1月29日

1968年1月29日東大医学部自治会が医療法改定に異議を唱え無期限のストに突入した。学園紛争の口火が切られその運動は全国の大学、高校に伝播していった。発端となる事件の事は覚えていないが一年後の安田講堂陥落の映像ははっきりと覚えている。その後学生運動は収束し一部の極左勢力の内ゲバ闘争に変遷していった。そしてその間に起きた事件に関わった人間と微妙に繋がっていることが後でわかる事となった。
最近映画にもなったが三島由紀夫と東大全共闘との討論の一部を聞いた。「君たちが天皇陛下の事に触れてくれたのなら私は君たちと共闘したであろう」と言う言葉に考えさせられた。同じ時期学生との大衆団交に臨み要求をことごとく撥ねつけ一週間ほど軟禁された骨のある教官がいたと言う事実は何となく知っている。去年「保守と大東亜戦争」という昭和の思想史の本を読んでいたら上記の教官の名前が出ていた。林健太郎氏である。あれ、どこかで聞いた名前であると思った。盟友米木の奥さん「さきく」さんのご尊父ではなかったかと思ったのだ。米木に問い合わせた。「そちらは、叔父」との答えであった。林健太郎氏はその後東大総長になった。「そちら」が有れば「こちら」もある。こちらのご尊父は慶大教授で退官後新設大学の学長になられた。そのご尊父から「米木君、校歌を作ってくれないか」と言われたそうである。「いや、俺そういうタイプでないからさ・・・アキコに頼んだよ」
僕は小山明子しか思い浮かばない。アキコと言うのは矢野顕子の事である。
学生運動の火は全国に広がり北大にも喧騒とした雰囲気が充満していた。図書館が学生に占拠されたと報道があった。支援しに行こうと思い立った高校生の僕は北大正門前で身動きが取れなくなった。信号機は金網で防御され機動隊の装甲車と隊員で学内には一歩も立ち入れない状態であった。その図書館の中に僕が引き継ぐこととなったgroovyのマスター、野川さんがいたと聞いたのもそれから20年くらいたってからである。聞いたのは本人からではないそういう事は喋らないというのがその業界の不文律になっている。
唐牛健太郎というカリスマ運動家がいたことを佐野眞一の「唐牛伝」で知った。唐牛は全学連の委員長になった人間である。そして唐牛は野川さんと同じ時期北大に在学していた。あの図書館の中で二人は希望と蹉跌の入り混じった空気を吸っていたのではと思うと胸が痛い。
二人とも故人になっている。聞く術はない