ワインオープナー

半世紀前「私の彼は左利き」と言う歌謡曲が流行った。麻丘めぐみと言う紫式部の様な髪形をして福笑いのおかめの様な顔の輪郭をしたアイドル歌手が歌っていた。
指切りするときも投げキスするときも左利き・・・・みたいな歌詞であった。
これで僕が注目される時代が来たと子供ながらに思った。
僕は左利きなのである。
ところがそうはならなかった。中学校の普通の生活では僕が左利きであることを気が付く人は少なかった。
鉛筆と箸は右利きに強制されたからだ。ここから左利きの苦難の歴史が始まる。
直されなかったことは左でやる。ボールを投げること、ハサミ、じゃんけん、タバコ・・・・・
微妙なのは包丁だ。皮をむいたりは右でしかできないが、切ったりするのは左でしかできない。
だから桂剥きにした大根を千切りにするときは7回途中で包丁を「あとは頼む江夏」と言って黄金の左手に託すことになる。
なぜ、皮をむく時だけ右手になったか?記憶は定かではないが多分小学生の時直されたのだ。当時家庭科と言う授業があって簡単な料理を作らされた。こふきいもを作る時刃の向きの関係で「左で皮を剥くと危ないよ・・・」と言われたのだと思う。
このことが思わぬ波紋を呼ぶことになる。
店でワインのコルクを抜くことがある。瓶のシールをナイフを使って右手で剥く。次にコルク抜きを左に持ち替え左にスクリュウーを回しコルクを抜くという作業になる。この作業が見る人によってはひどくぎこちなく見えるらしい
。見かねた常連のNさんが左利き用のソムリエナイフを買ってきてくれた。先日Nさんが来た時新しいボトルを抜くことがあった。頂いたソムリエナイフで華麗にコルクを抜く予定であった。シールを左手で剥く時違和感があった。考えたら剥く系の作業は右でしかやったことがない。それでも何とかその作業はやり終えた。ところがスクリューが刺さらない。見ると螺旋の向きが今までと違う。左手ではそちら向きには急には回せないのである。これは左ハンドルの車に乗った時の感覚に似ている。
早くワインを出さなくてはならない。Nさんには今度まで練習しておきますと詫びを入れ昔のコルク抜きで栓を抜いた。
Nさん一言「金返せ」
考えると今年卒業したバイトのS太もワインの栓を抜くのが下手だった。見かねたSさんがいつも「抜いてあげようか」と声をかけてくれた。
そういう事で左利きと言うのはストレスがたまるのである。寿命が9年も短いという学術論文も発表されている。
マリリンモンロー、ピカソ、チャップリン」も左利きだそうである。
マリリンモンローが「私の私の彼は・・・・・・左寄り」なんて歌ったら鼻血ブーです。

参考図書
「左利きは危険がいっぱい」スタンレー・コレン著

なんとなく vol8

初めて買ったjazzのLPは今でも覚えている。ケニーバレルの二枚のLPがカップリングされたあまり有名ではないLPだった。🎸ギターでjazzを弾いてみたいという欲求が目覚め始めた頃だ。何も知識がないままレコード店でライナーノートを読み、試聴をくり返しどれを買うか二時間ほど悩んでいたことを覚えている。昼食を抜いて同級生の女の子のおにぎりに縋りながら買うのである。慎重にならざるを得ない。そのLPに入っていた「テンダー ジエンダー」と言う曲が大好きになりそれこそ死ぬほど聞いた。バレルのアドリブも歌えるようになり、会社を辞めてから本格的一歩手前の熱意でjazzギターをやるようになった時にはバレルのソロをコピーで弾けるぐらいになっていたのは高校の時散々聴いたからなのだ。jazzにはよくわからないが憧れみたいな感情が芽生え始めていたがそれは大人のお姉さんをこっそり好きになるのに似ていた。PPMを聴き、返す刀でCSN&Yを聴き、返り血浴びながらJazzを聴くという多感な時期を迎えていた。それもちっともうまくならないサッカーをやりながらの話だ。少年には時間が不足していた。
ある時軽音楽の団体であるSING OUTにNHKから高校生のフォークグループの番組を作るので出演依頼が来た。一緒にやっているO沢の以前やっていたグループが出ることになった。「お前ベースやれ」とお鉢が回ってきた。曲はPPMの「ロック天国」。ボブディランがエレキも持ってフェスティバルに出てブーイングを浴びて以来フォークにも新しい波が押し寄せつつあった。テレビに出るという事は高校生にとっては一大事である。
だがベースと言う楽器は弾いていて上がらない。どうせ低い音でボンボンやっているだけだから皆分からないだろうという舐めた考えを持っていた。ライトがまぶしかったのを覚えている。ステージ衣装はレンガ色のタートルネックセーターを着た。カレッジフオークの定番衣装である。
オンエアーの日土曜の確か一時からだった。ビデオデッキなどない時代だ。すべてを目に焼き付けようとテレビの前で待っていた。あれ、白黒放送だ・・・・レンガ色のセーター買わなくてもよかった。

孤独の発明その2

前回勝手に歌って勝手に寝て、帰ったお客さんのことを書いた。楽しい時間ではなかったし、迷惑もしているのだが何故か憎めない。
「寂しんいんだ・・・」と言った一言が気になっている。
社会的に孤立した高齢者が抱くネガティブな感情・・・・。
地震のあった直後店の前にパトーカーが来ていた。昼下がりのことである。二階の昼カラの店の前に男が座り込んでいる。もうだいぶ酔っているようである。警察が来ているという事は無銭飲食なのかもしれない。
「お客さん、家に誰かいないの」
「俺はだれもいない独りぼっちさ」
「モテそうな顔しているけどね」
警官とのやり取りである。
地震の直後である。不安感から昼からカラオケ屋で飲む以外に孤独を癒す方法がなかったのかもしれない。
こういう人たちは社会的に声を上げるすべを知らない。店に来て「俺はさみしい」と声を上げているかと思うと無下に扱うのに躊躇することがある。24条界隈はこういう人が多いのである。
僕はSNSの類は全くやっていないが、ネット上でつながっているときだけが生き生きとしている若者が多いと聞く。スイッチを切ったとたんに孤独にさいなまれるという。どちらが実社会でどちらが仮想社会か分からない「トータルリコール」のような社会になっている。
例えば僕が死ぬとする。病院で死ぬ以外は今住んでいるところで死ぬと家賃滞納で不動産会社の人が発見するはずである。すると僕が孤独だと思って死ぬかどうかは別にして「孤独死」と呼ばれることになる。
これはもう社会問題ではないですか。

参考図書
「孤独の発明」P・オースター 勝手にタイトル借りました
「断片的なものの社会学」岸政彦  社会学とついているが論文ではないので読みやすく、社会の底辺で生きる人の姿が生き生きと描かれていて感動します。

演歌歌手

週初めにライブのない日が3日続く。優勝が決まったプロ野球の消化試合のように気合が入らない。早い時間に常連が来なければ完封も覚悟しなければならない。7時・・・・誰も来ない。半分諦めて池田聡太の棋譜を研究していた。曲がりなりにも客商売なのに志が低いのは自分でもわかる。そういうところに商売の女神は訪れない。
8時過ぎ、NとUが来た。Uは数年ぶりだ。二人で寿司を食べてきたらしい。直後ドアーが全開に開かれ「一杯飲ませてくれるかい」と男が入ってきた。深夜であれば「もう閉店です」と絶対店に入れないタイプの客である。男はNと親しげに話している。他のお客さんもいない。知り合いであれば仕方ないと思い頼まれるままにビールを出した。男は「歌わせてくれるかい」と言う。「うちはカラオケはないんです」「ピアノがアル・ジャロウ」まずい。Nはピアノが多少弾ける。素人同士のナマオケセッションほど辛いものはない。だがそうはならなかった。男はいきなりアカペラで「北の漁場」を歌い出した。バックはオスカーピーターソンとミルト・ジャクソンが勤めている。Uとここ数年の近況の話をしている間、男は演歌の名曲を次々と歌い続けている。「知り合い」とUに聞く「俺は知らないです。Nさんの知り合いじゃないんですか」Nは「うまい」とか言って調子を合わせている。30分もしないうちNは早い時間から飲んでいたのであろう、突然、「眠い、帰る」と言い出す。我儘なのには慣れているがカラオケおじさんも連れて帰ってくれるようお願いした。「知らない人だし・・・・」え!知り合いだと思って入れたのに・・・
その男と二人になってしまった。いや、他のお客さんが居なくてよかったともいえる。
「俺間違っているかい」唐突に聴かれても何を言っているのか全く分からない。答えに窮していると「どこが間違っている」と追い打ちをかけてくる。
「間違っていないと思いますよ」
「そうだよな、酒は楽しく飲まなきゃな・・・」
クレィジーケンバンドではないが典型的な「俺の話を聞け」タイプだ。そうゆう輩に限って話が全く面白くない。
同じ話を何回かするとまた歌い出す。瀬川瑛子だ。多分。歌うと前歯が一本抜けているのが見える。
そうこうしているうちにカウンターに突っ伏してしまった。被っていたキャップが脱げた。白髪頭で頭頂部分がシベリアのツンドラ地帯のように何もない。70歳ちょっと手前であろうか。
流石に寝られるのは困る。軽く揺する
「もう帰った方いいですよ」
むくっと起きて金払うという。財布の中身を全部カウンターにぶちまける。三分の一が切れてない千円札と後は小銭だった。小銭をかき集めて1600円頂く。
「お姉ちゃんのいるところに行きたいのだけれど、金がちょっと足りなくて・・・・」
だいぶ足りないかも知れない。
男はボソッと言った「俺、寂しくて」
情が移りそうになる。
「また来て良いか」
「いいですよ」帰る時は気持ちよく送るのが礼儀だ。

適材適所

適材適所
第4次安倍改造内閣、自民党役員の顔ぶれが決まった。個別の人事に興味があるわけではないが適材適所と言う言葉は死語らしい。当選回数と派閥の意向がいつになく色濃く反映している。不祥事を起こした面々も留任或いは再登場だ。数々の失言、森友問題での不祥事の張本人麻生副総理が留任。金銭授受問題で追及され健康問題を理由にほとぼりが冷めるまで一線から姿を消していた甘利明が選対委員長、あの自衛隊情報隠蔽問題で辞任した稲田朋美が副幹事長。この内閣が国民をどこへ連れて行こうとしているのかは想像がつく。そして道徳の教科書で「お友達を大切にしよう」と子供たちを教育するはずだ。間違った価値観で・・・
まとももに勝負しない投手と、ライトしかいない守備。右打者ばっかりなのに、内角も引っ張れない打者たち。そんなチームで、野球になるのだろうか?
人事が発表になる時間NHKラジオを聴いていた。大臣の辞令が下りるたび臨時ニュースが流れる。地震情報ではないのだから必要ない。最近のNHKの方針はおかしい。沖縄知事選で玉城デニー氏が勝利した日、貴乃花問題の方が報道時間が長い。あそこにも安倍総理のお友達が経営委員として送り込まれている。
トランプのアメリカでさえニューヨークタイムズの一面に沖縄知事選の結果の報道が載っていた。

辛酸震災詳細日記その9

10月1日
昨日、今日と震度4程度の余震があった。あれだけの揺れを経験すると「まあ、この程度ね」と思ってしまうから怖い。揺れの時間が短ったので実家でも物が落ちることはなかったようだ。あれから3週間ほどたつ。もうお客さんと地震の話になることはないが、震源地に近い厚真町では今日から仮設住宅への入居希望者を募るという事だ。最長2年無料で入居できる。あちらでは復興は始まったばかりだと改めて思う。電力行政の方針もまだ決まっていない。震災で割れたり壊れたりで余計な出費もかさんだが、バタバタして電気代を払うのを忘れていた。が、流石に今回はすぐには止めに来ない。鬼の目にも涙と言ったところか・・・・ついでなのでどこまで引っ張れるか試してみようと思う。
実家の断捨離が僕の腰痛のせいもあってなかなか進まない。母親からは「近くにいてくれてほんとに助かったよ」と言われるがこんな時にしか親孝行できない自分をふがいないと思いつつもっと重要な事実をひた隠しにするのである。それは僕にも災難が降りかかるかもしれないという事である。
二日ほど前になるが新聞の集金のお母さんが来た。
「地震大丈夫だった」と聞くと
「二階のもの落ちたけど、大丈夫だった。でも一人暮らしだから心配だったよ」と言う。
母親よりは若いと思うが80歳は行っていると思う。
「手伝えることがあったら言ってね」
「ありがとう」と顔をクシャクシャにして笑顔で答えてくれた。
日ハムが勝っても勇気や感動をもらうことはないが、このお母さんには勇気をもらう。

ウチナンチュウの思い

地震と台風が交互にやってきて人を翻弄する中、人が組織に勝利した出来事があった。沖縄知事選である。
玉城デニー氏が政権支援候補佐喜真淳氏に勝利した。基地問題を争点からぼかし、携帯電話料金の値下げなど金で釣る作戦に出た候補が敗れた。ウチナンチュウの思いを感じた。故大田昌秀沖縄知事が「沖縄は日本ですか」と記者団に問いかけた。基地問題を沖縄だけの問題にしては駄目なのだ。北海道にもオスプレイが飛来した。凄い騒音だったと聞く。恒常的に生活、安全が脅かされることを想像しなければならない。他人事ではないはずだ。現政権は選挙結果には関係なく辺野古移設をすすめるという。玉城デニー氏は県民投票を実施して徹底抗戦に出るらしい。応援したい。
二度ほど沖縄に行ったことがある。本土ではなかったが、それでもあの透き通る青い海とサンゴ礁がコンクリートで固められてしまうのだと思うと心が痛む。
朝鮮半島の情勢も大きく変化している。イージスアシュアなど本当に要るのか。ネットショッピングで「ポチッ」と押すような感覚で言いなりに高い買い物させられている。新しい基地を作る必要が本当にあるのか、もう一度考えてみたい。

何となくvol7

初めて聞いたjazzのコンサートはWeather Reportだった。よくは分からなかったが記憶だけははっきりしている。ミロスラフ・ビトゥスが大男で弾いたラインは聴いたことがない種類のものであった。でもこういう音楽が分かるようになりたいと思ったことは覚えている。今音楽を提供する店をやっているが、コルトレーンの音楽に感動してのめりこんだわけではないことが改めてわかる。少しづつ舵を切っているうちに今に至ってしまったという感じがする。何かを分かりたいという欲求は止め処もない。では「わかる」という事はどういうことか。そのものの世界における位置を言い当てることである。そんなことか可能かと問われる。問題はできるかどうかではないのである。論理はいきつくところまで行くのである。でも行き過ぎると戻ってこれなくなるのでぎりぎりでこちらに引き返してくる。そして音楽を楽しむ。だがフーテンの寅さんのように又「音楽が分かる旅」に出かけるのである。
米木のベースと35年付き合っているがまだよくわからん。

辛酸震災詳細日記 その8

9月9日
自宅から1kmの距離のところの道路が陥没している。地震の後気持ちの悪いほどの晴天続きだ。抜けるほどの青い空にアップリケ刺繡の様な積乱雲が所々に張り付いている。考えてみると地震の前は台風が来ていたのだ。毎日飲んでいるわけではないのだがその日も飲んでいた。風が強くなっえ来たなあと思った瞬間、「バーン」という割れる音がした。店の行灯が片面飛んで中の蛍光管が道路に飛び散っていた。見ないことにする。覆水盆に返らず。別れた彼女は戻っちゃ来ない。イスラム教では皿が割れた時はその皿は割れる運命にあったと考える。僕はイスラム教信者ではないが、なんとなくわかる。
天災が続いたからなのか、僕がある年齢になったからなのか分からないが、宗教心が芽生えてきた。キリスト教、浄土真宗、ヒンズー教とかの特定の組織的な会派ではなく、もっと土着的な思いである。自然を畏れ、自然を敬う。
古今亭志ん生の落語の枕でこんな話がある。
「長生きしようたって、思うようにはならない。人には寿命ってものがあるんですから。酒もたばこもやめて、健康になったと思ったら,太っちゃって、車にぶつかちゃ何にもならない」
自転車に乗れる好天と健康に感謝しつつ今日も食事を配達するのである。

辛酸震災詳細日記 その7

9月8日
僕が起きた時には米木は電話中であった。ベースケースの手配である。オペレーターにつながるまで1時間半かかったという。東京、札幌に電話が集中するので沖縄が狙い目らしい。プレイだけではなく手配も百戦錬磨だ。どうやら今日中には帰れそうだ。朝食が最後の晩餐になる。食後買い出しに行く。鮮魚、卵、納豆、牛乳はどこへ行っても品切れだ。買い出しに行く途中、二人の方から「おはようございます」と声をかけられた。知らない人だ。普段から、そういう声をかける方なのかもしれないし、停電を一緒に乗り切った同胞への挨拶だったのかもしれない。勿論僕も「おはようございます」と挨拶を返す。電気がつくだけで世の中かなり明るくなる。
母親のところへおかず持参で後かたずけに行く。右手がほとんど使えない。それでも余震が収まり、電気が付くと表情が明るい。僕もこの程度で済んだんだから良しとしよう・・・・と言う方向に話をもっていく。「そうかもしれないね」という事になる。年寄りが愚痴りだすとデフレスパイラルに陥ってしまう。それを防ぐためだ。
それにしても実家にはいらないものが多すぎる。今、断捨離を兼ねて片付けているがまだまだかかりそうだ。
米木はやっと夕方の飛行機が取れたようだ。何があるか分からないので早めに店を出るという。
「いろいろあったけど、ありがとう」とがっしり握手をする。いつもより力がこもっていた。
「何か手伝うけど・・・・」と何度も言われたけれど犬でもできるお使いぐらいしかない。
それでもああいう時、誰かがいるとちょっと安心する。
僕が誰かを助ける。それが回りまわって誰かが僕を助けてくれる・・・・そんな循環コードの様な共生社会になればいいなあと思う。今回のようなことがあると・・・・。