時事爺writerその6 自民党総裁選 

菅官房長官が出馬声明を出した後NHKは自民党有力三派閥の長が菅氏推薦の共同会見を中継していた。公共の電波を使って特定勢力の宣伝に寄与することは公共放送の役割を逸脱している。このマスコミを家僕に貶めた功績は菅官房長官にある。記者会見の形骸化を主導したのも菅官房長官だ。書き譜のソロをするjazzミュージシャンよりたちが悪い。自民党の党員選挙は行われない。総理は決まったようなものだ。石橋と岸田氏は次回の候補に残れるように二番手争いに参加している。だがその有効性は菅氏の出方にかかっている。中継ぎ内閣にするか独自路線を打ち出すかだ。焦点は麻生財務大臣の処遇である。留任させれば他の大臣もほぼ「居抜き」で総理と官房長官が変わっただけになるかもしれない。だが独自路線を目指すとなると麻生副総理を切り人気の小泉進次郎、河野太郎を入閣させ目玉に息の合う橋下徹も就任させるかもしれない。マスコミ、霞が関を手なずけた実力者である。安倍総理を上回る独裁者になる可能性がある。どちらに転んでも国民はますます分断されていく。安倍総理は病気で退陣したことになっている。勿論病気ではあったのだろう。だが退陣に追い込んだのはSNS等で声を上げた国民である。政権中枢もマスコミもそれを認めない。寝てる子を起こさないようにするためだ。
後者のシミュレーションになった場合選挙は早まり足並みのそろわない野党をしり目に選挙に圧勝するかもしれない。
前門の虎肛門の糞と呼ぶにふさわしい。

Born to be wild ♪

ラストサムライ

墓参りに行った。父方の墓も母方の墓も同じ霊園、同じ区画にある。往復ビンタで済むのは助かる。母親は足が弱りとうとう一人で行くことになった。僕は熱心な仏教徒ではないが母親の命で行く限り手を抜くわけにはいかない。雑草を抜き、墓石を洗い仏花を挿し、風吹く中線香に何とか火を点け近況を報告し手を合わせる。毎年のルーティーン作業と言うとご先祖様が起こるかもしれない。だが今年は少し意味合いが違う。墓じまいをすることになるからだ。僕が吉田姓最後の人間になってしまった。ゲーテのように50歳年下の娘と恋に落ち見目麗しく情が深く、毛がふさふさの子孫を授かる確率はマイルスとセシルテイラーのデュオ未発表音源がリリースされる確率よりも低い。お詫びにいつもより余計に手を合わせるのである。
季節外れの曼珠沙華の花を買っていった。山口百恵のタイトルで有名になったが別名「彼岸花」と言い小津安二郎の映画タイトルになったほうが早い。「死人花」「地獄花」とも呼ばれ根に毒性があり野生の小動物除けにもなるとの伝説がある。墓を守る花としてはいいかなと思ったのであるがこの花、種を作らないのである。何か「お家断絶」のイメージをご先祖様に与えてしまったかもしれない。中国原産のこの花は一年に数センチ地中で動くことができる。まだ大陸が地続きだった頃何億年もかけて日本に渡ってきたと言う説がある。自分の子孫を残すのにどれだけ努力をしているのか・・・・気が遠くなる。見習い所だがそちらは間に合わない。残せるのは子孫だけではないので僕はそちらで頑張ることにする。
漢字が書けるようになったころ、父親に言われた。吉田の吉は農家の血をひくので(つち)土で武士ではないので(サムライ)士と書かないように・・・・。ずーっと守ってきた。先生から指摘されたこともない。だが数年前UFG銀行の口座を解約するとき上が長い・・・下が長いでもめたことが有る。初めて漢和辞典を引いた。サムライに口以外の漢字はない。
文字通りラストサムライになった。

腹立ち日記vol34 辞任

腹立ち日記vol34 辞任
安倍総理が辞任した。在位期間最長である。そうなる時期まで権力の椅子にしがみついていたと言ったほうが適切だ。「桜を見る会」問題等々一切説明もなく、臨時国会も開かず。あと一本ヒットを打てば名球会に入れる野球選手が現役続行するのとはわけが違う。その辞め方は納得できるものではない。だがこう言うと「お疲れ様といえ」「病人だから攻めるな」と一見常識的と思われる意見で反論される。一昔前、ジャーナリストが中東でアルカイダに捕捉され処刑された。自己責任論が噴出する。だが権力者には批判されにくい盾を利用しながら責任追及は一切されない。権力を持っていると言う事は権力を自分の利益のために使えることになってしまった。この特権を持つことが成功者の象徴となれば国民はそれに合わせて自己を形成する。僕が接する機会の多いjazz研の学生にもその兆候が見て取れる。他人から畏怖される事を希求する人間は人格への敬意を獲得することはない。
だが「人格への敬意」だけで飯が食えるわけではないのは承知している。ただ大きなパイに食らいつこうとするだけが幸せだと思わない人の割合が変われば社会の在り方は確実に変わる。

日本映画探訪記その8 大日本帝国

東条英機が主役でこのタイトルの東映映画と言う事になるといかにも人気のなさそうな映画と映るが必ずしもそうではない。東映はこの二本前の映画「八甲田山」で文字通り一山当てる。
この映画は日露戦争前のシベリア出兵を想定した冬季訓練を題材にしている。明治の戦争物は当たらないと言うジンクスを覆し大ヒットとなる。東映と言う会社は「極道の妻たち」のように一本当たると二匹目の泥鰌を狙いシリーズものにしたり同じタイプの映画を作る。「八甲田山」でシベリア出兵の訓練をしたからではないが実際ロシアと戦争をする「二百三高地」を制作する。これもヒットする。気をよくした岡田茂社長は何匹目の泥鰌を狙いに行く。「今度は太平洋戦争で行く。華々しく勝っている所を繋げて一本にしろ」と指示を出した。監督は舛田利雄、脚本は笠原和夫。「二百三高地」と同じコンビである。だが二人は社長の指示を守らなかった。華々しいところはシンガポール陥落の戦いだけ。サイパン島陥落、フィリピンでの敗走と凄惨なシーンが続く。「大日本帝国」と言うタイトルでは右からも左からも非難されるので戦争を知っているものとして伝えるべきことはちゃんと伝えると言う方針で制作したと舛田監督は言う。印象に残るシーンとセリフがあった。シンガポール攻略の戦いで抵抗していたのが中国人華僑の女性だったと知った時兵士は上官に聞く。
「せっかく欧米から解放してあげようとしているのになぜ日本に抵抗するのですか」
三浦友和扮する陸軍中尉はその答えをサイパンで理解する。白人であろうと日本人であろうと自分たちの土地を荒らすものは敵であると・・・・・。
この映画は日本の侵略戦争と言う面だけではなくアメリカの残虐さと言う面も表現している。民間人を助けるために投降を決意しジャングルから出てきた中尉が見たものはアメリカ人カップルがボールゲームをしている姿であった。だがその球状のものはボールではなく頭蓋骨であった。
玉音放送を聴いた国民が一言漏らす
「天子さまの一言で戦争が終わるのなら、なぜもっと早いときに言ってくれなかったんだべ」
ラストシーンはさあ、泣けとばかりに復員者と家族の再会のバックに五木ひろしのバラードが掛かる。手法は「二百三高地」と同じである。こちらはさだまさしが歌っている。

日本映画探訪記その7 野火

8月には戦争映画を見て確認したいことが有る。戦争映画はどこを切り取るかによってアクション映画にも悲劇にも喜劇にもロマンスにも政治ドラマにもなりえる。塚本晋也監督の「野火」と松林宗恵監督の「連合艦隊」を対比しながら考えてみたい。
「野火」は大岡昇平の小説が原作でフィリピンの傷病残留兵の物語である。戦闘らしき戦闘はほとんどない中での人間の在り方を問ている。余情的な映像は一切ない。これでもかこれでもかと凄惨は場面が続く。食事前に見るとしばらくは食事がのどを通らないかもしれない。だが見たほうが良い映画である。この映画を見ると命を失った兵士を英霊と呼ぶことがいかにそぐわないかそして残酷なことが分かる。英霊と祭り上げることは当時の精神文化を継承する行為になる。
「連合艦隊」は東宝が1981年に制作した戦争大作で丹波哲郎、森繁久彌、小林桂樹、鶴田浩二など当時の大スターが総出演している。ストーリーは真珠湾攻撃の成功、ミッドウエィ海戦の敗北、レイテ沖海戦、沖縄決戦前の戦艦大和の撃沈と進む。戦争映画は出演者も多くなり制作費もかさむ。東宝はゴジラを作った会社であり特撮には自信がある。戦艦大和を20分の1のサイズで実際大和を作った造船所に作らせた。だから戦闘シーンが威風堂々としたものに見えてくる。アクション映画としての戦争映画の一面である。監督の松林と脚本の須藤勝彌も海軍出身であるので生半可な映画には仕上げていない。同僚たちがどういう思いで戦っていたかを映画人として伝えることが使命だと考えていた。最後の場面で大和は撃沈される。バックには谷村新司のバラード「群青」が流れている。大和には財津一郎扮する航海士の曹長が乗船している。それを見届けるかのように一機の爆撃機が飛んでいく。特攻に向かう息子の中井貴一が搭乗している。「群青」の間奏の時、中井の語りが入る。
「お父様、ちょっとだけ長生きすることで最後の親孝行ができました。お姉さんお母さま、お達者で」
もう涙ものである。情話としても完璧である。だが通奏低音として流れているのは反戦であると思う。
大島渚監督はどういう視点でこの映画を見たかは分からないが「連合艦隊」に出た役者は絶対使わないと言って坂本龍一、北野武、デビットボウイを使って「戦場のメリークリスマス」を制作した。
クリント・イーストウッド曰く
「戦争を美しく語る者を信用するな。彼らは決まって戦場にいなかった者なのだから」

腹立ち日記vol33

兵庫県知事が感染者を出した飲食店は罰するべきとの見解を述べた。言語道断である。自分が「夜の街」で営業していて困るから言っているわけではない。政治家の資質を問うのである。
「店が感染者をだ出した」ことなど証明不可能である。食中毒じゃあるまいし味噌ラーメンの中にウィルスが入っているわけではない。人から人にうつることをまず確認しておきたい。完全防備の検疫官、医療従事者にも感染者が出ている。飲食店の対策で防げる領域には限界がある。だが知事は竹槍でB29を落とせと言うのである。そしてB29に爆弾を落とされた町は処罰され隣組から非難されるのである。軍国主義そのものである。

日本映画探訪記その6 夜の診察室

レンタルビデオ店に行くとついつい余計なものまで借りてしまう。これもその典型。決してお勧めしない。
この映画を頭髪が茫々だった頃映画館で見たことが有る。夜の悩みを精神科医に相談し解決していく過程の物語である。夜の悩みと言うのは僕も今直面しているトイレが近くなって夜良く眠れないという問題ではない。あっちの夜の悩みである。あっちってどっちだ…と聞くのは止めてもらいたい。あっちと言えばあっちなのだ。小学生の君はまだ分からなくてもよろしい。
松坂慶子のデビュー作である。19歳の松坂慶子がそこにいる。五番街夕霧楼や蒲田行進曲で見せる大女優の風格は微塵もない。パンパンにはち切れんばかりの女子大生なのだ。あれ、あまり綺麗でもないと思った。綺麗でないと言っても程度問題である。池田篤が時々口にする「僕、譜面強くないので」と言う発言を真に受けてはいけない程度に綺麗でないと言う事である。なぜこんな映画を見に行ったのかは覚えている。とうとう「こんな映画」と言ってしまった。夜のお悩みを解決する映画に松坂慶子が出ているのである。当然おバカ男子は期待するのである。監督も心得たもので「金返せ」と暴動が起きないようにサービスショットは用意してある。まあ、そういうコメディタッチの映画である。だが何十年もたってもう一度見ると発見することもあるものだ。松坂慶子は父親の病院で働いている。そこで患者の夜のお悩みを色々聞いて耳年増になっている。憧れの年上の作家がいる。何とか気を引こうと背伸びして病院で聞いたことをわがことのように話す。
オードリーヘップバーン主演の「昼下がりの情事」と同じである。ここでのオードリーはゲーリークーパーに恋をする。彼女の父親は私立探偵で浮気調査などのファイルが山ほどある。彼女はそれをこっそり見てわがことのように話すのである。父親役はモーリス・シュバリエでオードリーが恋をしているのを見抜く。有名なセリフがある
「恋をしている女の子はうつぶせで寝る」
こちらの映画は文句なくお勧めである。オードリーが食べてしまいたくなるほど可愛らしい。
「夜の診察室」はお勧めはしない。「見るなよ、見るなよ」と言われると見てしまう人がいるかもしれないが当局は一切関知しない。

Jazz紳士交遊録vol12

Jazz紳士交遊録vol12
臼庭潤
8月18日、一日早いが臼庭潤を偲ぶ会をやった。こういうご時世で臼庭縁のミュージシャンを呼んで追悼ライブを出来る状況にはない。せめて集まれる人間で音源をかけ臼庭の思い出を語り合った。臼庭の生を聴いたのは渋谷オーケストラが最初だと思っていた。その時の演奏はよく覚えていて頻繁に来てもらうようになったきっかけになったのだ。仲良くなってから臼庭に聞いたことが有る。
「最初に札幌に来たのはいつ?」・・・古澤さんのバンドだと言う。場所や編成を聴くと僕も聴きに行っている。だが臼庭の印象が全くないのだ。理由は分かっている。ギターの津村を初めて聴いた日でもあるのだ。津村が素晴らしくてすぐ米木に接点がないかどうか電話した記憶がある。そう言う事もあって臼庭のすばらしさに気が付くのが少し遅れた。ちょっとだけ申し訳なく思っている。
臼庭はlazyでライブレコーデイングをしてくれた。そのおかげでlazyが全国区になった。音だけ聞くと豪快だが心は繊細な奴であった。僕が主催しているjazz幼稚園というワークショップにも良くゲストで参加してもらった。臼庭だと色物企画も頼みやすい。カナダ人が歌う昭和歌謡やらモンクの曲に乗せて僕がフリーでラップを入れるという映倫ギリギリの企画にも付き合ってもらった。打ち上げで朝の5時まで駄洒落大会をやっていたことが有る。ネタが尽きたら終わりと言う事であったが勝敗付かず引き分けになった。一般の人が聞いたら典型的なおバカ男子と思うだろう。僕の駄洒落創作能力もこの時期に急速に伸びた。Jazzと同じで上級者とお手合わせを願わないと上達しない。
毎年命日に臼庭の妹さんが未発表の音源をアップしている。ぜひアクセスして聴いてやってほしい。https://ameblo.jp/ayakosblomster/entry-12618871836.html

臼庭の葬式に有志で花輪を出した。Lazybirdがディジーバードになっていたらしい。葬儀屋がガレスピーとパーカは知っているがコルトレーンは知らないという中途半端なjazz通だったのだ。列席していたミュージシャンから臼庭の葬儀らしく洒落が効いていると話題になった。
臼庭の音は僕の心にしっかり保管してある。

戦没者追悼式

8月15日。終戦記念日と言われている。なぜ敗戦と言わないのか・・・・。単なる言葉のレトリックではない問題が隠れており、そこ復興を遂げ、そして徐々に衰退していく今の日本の姿の胚芽がある。
「現在の平和と繁栄が過去の犠牲の上に築かれている・・・」安倍総理の式辞の一節である。
とするなら、未来の平和と繁栄のためには、現在の人間が犠牲になるべきだという話になる。国民に犠牲を要求する理屈はいろいろな場面に見え隠れする。現在のコロナ対策もしかりである。
総理は犠牲を尊ぶが、天皇陛下は失われた命を悲しんでおられる。

チャーリーパーカー・プレイズ・ボサノバ

チャーリーパーカー・プレイズ・ボサノバ
あれ、そんなレコードあったかな・・・と思った人はjazzのリスナーとしては上級である。コルトレーンの命日は正確に言えるがパーカーだと曖昧になる。そういう意味でパーカーのボサノバ物もあったかもしれないと思うのである。
メンバーはアントニオ・カルロス・ジョビン(p)ジミー・レイニー(g)ジミー・ギャリソン(b)ロイ・ヘインズ(ds)収録曲はワンス・アイ・ラヴド、コルコバード、ジンジ、ジャスト・フレンド他。人選も選曲も興味深い。ライナーノーツは村上春樹が書いている。ここまで書くと気づく人がいるだろうと思う。
そんなタイトルのLPは存在しない。未発表の音源が見つかりそのjazz批評を書くという体の小説である。村上春樹は実際jazz喫茶を営業していたこともあるのでjazzには詳しい。僕はこの小説のタイトルを見た時何となく構成の察しがついた。念のために言っておくがそのことがこの小説の評価を下げることには全くならない。僕はその文章を読んでいて実際音が聴こえてきた。
小説の中ではもう一段仕掛けが有って、主人公がその批評を書いた後ニューヨークに行く。立ち寄ったレコード店に「チャーリーパーカー・プレイズ・ボサノバ」のレコードが実際に有ったのである。主人公は誰かの悪ふざけと思い買わなかったがどうにも気にかかり翌日レコード店にもう一度足を運ぶ。だがそのレコードはない。店主に聞くがそんなレコード仕入れた記憶はないとにべもない。「ペリーコモ シングス ジミー・ヘンドリクス」ならあるよ・・・と言われる。おちょくられているのである。僕はこういう軽口が大好きだ。
タイトルだけなら何でもありだ
「スタン・ゲッツ プレイス Pファンク」
「マイルス・ディビス ニニロッソに捧ぐ」一にマイルス。二にロッソ。三、四がなくて・・・
「ジェフ・ベック アンプラグド禁じられた遊び」
「LUNA sings 昭和歌謡」あっ、これは実際の在る。9月1日。詳細後日。
村上春樹のアイデアに先越されたという感じ。
余談
僕は村上春樹の大ファンである。それを知っている米木は村上春樹が最初に店を出した国分寺の「ピーターキャット」跡に連れて行ってくれたことが有る。暫く立ちつくし感慨にふけった。その一番隅のカウンターで「風の歌を聴け」を書いていたのである。主人公の友人で「ネズミ」と言う人物が出てくる。これには実在のモデルがいることを米木から聞いた。米木は村上春樹本人から聞いたらしい。日本のjazzに相当詳しい人なら名前を知っているかもしれないが名前は伏せておく。
参考図書
「一人称単数」村上春樹の最新短編集
「チャーリーパーカー・プレイズ・ボサノバ」が読める。