞き耳を立てよ。聞き逃してはいけない。