殺しの烙印

1967年制作の日活映画。鈴木清順監督、宍戸錠主演のハードボイルド・アクション巨編と予告編には有った。見終わった後の感想を一言でいえば「ようわからん」である。分からない事とつまらない事とは別の事であることをはじめに言っておく。当時「ようわからん」と思った人間が少なくとももう一人いた。日活の社長である。この映画が原因で鈴木清順監督は日活を一方的に解雇され裁判沙汰になっている。この時期日本映画は黄金期の勢いを失い観客動員に苦慮していた。日活も吉永小百合、石原裕次郎の青春物からの方向転換先を模索していた。鈴木清順監督は独特の映像美でジム・ジャームッシュなどの信奉者もいるが一般受けは今いちだった。社長は監督にアクションとエロがある映画ならとっても良いと許可した。鈴木監督もその方針だけは守っている。内容は宍戸錠演ずる殺し屋がそのNO1の座をかけて仕事をこなすがある仕事に失敗してしまい組織から狙われその殺し屋と対峙するストーリーになっている。アクションシーンとエロシーンだけでなくカットが変わるたびの繋ぎに違和感があるのである。音楽的に言えば無理やり転調しているような・・・・。脚本が具留八郎となっているが一人の名前ではなく創作集団の総称でこの映画でも鈴木監督の依頼で数人で分業している。これがストーリーはあるけれども「良く分からん」の原因になっていると考える。鈴木監督はストーリーはあるのだから後は何やってもいいのだと言う思想の持ち主だ。この映画にもギャビン・ライアルの「深夜プラス1」へのオマージュもちりばめられていると聞いたが全く分からなかった。僕の大好きな「さらば愛しき女よ」などのハードボイルドとは全く異質なものを感じた。
「女を抱いてきたのかい・・・湯たんぽでも抱いてな」おもわず吹きだした。宍戸錠演ずる殺し屋は変わった性癖がある。ご飯が炊ける匂いで興奮するのである。この辺の感覚はブックレビューで紹介した浅井リュウ著「正欲」を呼んでいただけると判るかもしれない。二人の色っぽいお姉さんが登場する。おバカ系の小川真理子、神秘的な真理アンヌ。抱く前に「飯を炊け、飯を炊け」と繰り返すのである。映画のシーンにもパロマのガス炊飯器で飯を炊くシーンが何度か出てくるがスポンサーのパロマからもこんな映画ではガス炊飯器の売り上げが伸びないと苦情になったと聞く。パロマの宣伝担当もアホである。スポンサーになるのなら小津映画である。笠智衆と原節子の親子の食卓にガス炊飯器が有れば売り上げは倍増したはずである。共演者には南原宏治、玉川伊佐男という当時の名脇役が配されているが南廣と言う役者が出演してる。この俳優はjazz界とも縁がある。渡辺晋とシックスジョーンズと言う日本ジャズ黎明期のバンドのドラーマーであった。渡辺晋は渡辺貞夫が「ナベサダ」と呼ばれるようになったことに関係している。当時渡辺姓の著名なミュージシャンが3人いた。区別するのにそれぞれ「ナベサダ」「ナベシン」「ナベタツ」と呼ばれていた。ナベシンはナベプロの社長である。トリビアクイズのオマケついでに真理アンヌは臼庭潤の叔母さんにあたる。臼庭が亡くなってから知った。こんな色っぽい叔母さんがいることが僕にばれたら弄られるのが分かりきっているのでひた隠しにしたのだと思う。
ビデオにはデータベイス情報も付いていて製作費20,598,301。総配収27,154,000とある。これは流石に社長も怒るかもしれない。大手の居酒屋が休業要請で給付金を貰っていてもこれくらい稼げる。これを機に日活はロマンポルノ路線に大きく舵取りをする。この映画でも映倫対策できわどいシーンには鈴木清順監督の遊び心で白い矢印で隠すように編集し観客はその矢印を追う楽しみを満喫できるようになっていた。しかし封切の時は理財局の赤木ファイルのように黒塗りに加工されていた。
付記
盟友米木康志参加アルバム大口純一郎とのDUO「IKKI」を預かっている。長年一緒に演奏している関係性でしかできない領域で淡々とそして深い所で表現している
¥2500購入希望者には連絡いただければ郵送いたします。
コロナ禍でも米木は忙しいと聞く。こんな時期に忙しいのは医療関係者とウーバと米木だけである。
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ローマの休日

今までで何度も見た映画のベスト5には間違いなく入る。輝くばかりのオードリ・ヘップバーンに会いに行くためである。どこかの国の王女様O・ヘップバーンと新聞記者のG・ペックのコミックラブストーリである。だがその裏にいくつかのメッセージとストーリーが隠されている。まずタイトルの「Roman Holiday」である。文字通り「ローマの休日」であるのだがダブルミーニングで「他人に苦しみを与えることで得られる楽しみ」の事でもある。猛獣と戦う剣闘士を想い出せばよい。この脚本は今ではダルトン・トランボ作であることが明らかにされているが封切時は伏せられていた。トランボが赤狩りの犠牲者であったからだ。その複雑な思いがタイトルに込められている。アン王女はヨーロッパ諸国を歴訪する。どこの国の王女かは明らかにはされていない。この作品は1953年に制作されている。ヨーロッパは二度の大戦で疲弊し、新しい平和の枠組みを渇望していた。今のEUみたいな共同体をトランボは思い描いたに違いない。それが皇室の親善外交と言う形で表現されているしアン王女の言葉のはしはしにも感じられる。一日だけの物語であるがその間に王女は成長している。公務に疲れ駄々をこねて執事たちを困らせていた。ところが一日の休日を終えて迎賓館に戻ってきた王女は寝る前に出されていたクッキーと牛乳を毅然と断るのである。そうした少女の成長物語でもあるのだ。
戦時中ある壁の下で祈りを捧げて戦火を免れた子供がいた。そこには願い事を書いた日本で言えば絵馬みたいなものが大量にぶら下がっている。そこを訪ねたG・ペックはヘップバーンに何の願い事をしたのかを聞く。「でも、絶対かなわないの」と答えるヘップバーン。ちゃんと王女の仕事に戻ろうと決めた瞬間である。見どころはいっぱいあるが「真実の口」に手を入れるシーンはG・ペックのアドリブでヘップバーンは本当に驚いている。ジャズぽいシーンである。
この映画は女性のファッションにも多大な影響を与えた。ヘップサンダルと呼ばれた編み上げのサンダル、首に巻いたネッカチーフ。これはちょっと目立つ鎖骨を隠す為であったが意図せず流行ったと聞く。首周りの太い人も無理くりネッカチーフを巻きゼイゼイと息を切らせながら歩いていただろう当時の日本の世相が思い浮かぶ。そしてあのショートカットである。女性が髪を切ると言う行為がまだ一大決心を示唆する時代である。この時からショートカットが一般的になっていった。この時のヘップバーンはホントにホントに可愛らしい。食べてしまいたい。だが髪を切れば誰でもが可愛らしくなるわけではない。隠れていたものが白日の下にさらされて逆効果の事もある。ものには限度と言うものがあることを知るべきである。
ここにはもう一点ジャーナリズムのモラルも表現されている。特ダネを狙うG・ペックとカメラマンのエディ・アルバートも王女との信頼関係から公表することを諦める。まだジャーナリズムが節度を持っていた時代の話である。