終戦記念日に思い出すこと

77回目の終戦記念日を迎えた。子供の頃周りには戦争を経験した人が大勢いたはずだが不思議と戦争の話を聞いたことがない。札幌三越の前にはまだアコーディオンで「異国の丘」を弾いている傷痍軍人がある時までいた。今思えば「異国の丘」だったと言う事ではなく聴いた時にあの曲だ・・・とわかったのである。まだラジオで軍歌が流れていたのだと思う。終戦を境に臣民が国民に替わった。帝国主義が民主主義に変わった。戦意高揚歌がジャズに替わった。だが国民の心はオセロの様に急に白から黒には変わりはしない。小学生の時には修身の授業は勿論ない。それに代わる道徳という授業はあった。軍国主義の授業はなくなったはずなのに「爆弾三勇士」や死んでもラッパは放しませんでした・・・のラッパ兵、木口小平の話を美談として覚えている。まだ軍国主義の思想を持っている先生がいたとしか思われない。余談だが木口小平の話が出るとTPの松島啓之を思い出す。北海道の冬を甘く見ていた松島は雪道で転んだ。胸に痛みを感じながらも何日かトランペットを吹き続けた。痛みが引かないので東京に帰ってから病院に行くとあばらにひびが入っていると言う事であった。「くあばら、くあばら」その心意気を評価し二階級特進で少尉に任ずる。それに引き換え情けないのが池田篤である。同じく冬道で転んだ。店に来た時には額から血が出ていた。吉田軍医はサビオで応急処置をしてあげた。それでも血がにじんでくる。池田上等兵は「病院に連れて行ってください」という。吉田軍医は背筋を伸ばして訓示した「貴様は帝国陸軍軍楽隊として2ステージくらい吹き切る精神力はないのか」「ダメです。病院に連れて行ってください」と血を垂らしながら哀願した。しょうがないので救急病院に連れて行った。今後修身が復活することが有るならば教科書に載るのは松島少尉の話であろう。
ここ10年くらい8月15日を終戦記念日と呼ぶことに違和感を覚えるようになった。それは9月2日のミズーリ号での降伏文書調印をもってして終戦とするという法的な解釈の事ではない。全滅を玉砕、退却を転進と言い換えた発想が「敗戦」を「終戦」と言い換えさせたのではないかと考えている。その亡霊が生きていて「敵基地攻撃能力」を「反撃能力」というもっともらしい言い換えがブランド服を着て闊歩し始めている。国体を守るという欧米人には理解しがたいものを残すために米国に従属しながら米国から独立するという二律背反の宿命を抱え込んでしまった。共産主義進出を食い止める防波堤の役目を仰せつかった時代は戦犯が反共目的でどんどん釈放されていった。朝鮮戦争時には経済だけに集中でき戦争特需が生まれた。経済成長力でアメリカを抜くと関税引き上げ等のジャパンバッシングが起きた。近年は戦争法案が可決され、本年度は大幅な軍事費の増加が予算に乗っている。すべてアメリカの思惑通りである。弱ってきているアメリカに「お前らももう少し汗流せや・・・」と要求されたからである。アメリカから要求されたことがどんどん法制化される。安倍政権から特に日本国民の為の為政と言うよりはアメリカに忖度した政治になっている。アメリカに従属しているという事は意識しないでおこう・・・そうすれば日本はまだ一流国の末席を汚すことができる。今日二人の閣僚が靖国神社を参拝した。世界の報道機関はこれを日本はまだ戦争の事を反省していないと解釈する。ドイツの事を考えるとわかりやすい。敗戦を期に徹底的に反省をする道を選んだ。どの党が首相になろうがアウシュヴィッツに花をたむける行為は欠かさない。アウシュビッツはなかったなどという時々起こるネオナチ的論調はマスコミで徹底的に叩かれる。だからドイツは周辺国からその点で叩かれることはない。
アウシュビッツの収容を生き延びたカジミェシュ・スモレンさんはアウシュビッツ・ミュージアムの館長を35年務めた。若い世代にこう語りかけたという。
「君たちには戦争責任はない。でもそれを繰り返さない責任はある」
「日本の一番長い日」と言う映画がある。リメイク版もあるがお勧めは岡本喜八監督の方だ。ポツダム宣言の傍受から青年将校のクーデター、玉音放送に至る過程が克明に描かれている。阿南陸相役の三船敏郎が鬼気迫る演技をしている。ここに高橋悦司演ずる井田中佐と言う人物が描かれている。この人物戦後結構長生きし80年代雑誌の座談会で「今でも、焦土と化しても本土決戦をすべきだっと考えている」と発言し司馬遼太郎を激昂させたと聞く。司馬遼太郎でなくとも腹が立つ。こんな人間の命令で命を落とした若者がいたかと思うと胸が痛む。