最近、早稲田構内で1969年の山下洋輔トリオの演奏を再現するという企画があった。発起人が村上春樹であると言う事も含めて意外な感じがした。1969年は学生運動が収束に向かう年であってどの大学も学内は騒然としていた。安田講堂が陥落し、三島由紀夫が東大全共闘の誘いに応じ単身対話集会に参加した。このやり取りはドキュメント映画になっている。のちに東大総長になる文学部部長であった林健太郎氏は5日間にわたり学生に監禁され一歩も引かず対話し続けた。この方が米木の奥さんの叔父にあたるのを知ったのはずいぶん後の事になる。早稲田構内も各棟が違うセクトに占拠され何かあれば一触即発といった状況であった。映画「ノールウェーの森」にはその一端が映し出されている。そんな早稲田構内で山下洋輔トリオが演奏する。当時の仕掛け人は田原総一郎でドキュメント化されテレビで放映された。対立するセクトの中での演奏は空気が張り詰めているのが分かった。この演奏で山下洋輔は反体制派の象徴として持ち上げられ時代の寵児になった。このレッテルがその後の山下洋輔に負担をかけることになる。ドラーマーの森山威夫もトリオ脱退後、自分のグループで来た時には「あれは音楽ではないと思った」と何度も発言している。以外に思った山下サイドの話だ。
村上春樹はピーターキャットというjazz喫茶を国分寺でやっていた。いつもカウンターの隅っこで原稿を書いていたと米木に聞いた。村上春樹の小説によく引用されるミュージシャンはスタン・ゲッツである。後エピソードとしてニューヨークでトミー・フラナガンのライブに行った時「スタークロストラバァー」を聞きたいと思っていたらそのメロディーが流れてきてびっくりしたと書いている。そして日本人アーティストで好みなのは大西順子と佐山雅弘である。
大体音楽の趣味が分かろうというものだ。僕は全作品読んでいるが山下洋輔さんやセシル・テイラー、アルバート・アイラーについて書いているものを知らない。それで山下さんを担ぎ出したと言う事が意外に思った。
閉塞したこの時代に風穴を開ける音楽を・・・・という主旨らしい。本人の弁である
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Jazz紳士交遊録vol25 井上淑彦
8月5日の正午のNHKニュースで統一教会と自民党の関係が初めて流れた。最後の項目で其れも議員の発言をそのまま流すだけの2分ほどの時間で何のコメントもない。元NHK会長籾井会長が嘗て「政府が白と言ったものを頃と言うわけにはいかない」と発言して国民から受信料を徴収しながら政府広報になり下がった伝統を引き継いでいる。NHKしか見てない人がいるとしたら福田政調会長の発言「何をそんなに騒いでいるのか分からない」を真に受けるかもしれない。このセリフを聴いた時沢尻エリカの名セリフ「べつに・・・」を思い出した。
おいおい、NHKと井上何の関係があるのだと言われるかもしれない。僕はNHKのニュースを聞くと井上を想い出すパブロフの犬に近い。その種明かしは最後にする。
井上は2015年膵臓がんで既に鬼籍に入っている。僕が引き継ぐことになるGROOVYのマスターが森山威夫さんのグループをよく呼んでいたので若い時から知っている。最初に来てもらったのはベースのチンさんのグループで40年ほど前になる。そのグループにはその後も付き合う事になる秋山一将、セシル・モンロー、内田浩誠がいた。セシルと内田も鬼籍に入っている。(セシルが鬼籍に入ると書くと宗教上の違和感を感ずるが置いておく)
井上はキャノンボールやロリンズに影響を受けたとしているが知り合った時はクールに燃える領域に入っていると感じた。ボブ・ミンツァーについて熱く語っていたのを想い出す。
井上と面識ができたので藤原幹典と二管で来てもらえる企画を考えた。その時点ではもう活動していなかった金井英人さんのquintetを再結成してもらう事であった。井上の尽力で一日だけの札幌公演が実現した。金井さんは厳しい人と聞いていたが僕に対しては温厚な好々爺的にふるまってくれた。リクエストがあるかと聞かれた。僕は基本的にリクエストをしない。金井さんは「アランフェスなんかやったほういいですか」と聞いてくれた。スリー・ブラインド・マイスレーベルの名盤に入っている。せっかくなのでお願いした。後は十八番のミンガスの曲が多かった。それが縁で井上には新しいグループを組んだら必ず札幌に来てもらう様になった。そして札幌のメンバーともセッションをやってもらう事になる。その中でいくつか事件があった。チュニジアの夜をやっている時である。後テーマに入る前のダーバダ・ダーバダダバダダと言うリフを繰り返し盛り上げている時ドラムのT山がテーマに入る前に曲を終わらせてしまった。井上はMCで「終わってしまいました」と言っている。T山は全く気が付かず次の曲の譜面を用意している。次の瞬間冷たい視線に気が付き事の重大性に気が付き冷や汗が流れたという。同じ日ギターのO本さんがソロを弾いている時井上がO本さんに何度か話しかけてO本さんもそれに答えている。構成確認の話ではないのは何となく分かる。打上で聞いてみた。
「ギター高い・・・」
「そんなに、高くないです」
「ギター高いよ」
「安物です」
O本さんはソロ中に何で井上がギターの値段を聞くのかと思ったという。ピッチの話である。それに気が付いた時O本さんも冷や汗が流れたという。その二本立ての話を聞いた時僕も冷や汗を感じた。井上は音楽的にもロリンズの影響を受けたが時々雲隠れをするところもロリンズに似ている。その原因はロリンズとは違うが音楽的ではないことも含まれると知ったのは後の事である。佐山雅弘のバンドで一週間道内のツァーに付いて行ったこともある。池田篤、米木康志、村上ポンタ、そして井上である。引率者としては大変だった。1週間一緒に居ると人間性も見えてくる。井上のかっこ悪い所も見てしまった。池田が学生の頃井上にサックスを習っていた。一切指導料は受け取らなかったという。米木も二人とも全く無名の時アケタの店でセッションを重ねていたらしい。井上のグループで米木にも何度か来てもらった。アントワー・ルーニーをやる予定だった時がある。折しも9・11事件と重なりアントワーが出国できなくなった。米木と相談して僕が希望する3人のサックスプレイャーが空いている場合だけやることにした。幸い井上だけ空いていた。井上もベースが米木ならやると言ってくれた。二人の信頼感を感じた時だ。井上が何度目かの隠遁生活に入っている時グルービーの周年記念があった。僕は井上の事は念頭になかったが米木が僕が声かければ出てくるかもしれないよ・・・といった。「出てくれば俺一緒にやってもいいよ」と言ってくれた。だがその時は連絡が取れなかった。この話にはコーダが付く。米木は付け加えた。「井上と演奏するのはいいけど、打ち上げは出来るだけ短くして」
何でと聞いた。「あいつの話は型どおりでNHKのニュースと一緒でつまらないんだよ」
確かに洒落は全く通じない。打上の乾杯の時紙コップを出すと不機嫌になると米木から聞いた。試してみた。他の面々にはグラスを出し井上だけ紙コップにしてみた。「何これー」と定番のNHK的な反応をした。米木は「だろう・・・」と言う顔をして笑っていた。
これがNHKのニュースを見ると井上を想い出す理由である。
付記
僕は横浜の街に憧れがあった。矢作俊彦の小説に出てくる街並みをくまなく歩いてみたいと思っていた。最初の勤務地は千葉であったが休みの日横浜まで出かけ石川町で国電を降り関内、桜木町、元町を歩き回っていた。元町のアーケード街狭い階段を上ってみた。登りきったところを右に行くと横浜高校があった。まだ松坂大輔はいない。ロッテに行った愛甲の時代だったろうか・・・・
海の方に戻り先ほどの石階段を通り過ぎると民家があった。そこをもう少し行くとフェリス女学院。深呼吸すると海の香りと「夜間飛行」の様な上品な香水の香りがした。もう少し行くと外人墓地と港が見えるガ丘公園である。問題はその民家である。その時から15年ほどたつ。僕は札幌勤務で東京に出張があった。折角なので前乗りで行って都内でライブを聴いてそのミュージシャンと飲みたいと思っていた。井上に連絡した。その日六本木のアルフィーで演奏があるが車で行くので家で飲まないかと誘われた。甘えることにした。井上が横浜に住んでいるのは知っていた。着いて驚いた。たまたま15年前に知っていた民家だったのである。翌朝窓を空けるとフェリス女学院のテニスコートがあった。「ハイ」「ハーイ」という快活ではあるが上品な掛け声が聞こえてくる。暫く見とれて会議に遅れそうになった。
ケジメ
選挙が終わって意気消沈している時に山田玲がやって来た。日本の行く末を一市民として本当に心配しているが1週間音楽に逃げてしまえと思った。店の命運をかけてのレギュラーグループ初のクインテットである。変幻自在、圧倒的な印象を残して終えた。リズムセクションの古木佳祐と山田玲には前乗り、居残りをしてもらって札幌のミュージシャンとセッションもやってもらった。二人は日本のレジエンドのグループのバックもいくつか務め20代のバリバリのメンバーともセッションを重ねている。引き継ぐべきところは継承しそれを新しい感覚で処理している。札幌のメンバーがそれによって化学反応が起きるかどうかを見るのが僕のもう一つの楽しみである。その辺のところも色々書くこともあるがリハビリで取りあえず文章にしておく。
米木をめぐる冒険
村上春樹の初期3部作には元ネタがある。レイモンドチャンドラーの「ロング・グットバイ」である。ロング・グットバイにも元ネタがある。スコット・フィッツジエラルドの「グレート・ギャッビー」である。主人公とその友人の関係性の中で物語が成り立っている。ギャツビーは主人公とギャツビー、ロング・グットバイはフィリップ・マーロウとテリー・レノックス・・・・。村上春樹の初期3部作は僕と友人「ネズミ」の関係性で物語が紡がれていく。「羊をめぐる冒険」はその3作目にあたる。僕と米木の関係性がこれに似ているとふと思った。
米木に1週間来てもらっていた。米木はとにかく忙しい人だ。年金受給者の中では日本一忙しいはずである。今回のスケジュールを貰ったのも8カ月ほど前である。札幌のミュージシャンとやってもらうのが主眼である。レギュラーでやっている大石とスケジュールが合ったのは偶然である。僕は米木と40年ほど付き合っている。最初はレギュラーグループのライブを主宰するところから始まった。ある関係性ができたころから札幌のミュージシャンとやってもらうお願いをするようになった。当初はその人の音源を送り自分の意図を説明した手紙も書いた。最低限の礼儀と思っていた。ある時から、それは多少信任を得たころからだが「また。やってよ」「ああ、いいよ」と言うやり取りに替わっていった。いくつか条件があった。レギュラーグループで来ている時はそのライブで東京に返して・・・ということがまずあった。楽しいからレギュラーでやっていると言う事である。そのイメージで帰りたいと言う事であった。はっきり言うとセッションはレギュラーより楽しくないと言う事である。勿論大人なのでそんなことは言わない。「楽しかったよ、又やろうよ」と言う事になる。だがそういう危険な通奏低音が企画全体に流れていると言う事である。失敗した組み合わせもあった。その時はちゃんと誤っている。ではなぜ面白くないかという本質的な問題になる。米木は言う。上手い下手は関係ない・・・。そこにその人がいるかどうかだ・・・と。今回の1週間。初日が社会人Yとのデュオであった。米木は本当に楽しかった。今回来た甲斐があったとまで言った。言われたYも恐縮していた。僕はすべての日が前回より良かったと思っている。米木の言っていることが分かるまで聴き続けたいと思っているので今回もセッション卒業させてほしいとの申し出があったが「ダメ」といった。米木は凄いベーシストであるが器用ではない。そんなことは知っている。「毎日違うミュージシャンと違う曲やるのって大変なんだよ」と毎回言われる。そんなことも知っている。そんなことも知って頼む僕の考えも米木は知っているはずである。
BSTとBTS
「今日は一日BST三昧」と言うラジオ番組があった。・・・と思った。流石NHK、報道番組は政府の広報と化しているが時々良い番組を制作するときがある。BSTはblood、sweat&tears
の略で半世紀前に流行ったブラスロックグループの草分けで僕にとってはロックからジャズへの橋渡しをしてくれた重要なグループである。ライバルのシカゴの様にヒット曲は多くないが当時の腕利きのスタジオミュージシャンが集まって結成された進歩的なバンドであった。ランディ・ブレッカーやジョー・ヘンダーソンも在籍していたことが有る。一曲目には多分「スピニングホィール」が掛かるはずである。ラジオのスイッチを入れた。MCとゲストの雰囲気が何か違う。BSTを語る雰囲気ではないのである。一曲目が掛かった。ラップ調の曲で歌詞はハングル語の様だ。新聞の番組欄を見直す。BSTではなくBTSであった。そうだよなあと思う・・・。BSTでは一日は持たない。皆さんは御存じないと思うが世の中にはスマホと言う便利なものがあって知らないことは何でも教えてくれる。使用歴半年の僕は先生に教えを乞うようにスマホに話しかける。「BTSについて教えて」・・・出てくる出てくる色々な情報が・・・韓国の7人組グループで2021年のアメリカンミュージックアワードで3部門を制覇した人気ユニットであるらしい。写真も載っていたが見ためもかっこ良い。これも何かの縁である。暫く聴いてみることにした。少なくともラジオのスイッチを切りたくなるような音楽ではなかった。ハングル語で歌うヒップホップが妙な違和感を残し印象に残るのである。多分ハングル語はラップには適さない言語の筈である。それを克服して余りある何かがここにはある。ラジオなので映像はないがダンスもキレキレであるらしい。一昔前Jポップが東南アジアを席巻していたようにKポップが何倍のクオリティで世界を席巻しつつあると聞いた。それはあたかも日本の国力と韓国の国力の差を象徴しているかのようである。ジャーニーズ事務所のグループやAKBとは音楽のクオリティが違うと感じた。
せっかくBSTを想い出した。こんなヤクザな道に誘い込んだグループを半分怨みつつ、半分感謝しつつ明日は店でレコードを聴いてみよう。
バブルガムミュージック
日曜の夜村上春樹がDJを務める「村上RADIO」と言うラジオ番組がある。今週の特集は「bubble-gum music」。バブルガムブラザーズと言うグループもあるので何となく想像はつくがこういうジャンルがあることを初めて知った。68年から70年初期に流行したキャッチーなメロディ。シンプルなコード、能天気な歌詞のポッソングの総称だ。そのほとんどはプロデューサーのなんとかさんとシンガーソングライターのなんとかさんが制作したものであるらしい。こういうところでは知ったかぶりはしない。かかる曲は聴いたことが有るし、グループ名も何グループかは知っている。レコードは一枚も持ってはいない。だが知っている。と言う事はかなりヒットしたと言う事である。時代はベトナム戦争があり大学紛争があり、激動の時代である。音楽界はジミヘンやドアーズやツェツペリンなどアート志向の音楽が主流だと思っていた。ところがヒットしていたのはバブルガムミュージックだったのである。その落差に改めて驚く。一曲目がかかった。「何とか」の「何とか」と言う曲であった。村上春樹は曲紹介で何度も念をおす。「本当に軽薄な曲ですから・・・」どう考えてもこの辺の音楽が重要と考えてかけているとは思えない。1910フルーツガムカンパニー、アーチーズ、オハイオエクスプレス、50年以上前の音楽であるがよく覚えている。これらのグループは山谷の日雇いの様にかき集められたスタジオミュージシャンがフライドポテトを上げるように『一丁上がり』とヒット曲を量産していく。メガヒットしたグループはそのままレギュラーグループと化しワールドツァーにも駆り出される。1910フルーツガムカンパニーも来日したらしい。対バンはピンクフロイド。舌平目のムニエルに食べ放題のキャベツが付いてくるようなひどい組み合わせだ。いくら激動の時代とは言え「まあまあ、あまり肩ひじ張らないで楽しくやりましょうや」という人種は少なからず居ると言う事である。これはいい悪ではなく。事実である。本当に能天気な歌詞の曲があった。浜辺に座って綺麗な姉ちゃんの胸と尻を見ていりゃ最高さ・・・その時何万キロ離れた海岸には海兵隊が上陸している。村上春樹はジヤズの店を経営していたのでジャズは詳しい。一部のロックも詳しい。クラシックも詳しい。この種のポップス音楽に詳しいのは学生時代レコード店でバイトをしていたことによるらしい。
ロシアがウクライナを進行している時に何故「バブルガムミュージック」なのか。いつの時代も能天気な音楽は存在する。それは音楽における民主主義と呼んでよい。それとたまには気軽な音楽で気晴らしようよ。二つの意味で春樹さんは「バブルガムミュージック」を選んだのではと思っている
ライブレーポート代筆
レィジー公式記録員の牛さんが雪害で来店不能になり代わりに感じたことを書き留めておきたい。
山田丈造5daysが終わった。主催者の思惑としては2点ある。丈造に故郷に錦を飾ってほしい。ワンホーンで丈造のトランペット自体の進化状況を見極めたい。もう一点はレギュラーで動いてるベース古木佳祐とドラム山田玲のコンビネーションを味わいたいと言う事である。ここ数年まともなトランペットは松島啓之しか聴いたことがない。ステージにトランぺッターが立つとパブロフの犬の様に松島の音色が思い浮かんでしまう。ハードルは高い。ここ何回かの丈造は楽器そのものが鳴っている気がした。早いパッセージを吹いてもペラペラがない。丈造自身でワンホーンでやることはあまり無いという。サウンドが作りずらいと言う事であった。そういえばtpのレジエンドのアルバムは少ない。リー・モーガンは「キャンディ」一枚。マイルスも少ない。ガレスピーは思い浮かばない。言いたいことは分かる。ワンホーンが多くなるのはチャールス・トリバーや日野皓正が出てきてからだ。新主流派の流れに即応している。第一トランペットは唇に負担がかかる。一人で吹き切るのは大変だ。まして5日も続くと水蛸に唇を吸い続けられる状態になる。知らんけど・・・。「自分のグループをワンホーンでやり続ける松島さんは凄い」と丈造も賞賛していた。
リズムセクションの二人は大野俊三さんとか山口真文さんの様な大御所のバックを務めながら同じ世代の人間とギグを重ねている。年長者の芸を引き継ぎながら同世代の息吹を吹き込むと言った理想的な活動をしている。それで二人とも引っ張りだこだ。勿論丈造Gのリズムセクションでもある。何が起きても拾えあえる信頼関係が聴いていても判る。インからアウトまで変幻自在である。又この二人のコンビネーションを聴きたくなり山田玲のリーダーグループ「ケジメコレクィブ」を7月に呼ぶ約束をしてしまった。