成人の日

成人の日
成人の日の前日、学生のライブがあった。MCで「大人になったと感じた時はいつか」と言う話を披露してくれた。請け狙いの答えもあったが興味深かった。
A1メイド喫茶に恥ずかしがらずに行けるようになった時(男性)
A2深夜飲み会の帰りにタクシーに乗ったら運転手さんに「明日仕事休みかい」と聞かれたとき(女性)
A3公園の遊戯施設が自分の体のサイズに合わなくなった時。ブランコにお尻が収まらなくなった(女性) 
A4大人になりたくないと思わなくなった時(男性)
話を振られたらどう答えようと受け狙いの答えを考えていた。
「こんな日中、まして素面では恥ずかしくて言えない」
「生意気な学生をjazz談義で論破しようと思わなくなった時」
残念ながらソロは回ってこなかった。親しい学生がリーダーなら「なんで俺に聞かないんだよ」と脅していたところだ。
ここで一つ重要なことに気づく。全員自分は大人だと考えていることである。
自分のことを考えれば十分納得できる答えなのだ。時間は無限にあり、周りがみんな馬鹿に見える時期があった。
「てめえらなんぞ、まだまだガキんちょだ、あさって来やがれ。大人とはこういうものだ。俺を見ろ」と威張りたいからではない。学生に説教を垂れたがるいわゆる大人は店にも時々来る。そういう大人とは自分は一線を画しているつもりだがこれがどうも怪しい。
だいたいどこまで子供でどこから大人なのかはっきりしない。「大人になれよ」と言うセリフはよく聞くが言っている方もよく分からない。
禅問答のようになるのだが「大人になるという事の意味は大人にならないと分からない」という事である。この循環論法を親鸞は「往相と還相」と言う言葉で説明しているがこれが分かりそうでまたよくわからない。
僕は成人式には行っていない。「そんな行事に参加するほど子供じゃないぜ・・・・」と思っていたのだと思う。
お…恥ずかし。
僕も64歳である。大人になるという意味は何となく分かるようになったので大人になっているとは思うのだが確信がない。
あの世に行ってから「なんだ、お前、子供のままこっちに来やがって」といじめられたらかっこ悪いなと思う今日この頃である。

参考図書
「復路の哲学」平川克己
著者は道新に「路地裏の資本主義」という連載記事を書いているので札幌の人は名前を見かけたことがあるかもしれない。間違いなく大人であり信頼に足る人物である。