選挙の行方 その5

選挙盛り上がりませんね・・・というセリフを聞いたのは告示後一人だけである。新聞を読むだけではその空気感は分からない。テレビは映らないがテレビ欄は見ている。選挙関係の特番は全くない。昔から選挙特番は視聴率を稼げないので制作側トップから忌み嫌われていた。それでもマスコミの矜持として制作されていた。国政選挙の得票は概ね【野党系:棄権:与党系】が【2:5:3】の割合である。投票率が50%程度になると、与党が固定票で勝つので、安倍内閣以降の選挙戦略は、低投票率のもちこむことにある。だから、選挙が近づくと争点をぼかし、メディアには報道させないよう圧力をかける。そして国民には選挙に興味を持たない様催眠術をかける。麻生財務大臣は「政治に関心を持たず生きていける国は良い国です」などと発言している。完全に上から目線である。誰にとって良い国なのか・・・・それは独裁政治家にとってである。あるアンケート調査で衝撃的な事実を知った。コンジョイント分析と言う手法で政策を政党名を隠すと自民党案は選ばれず、政党名を明記すると自民案が選ばれるというものだ。要するに政策など何でも良いという有権者が不特定数存在すると言う事である。
以前政治意識は「右対左」「与党対野党」の様な思想の対立軸で語られていた。「現状維持派」という概念が必要ではと分析したのは山崎雅弘氏である。この考えを持つ国民は腐敗一掃で現状が変わることを良い事とは思わない。変革も望まない。だが今回は素人考えであるが政権交代はない。政権交代が不安と言う方も現状に不満がある人は少なくとも与党に投票すべきではないと思う。選挙結果によっては「国民の支持を得た」と言ってこの状況がブローイングセッションの様に代わり映えしないソロが続く。賃金は上がらず、環境対策は進まず、ジェンダーギャップは埋まらない。付けで買っている防衛装備品の支払いで首が回らず、GDPの2%案が現実化している。勿論物価高は止まらない。庶民は本当にマイルス。物価はリトルが良いでしょう。

米木をめぐる冒険

村上春樹の初期3部作には元ネタがある。レイモンドチャンドラーの「ロング・グットバイ」である。ロング・グットバイにも元ネタがある。スコット・フィッツジエラルドの「グレート・ギャッビー」である。主人公とその友人の関係性の中で物語が成り立っている。ギャツビーは主人公とギャツビー、ロング・グットバイはフィリップ・マーロウとテリー・レノックス・・・・。村上春樹の初期3部作は僕と友人「ネズミ」の関係性で物語が紡がれていく。「羊をめぐる冒険」はその3作目にあたる。僕と米木の関係性がこれに似ているとふと思った。
米木に1週間来てもらっていた。米木はとにかく忙しい人だ。年金受給者の中では日本一忙しいはずである。今回のスケジュールを貰ったのも8カ月ほど前である。札幌のミュージシャンとやってもらうのが主眼である。レギュラーでやっている大石とスケジュールが合ったのは偶然である。僕は米木と40年ほど付き合っている。最初はレギュラーグループのライブを主宰するところから始まった。ある関係性ができたころから札幌のミュージシャンとやってもらうお願いをするようになった。当初はその人の音源を送り自分の意図を説明した手紙も書いた。最低限の礼儀と思っていた。ある時から、それは多少信任を得たころからだが「また。やってよ」「ああ、いいよ」と言うやり取りに替わっていった。いくつか条件があった。レギュラーグループで来ている時はそのライブで東京に返して・・・ということがまずあった。楽しいからレギュラーでやっていると言う事である。そのイメージで帰りたいと言う事であった。はっきり言うとセッションはレギュラーより楽しくないと言う事である。勿論大人なのでそんなことは言わない。「楽しかったよ、又やろうよ」と言う事になる。だがそういう危険な通奏低音が企画全体に流れていると言う事である。失敗した組み合わせもあった。その時はちゃんと誤っている。ではなぜ面白くないかという本質的な問題になる。米木は言う。上手い下手は関係ない・・・。そこにその人がいるかどうかだ・・・と。今回の1週間。初日が社会人Yとのデュオであった。米木は本当に楽しかった。今回来た甲斐があったとまで言った。言われたYも恐縮していた。僕はすべての日が前回より良かったと思っている。米木の言っていることが分かるまで聴き続けたいと思っているので今回もセッション卒業させてほしいとの申し出があったが「ダメ」といった。米木は凄いベーシストであるが器用ではない。そんなことは知っている。「毎日違うミュージシャンと違う曲やるのって大変なんだよ」と毎回言われる。そんなことも知っている。そんなことも知って頼む僕の考えも米木は知っているはずである。

選挙の行方 その4

前回音楽4団体が今井、生稲を支援すると表明した件について書いた。補足説明をしておきたい。どの団体に所属しようが個人的に特定の政党を支持する自由はある。だが色々な政治信条を持っている個人の集合体である関係団体が何の事前連絡もなく自民党を支持する声明を出したことが大問題なのだ。生稲は夫婦別姓には反対を唱えている。自民党もLGBT法案等に消極的な姿勢を見せている。音楽はジャンルに関係なく多様な心情とマイノリティをも取り込んできた経緯がある。音楽関係者はその経緯を思い出すべきだ。早速アジアンカンフーの後藤正文が中心になって抗議文を出した。その全文が彼のブログから読むことができる。コロナ禍で音楽関係者がつらかった時SAVE THE SPACEという運動がおこった。その時自民党議員は見向きをしてくれなかったという。今回の声明も業界団体が政権与党にすり寄って経済的な利益に預かろうとする意図が見え見えである。演奏者もその支持者も表現の多様性がそんなところから崩れていくことを自覚すべきである。
どうか投票に行っていただきたい。・・・・以下同文

選挙の行方 その3

一昔前、小泉今日子が政治的発言をした際、芸能人は政治に口を出すなと言われてネット上で徹底的に叩かれた。ところがspeedとおニャン子クラブは許されるらしい。今井絵理子と生稲晃子が日本音楽事業者協会、日本音楽制作者連盟、コンサートプロモーターズ協会、日本音楽出版社協会という半ば公的団体から支持を受けて選挙活動を行っている。音楽が権力の顔色を伺ってはいけない。生稲晃子は落選しておニャン子クラブの名を汚したくないとも発言している。名を汚したくないのであれば経歴にそういうことを謳うべきではない。芸能人の出馬を否定する気はないが最低の市民としての矜持をもって立候補してもらいたい。このブログを読んでいる方はjazzを愛する人、その愛を演奏で表現している方と思う。音楽と金、コネを一緒くたにする行為は命取りになる。どうか投票に行き自公維新、国民以外に朝日の様にさわやかな一票を入れていただきたい。Jazzミュージシャンのギャラが上がらない遠因は経済政策にある。

2020.6.25 新生DUOの生電ネットワーク紀行

大石学(p)米木康志(eb)
本年上半期を締めくくる米木週間で聴いた三夜の中からDUOの日に焦点を当てたい。実はこの前日(6/24)にセットされていたのは大石と“そして神戸”の実力派松原絵里(vo)とのデュオであったが、折からの暴風雨により鉄路北上中の大石が函館で足止めを食らうことになってしまったのだ。運良くこの日オフの米木と実力・ユーティリティー兼備の本山によりボーカル・トリオのライブとなった次第である。詳細は割愛させていただくが、ジャズ・ボーカルの王道を行く松原に緊急リリーフ陣が抜群のサポートを見せ、トラトラの奇襲は惚れ惚れするものになったことを伝えておく。さて、本編の主題である大石・米木のDUOについて語って行こう。特筆すべきは米木がエレベで臨んだことである。エレベにはウッドと違った粘着性や浮遊感があり、そこから発出されるグルーヴはこの楽器独自のものである。そうは言っても、アコースティック・ピアノとの組み合わせはどうなんだろうかと訝る思いも無いわけではなかった。なのでかつてのネイティヴ・サンやZEKでしか米木のエレベを聴いたことがない筆者のなかでは期待と躊躇が交錯していたのだった。ところが聴き進むにつれ、エレベは奇を衒ったものではなく、新たな試みとして大石の音楽的意図を拡張したものだという思いが強まっていく。そのことはベースがふんだんにメロディー・ラインを執る構成に見て取ることができる。なんかハマっちゃったなと思った時には、既にこの“生電ネットワーク”紀行は終盤を迎えていた。その終盤を飾ったのが、何度も聴いてきた大石の名曲「peace」だ。この曲に新たな表情を吹き込んだこの新生DUOの象徴をなす演奏だ。私たちは書き損じたときに、紙をクシャっと丸める経験をしている。だが一回二回几帳面に角を合わせて折り畳んでから丸める、そんな大石の人物像が頭をかすめた。彼はひと手間かけることを厭わない演奏家なのだと思うのである。演奏曲はオリジナルで占められていた。何が言いたいのかを問われれば、ピアノは持ち運びの効かないゆえ、マイ楽器による演奏家とは異なる立場を強いられる。従って1台のピアノを巡って演者の個性が露わになってしまうのだ。僅か数音で誰の音か分かることもあれば、そうでない場合もある。大石は分かる側の筆頭株だと思う。ピアノから何か一言もらいたい気分にもなるというものだ。文脈が雑多になってしまったが、かねがね一度負け惜しみを言っておきたいと思っていた。因みに筆者は演奏曲を音楽理論的に解説したりすることはないし、そうする能力もない。それは専門家の役割である。旨い小料理を伝えるのに、高名な産地を並べても旨さを伝えることができないと思っているので安心している。大切なのは舌包鼓の感触を伝えられれば良いと思うのである。ライブとは音の振動をそのように味わうことなのである。軌道をもとに戻してかなり不確かだが演奏曲を紹介する。「今できること」「ロンサム」「カラー」「シリウス」「アンダー・ザ・ムーン」「キリッグ」「7777酔いマン」「ニュー・ライフ」「花曇りのち雨」「目覚め」「ルック・アップ・ワーズ」そしてトドメの「ピース」。
このライブを以て今年もはや半分経過する。ミュージカルの聖地ブロード・ウェイの関係者によれば、上演の75%は失敗に終わるとのことである。上半期の24ナロウ・ウェイはそれに該当していないな。この分だと7月以降も視界良好に違いない。
(M・Flanagan)

選挙の行方 その2

物価高が止まらない。メーカーは選挙期間なので値上げ予告と言う形で自民党に忖度している。そもそもこの物価高はアベノミクスの成果なのである。おいおい何を言う…という方がいると思う。アベノミクスは完全に失敗しているだろう。・・・・これが庶民向けの経済政策だとすれば戦後最低の愚策であるが元々富裕層と大企業向けの政策だと考えると実にうまく行っている。給与は30年間上がらず、企業は460兆の内部留保を蓄える。それを設備投資に向ける訳ではなく自社株を買いあさり株価を上げ株主に恩恵を与える。トリクルダウンはこちらだけに滴る。日銀の金融緩和政策と相まっての円安である。投資は海外での運用となる。政府の子会社と化した日銀は世界の中央銀行が金利の切り上げを実施しインフレを抑えようとする中で一社マイナス金利を続ける。国債残高が1000兆円あるため金利を上げると利払いが発生し破綻するからだ。後は野となれ山となれといった乗りで戦時体制の様に国債を発行し続けハイパーインフレのおかげで借金がチャラになるのを待っている。もはや不況下のインフレでスタグフレーション化している。デフレからの脱却で物価上昇率2%を達成したわけでもないのにお馬鹿なテレビ局が「アベノミクス物価上昇2%を達成しました」と提灯放送を流す。物価が上がれば消費税は増加する。ただこの税金、何度も言うが社会保障には回っていない。先週のNHK日曜討論で茂木幹事長が「消費税を減税すると社会保障費を3%削らなければならない」と真っ赤な嘘をついた。NHKテレビで放送されると正しいことを言われている気になる効果を狙ったものだ。維新の吉村知事が何のコロナ対策もせずテレビに出ずっぱりになって支持率を稼いでいるのと同じである。岸田総理も当初新しい政策を出したが今は安倍総理の顔を伺う政策しか出せなくなっている。いつもニコニコしているし前の二人がひどすぎたので相対的に良く見えるが中身は一緒である。キャバレーのフロアマネージャーが使う手口である。ブスな子を二人付ける。お客さんは女の子変えてよ・・・と言うはずである。その子がニコニコしていれば綺麗に見えて思わず指名してしまい「ドンペリ1本」と言う事になってしまう。今回はそういう飲み方は控えてほしい。この選挙は思いのほか重要であると考えている。今年以上の夏がもう来ないとしたらあまりにも寂しい。
どうか選挙に行って自公、維新、国民以外に投票していただきたい。

選挙の行方 その1

新聞各社、テレビ局は選挙戦前半であるにもかかわらず与党安定多数の論調である。選挙など行っても無駄と言っているに等しい。どうか投票に行っていただきたい。そして自民公明、維新、国民以外の政党を選んでいただきたい。どの政党の政策も気に入らない所はある。日本を少しでも住みやすい国にしたいと思うならば鼻をつまんで前記の5党以外を選んでいただきたい。消費税を減税すると社会保障費が3割減るなどと言うのは嘘っぱちである。国民を恫喝しているに過ぎない。僕は年金受給者であるが消費税とは無関係に減額されている。俺にもっとよこせと言いたいわけではない。ちゃんとした政策を選択すればもう少しましな世の中になるはずである。
生稲あきこという元アイドルが東京都で立候補していて当選有力らしい。政策アンケート調査24項目無回答で憲法改正だけ賛成である。こんなおバカさんを国会に送り込んでよいのか。国民の見識が問われている。このブログを読んでいる方はlazyのライブに来てくれたことが有る方だと思う。先週の大石学と米木康志のduoは久々満席であった。リスナーの方が見識のある方だという証明である。これがドレミも判らない演奏者のライブが満席になったとしてもそういうお客さんに支えられるjazz barはやりたくない。僕には選挙も同じことのように思える。

男と女3部作

フランスの名優ジャンルイ・トランテニァンが亡くなった。91歳であった。ダバダ・シャバダバダ・シャバダバダの主題歌で始まる「男と女」が代表作である。この映画が札幌に来た時、主演のジャンルイ・トランテニァンとアヌーク・エーメの巨大看板が須貝劇場にかかっていた。キャッチコピーは今でもよく覚えている。「この映画を恋人同士で見たら帰りに貴方たちは必ず接吻をするでしょう」とあった。多分中学1年生であった吉田少年はもう少し大きくなったら必ずこの映画を二人で見て接吻とやらを経験して見るのだと誓いを立てたのだった。それから苦節…年。クロード・ルルーシュ監督の映像が美しく大人の恋物語が素敵だった。印象に残っているセリフがある。ホテルのレストランで二人で食事をする場面だ。オーダーを取り終わって下がるギャルソンを呼び戻す。「あと何を」「部屋を一つ」こんなしゃれたやり取りをしてみたいものだ。頼んだ料理も一品だけでフランス料理をオードブルから始まり魚頼んで、肉頼んで白ワイン頼んで赤ワイン頼んで・・・と思っていたが裏切られた。
「男と女Ⅱ」も制作された。1作が当たったので柳の下の泥鰌を狙ったような低劣なものではない。結局一緒にならなかった二人だが人生のある部分で微妙に繋がっている。ジャンルイ・トランテニァンには若い彼女がいる。そして彼女はアヌークエーメに嫉妬しジャンルイ・トランテニァンと砂漠で心中しようとする。女心の浅はかさと砂漠の残酷さがつづら折りになって描写されてる。映像がまた美しい。二人を必死で探すアヌークエーメ・・・。
処女作から53年後「男と女Ⅲ 人生最良の日々」が撮られた。ジャンルイ・トランテニァンは認知症を患い施設に入っている。彼の息子がアヌークエーメを探し出し連れてくる。だが昔の彼女だとは分からない。だが素敵なのはそこからだ。また恋をし始めるのである。「まだ君に恋してる」坂本冬美が流れ始める。嘘である。例のダバダ・シャバダバダ・シャバダバダ・ダバダバダ・・・が流れている。恋は若者の特権ではない。年老いても二人が素敵に描かれている。フランスの文化の違いを感ずる。
クロード・ルルーシュ監督は自分の作品の所謂本歌取りのような作品を良く作る。「男と女の詩」という作品がある。これは「男と女」3作とは直接は関係ない。宝石強盗を働いたリノベンチュラが刑務所で服役している。恩赦がでて出所し昔の彼女に会いに行くと言う設定である。だがこの恩赦は未解決の宝石強盗事件を解決するためのおとり捜査なのである。娯楽の映画鑑賞で刑務所で「男と女」を見ている時呼び出され恩赦を告げられる。刑務所から出た時にはあの音楽が頭から離れない。
娑婆・ダバダ娑婆ダバダ

エアコン

今年も暑くなると言う事で故障していたエアコンを早めに取り換えた。幸いと言おうか暑い日は訪れず今まで使う日はなかった。昨日ミュージシャンの希望で今年初めて動かした。昨年の猛暑下ライブに来てくれていた常連の人から拍手が起きた。6月15日の事である。Lazyで働いていた友恵の命日にあたる。数年前まである時期になると深夜エアコンが勝手に動き出す現象が続いたことが有る。この事はお客さんが気味悪がるといけないのであまり言ってはいない。ある霊感が強いというお客さんがここでは何かを感ずる・・・と言っていたのも思い出した。僕はああ・やっぱり友恵来ていたのだ・・・と思っていた。本当にlazyに戻ってきたかったのだと思う。まだ、私の事覚えているよね‥と言ってエアコンを悪戯していたのだと思う。
店で二日続けて「ちょっとした」事件が起きてそのことが原因で心のバランスを崩してしまった。絶対店に戻るからね。待っててパパ・・・と言うメールが時々来た。メールが打てるほど体調が良い時に。友恵は僕の事をパパと呼んだ。あだ名である。昨今のパパ活のような新語もある。誤解されるので人前では辞めてほしいと言ったが友恵は頑としてパパと呼び続けマスターと呼ぶことは一度もなかった。若い愛人出来て良いねと揶揄されたこともある。友恵が心に傷のある子だとは聞いていた。だが「ちょっとした」ことがそれほどまでの引き金になるとは想像できなかった。僕にも責任があるので辛抱強く回復するのを待った。生活保護の手続きに同行し月何回かの心療内科への通院にも付き合った。時々人前で暴れられることもあり必死で抑えたことも何度もある。薬を飲むと何事もなかったように穏やかになる。そしてケロッとして「ごめんね。おなかすいちゃった」と言うのである。少なくとも信用されている実感はあった。僕は本当に人を守ってあげたいと思ったのは友恵が最初だったのかもしれない。15年前の6月15日の午前4時半、友恵が設定まで全部やってくれたガラケー携帯に着信があった。その事に気が付いたのは15日の午後であった。電話をかけたが出ることはなかった。体調が良くない時は電話に出ないこともよくあることではあった。翌日知らない方から固定電話に電話がかかってきた。「友恵の父です」と切り出した。山梨県にいらっしゃると言う事は聞いていた。「友恵が亡くなりました」と言う言葉を聴いた時は頭の中にキーンという通奏音が鳴りだした。「いつですか」と聞くのがやっとであった。「15日の5時頃です」と聞いた時には言葉を失った。あの電話に出れてさえいれば・・・・と思うとしばらく何も手につかない日が続いた。僕もそこそこの年齢である。肉親や親しかったミュージシャンの死に直面してきた。だが友恵の死に異質なものを感じた。26歳で命を絶った子にまだ人の為に優しくなれる余力が残っていることを教えてもらった。
石垣島の砂浜で半分居眠りをしながら村上春樹の小説を読んでいる僕の傍らでせっせと小さなヤドカリを取っている友恵の姿を今でも思い出す。
もう一度エアコンを動かしに来てくれないかな・・・。

コロナと学園祭

三年ぶりの北大祭りに行ってきた。Lazyでバイトをやっている部長Uの挨拶で始まった。初めて経験する学園祭を開催できる喜びに溢れる挨拶であった。学祭に近くなったある日部員から今年はコロナ対策で入場制限をするという話を聞いた。マックス3000人で希望者はネット予約が必要でそろそろ締め切りになると脅された。まあ、自分でもできないことないだろうが部員kに全日朝一から行くと言う事で三日分予約してもらった。開催日の前日実行委員会から予約確認のメールが届いた。予約番号、注意事項が列記されていた。身分証明書を持参すること、滞在時間は3時間、指定された門から入場すること・・・かなり厳密にチェックをする感が漂う文面であった。入場できる門と時間が指定されていた。北8条の正門であった。Jazz研の演奏場所は北18条の教養棟。僕は北24条に住んでいるので演奏場所を横目で見ながら正門まで南下しなくてはならない。そして又18条まで歩く。そこそこの運動量だ。正門をくぐると受付があった。入場のチェックを受けている。長蛇の列ではないがスマホと免許書を出して待っていた。受付が終わると制限時間の書いてあるリボンを渡された。最大3時間の滞留時間である。見ているとそこを素通りして入る人間も居る。最初は関係者なのだろうと思っていた。演奏会場に着くと部長のUが出てきてスタッフ証を首にかけてくれた。「見回りもあるのでこれが有れば3時間を超えても大丈夫です」との事だった。見回りと言う言葉にゲシュタポの様な密告社会の匂いを感じた。なぜこんなことを長々と書いているかと言うとある種の疑問が湧いてきたからだ。帰る時18条口から出たがスタッフは誰もいない。帰った人数は把握できていないという事である。残りの二日間は22条の獣医学部の入り口に行ってみた。誰もいない。普通にそこから入った。覆面パトカーが茂みから出てきて検挙されることも無かった。善意の住人が犬の散歩やらジョギングやらでどんどん構内に入ってくる。実行委員会の入場数制限は「やっている感の演出」であったのだ。オリンピック時の政府のザル水際対策を想い出した。実行委員会は大学当局からコロナ対策はどうすると聞かれたはずである。その対策がこの方法であったのである。北大は政府から言われて独自の基準を作り部活なども制限していた。密を抑えるのか人流を抑えるのかはっきりしない対策が政府、大学とリレーされた。それを学生たちが見逃すわけがない。ああ、あの程度でいいのね・・・と思う筈である。学生たちを責める気は毛頭ないがこういう手口を覚えて社会に出ることを危惧するのである。
老婆心からである。
「老婆は一日にして成らず」