店には客がまだ二,3人しかいなかった。リハーサルが終わったのであろう、ミュージシャンらしき人物が店の片隅で談笑していた。その中にその娘はいた。くわえタバコで譜面を見ていた。一瞬目があった様に感じた。誰かに似ていると思った。
このjazz barに来るのは初めてであった。仕事で全国を回るが、仕事の区切りがついた時は知らない店で知らないミュージシャンの演奏を聴く事にしている。
たいがいは「ああ、こういうミュージシャンは10倍上手いのが東京にいたなあ・・・」と里心を起こさせるものであったが稀に宝石の原石を思わせるものも在った。
同じ味のものを食べたければ全国チェーンのファーストフードの店に行けばいい。上手いものを食べたければ冒険は必要だ。
マティーニを頼んだ。初めて飲んだ学生時代にはまずいと思った。何でこんな飲み物がカクテルの王様なのだと訝った。はなからジンなどスコッチのシングルモルトに比べたら十両と横綱の違いほどある。
何かを混ぜるということは生のままで飲む以上の何かがあるということなのだろう。
チャーチルが「最高のドライマティーニはベルモットの瓶を眺めながらジンをストレートで飲む事だ」と言った。だがこの話は眉唾物だ。チャーチルはアララットと言うロシアのブランディーを愛飲していたからだ。第二次世界大戦後、和平交渉に臨んだチャーチルが「ロシアにもまともな酒があった」と喜んだ逸話が残っている。そのチャーチルでさえマティーニについた語りたくなるらしい。
ジンと僅かなベルモット、数滴のビターズ、香水のように吹きかけるレモンピ-ル。それがバーテンダーの腕で無限の味になる。それがこちらの体調やら気分の組み合わせでその都度違った印象になる。
演奏が始まった。
まあ、定番のミディアムテンポで聴きなれた曲で始まった。悪くないピアノトリオだが何か足りない。若いバーテンダーが作ったこのマティーニのように・・・・。技術ではない何か、もっと本質的なものが欠けている。
次の曲が紹介された。オリジナルらしい。身構えてしまった。
マティーニに以降誕生した凡百のカクテル、酒メーカーが開発するシュシュのリキュールが出るたびに考えられるレシピ。それは無数の代理コード進行で構成される楽曲。レシピだけ難しくなって印象がないカクテル。そんなオリジナルが無数に創られ、こちらの鼓膜をこじ開けようとする。
ピアノのアルペジオが始まった。執拗に繰り返される音列。呪術的なものが人間のものになる前の自然そのものを想起させるものであった。
舞い散る粉雪が月光に照らされた時に見せる様々な色合いだ。行ったこともない北欧の湖が脳裏に浮かんだ。
その時このピアニストが若い頃のマリーネ・ディトリヒに似ていることを思い出した。
意志の強そうなくわえ煙草。
曲の色合いが変わっていった。竹林を微かに騒がせる驟雨のような音。めくるめくトランジット・・・ここは京都なのか。マティーニの味が変わった。均一に混ざり合っているものが表情が変わることがある。
曲のメロディーと言うより万華鏡のように変わる音色が印象的だった。それがマティーニの味を微妙に変化させたのかもしれない。
ステージを終えたピアニストがカウンターに移動してきた。席が隣り合わせになった。
黒のニットのワンピースに同色のレギンズ、ゴールドのトライアングルのようなイアリングをつけてブルーのスカーフを首にあしらっている。殆どモノトーンなのに色彩感覚の鋭さを感じた。
「良かったら一杯どうですか」
「ありがとうございます。何を飲んでいるのですか」
「マティーニ」
「ここのは美味しいですか」
「あなたの演奏中にワンランク上がりましたよ」
「じゃ、私もマティーニ」若いマスターが軽く頷いた。
「マティーニ頼むお客さんっていろいろ注文がうるさいって聞いたけどお客さんは違うのですか」
「私は注文をつけない。ここみたいに若いバーテンダーに言っても無駄だし、年配のバーテンダーは黙っていても出てくる。素人は変な注文はつけないほうがいい。あなたもbody&soulをアップテンポでと注文されたらこいつ音楽知らないと思うでしょう」
「こいつとは思わないでしょうが、中途半端にjazz知っていると思うでしょうね」
彼女のマティーニが来た。
「このオリーブどうすればいいのかいつも迷います」
「ああ、それは次の人も使うからそのまま返すと喜ばれる」
ピアニストは笑った。笑うと大人びた立ち振る舞いの陰に隠れていた幼い部分が出てくる。20代前半なのかもしれない。
「あなたは絵が好きじゃありませんか」
「はい、でもなぜわかりました」
「あなたのピアノ・・・・・・・いや私は人相見が趣味だから」
その娘は小首をかしげた。
最後のマティーニを飲み干した。