変な外人

その日は田中朋子sextetのライブであった。最後の曲で奥野がフリーキーな音を出し曲を盛り上げていた。一人の外国人がペットボトルを飲みながら入ってきた。ペデルセンの様な風貌であった。音量が大きく店のシステムなど説明できる状況ではなかったので取りあえず最後の曲である事だけを告げた。普通は「オー、マイガッド」とか何とか云いながら立ち去るのであるが聞き返すことも何のボデイランゲジも無く表情も変えないで帰る様子もない。丸椅子を出して座ってしまった。まあ良い。・・・1曲だけだ。大目に見よう。アンコールも含め2曲が終わった。お客さんは精算を済ませ次々帰っていく。外国人は中々帰らない。きっと精算の仕方が分からないので残っているのだと思った。僕はそういう時性善説に立つ。
「音楽は店の驕りだ。金は要らないぜ。あんたは自由だ。鳥の様にな・・・」とカサブランカのハンフリー・ボガード演ずるリックを意識して喋った。「Pardon me」とも何の反応もない。
とうとうその外国人だけが残ってしまった。「これからはミュージシャンの打上時間になるから相手はできない」と告げる。流石に帰ると思ったがカウンター席に座ってしまった。勿論営業時間内ではあって残ってもらっても良い時間である。でも何か胡散臭い雰囲気を醸し出しているし話しても面白い会話が出来るとは思えない。帰ってもらおうと思った矢先「beer]と喋った。初めて喋った。普通は「beer please]である。「time is out]と言うと流石に帰り支度を始めた。携帯をコンセントから抜いている。僕のパソコンを抜いて携帯を充電していたのだ。
変えるには帰ったが一言の挨拶もない。放った言葉は「beer」の一言だけ。絶対に自分ファーストの小池百合子支持者に違いない。

何を見ても何かを思い出す。

「何を見ても何かを思い出す」というヘミングウェイの短編小説が有る。
市原市日本最高39度。・・・の見出しがあった。ひと夏過ごした市原のことを思い出した。この日札幌の気温も34度でうだるような暑さで知らない電話番号から何度もかかってきていたがうっとおしいので完全に無視していた。帰りの飛行機に乗り遅れた魚返からのイマージャンシーコールだと後から知る。最初の千葉市勤務の時住んでいたのが市原市で50年ほど前の事である。まだJリーグ設立前でジェフ市原もないのでそんな町は聞いた事もなかった。社宅が有ったので同期18人が一部屋ずつあてがわれてのほぼ共同生活であった。周りは緑と言うより野原が多くこの市は何となく面積が広そうだなあと感じた。実際千葉県一広い行政区であった。その事を賄いのおばちゃんが自慢げに語っていた。「おいおい、こちとら北海道の札幌市だぜ。市原市の3倍の面積と10倍の文化的洗練度があるわ」と言いたいのを我慢して「時々ホッケの開きをを食べたいと皆言っていますがどうでしょう」と懇願するのである。僕は経理であったのでおばちゃんに給料を渡す役目になっていて何となくネゴシエーター役にされてしまっていた。美味しくないというより口に合わないといったほうが適切である。味が薄い。味噌が赤味噌。焼き魚は見たこともない深海魚のような種類が出てくる。北海道では焼き魚の3本柱は鮭、秋刀魚、ホッケで決まりだ。テナーはロリンズとコルトレーンとスタンゲッツで何とかなるのと似ている。ところがジョン・チカイとかマリオン・ブラウンのような魚が出てくるのである。皆食べ残す。おばちゃんたちがしょげて僕に詰め寄る。それを上手くなだめて食生活を改善するのが僕の役目になっていた。その経験が店の接客にも生かされている。24条界隈ではおばちゃんの相手をさせたら僕が一番上手いはずだ。
社宅があった界隈は社宅銀座で当時の古川工業、新日鉄など当時の日本経済を支えていた重厚長大産業の社宅が林立していた。多くの労働者が北海道から流れてきておりそれがこの界隈の飲食店のメニューにも影響を与えていた。仲間と近所の小料理屋に行った。「ブタスキ」というメニューがあった。店主に聞くと豚肉のすき焼きだという・・・。我々北海道人はそれをすき焼きと呼ぶ。ところがブタスキの隣に「すき焼き」といメニューもある。どうやら牛肉のすき焼きらしい。一緒に行った仲間は誰も牛肉の好きなど食べたことはない。全員が牛すきを経験することになる。店主が北海道人は豚のすき焼きを食べたがるのでメニューに入れてあると言っていた。我々も牛肉の柔らかさに感動したもののブタスキに戻っていった。一度近所にある郵便局が過激派に襲撃された事がある。鉢合わせしなくてよかったと胸をなでおろした。僕は父親に言われて郵便将棋なるものをやっていたので良くそこには行っていた。親に近況を知らせる手紙など面倒くさくて書かないであろうという心を見透かされていた。76歩「何とかやっています」36歩「時々は母親に電話しろ」・・・・とかが一年くらい続くのである。紫式部か・・・と突っ込みを入れたくなるだろうとおもう。
社宅にはクーラーなどついていない。だが市原の夏で往生したという記憶はない。だが梅雨の時期はブレードランナーの延々続く雨のシーンのようにうっとおしかったのは覚えている。

チェロキチ

10年ほど前になるのだろうか・・・・。北大祭でピアニストのTがストリングス従えてマッコイ・タイナーの「 fly with the wind」を演奏していた。大掛かりな企画である。譜面を作るだけでも大変だったとろうと想像できる。一回だけでは勿体ないのでlazyで再演して貰ったことが有る。そこでチエロを弾いていたのが北大オーケストラにも席をおくOであった。仲良くなったOに仕切ってもらってクラッシックの室内楽のコンサートを何度かやったことが有る。その日だけは下々の平民が口にする「いも美」は封印しマールを飲んでいた。気分はルイ14世である。
今年も学祭に顔を出した。そこでチエロが入っているバンドを聴いた。それがKである。弦楽器の事は良く分からないが技術は水準以上と思った。その時Oの事を想い出した。ジャズとクラシックの懸け橋的存在になってくれるのではとお節介心がもたげてきた。月1回クラッシック音楽を中心にソロピアノを弾いている鹿川の演奏を聴いてもらい話し合う機会を作った。チェリストKもドビッシーが好きだという。曲の打ち合わせをしている時にはブラームス、ラフマニノフ、鳥の歌の名も出ていた。こう言う時には僕はメンデルスゾーンの弦楽4重奏の第2バイオリンの様に節度が有る聞き手になる。Oからリクエストを聞かれたときカッコをつけてヤナーチェクを聞きたいなどと言って後悔したことが有る。ショパンと言っておけばよかった・・・と。
話はKがチェロを始めたきっかけの話になった。物心ついた時にはチェロが遊び道具であったという。普通そんな家庭は日本にはない。子供する遊びと言えばかくれんぼかお医者さんごっこである。祖父がチエロに興味を持ちその弾いている姿を見て父親もチェロに傾倒し大学のオーケストラに入りそこで母親と知り合いKが生まれる。兄弟3人ともチェロ弾きだという。誰かがバイオリン弾いて誰かがビオラを弾けば家族で弦楽4重奏が楽しめたのにある意味では残念だが話としてはこちらの方が面白い。鹿川がジャズ研では何と呼ばれているのかと聞いた。下の名前の翔太郎と呼ばれているとの事であったが僕は良いあだ名が浮かんだ「チェロ吉」だ。テーマソングは勿論「チエロキー」である。必ずや流行らせて見せる。拡散の方法は都知事選の石丸に教えてもらった。
本日の駄洒落 クラシック編
「爆笑の湖」チャイコフスキー
「ピーターとおかま」プロコイエフ
「剣の二の舞い」ハチャトウリアン
今日は寒いね。本当に「シベリウス」
おっぱい「ボロディン」

マデリン・ペルー「 歩き出そう」


待望のMペルーの10枚目 6年ぶりのlet’swalk である 6月28日発売だったのが予約をドジって2週間遅れになってしまった 一曲目であの声&歌唱が流れて来るとちょっと大袈裟だが生きてて良かったと思ってしまうのだからしょうがない とは言ってもラリークラインを再投させた前作もインパルスに移籍した前前作もモヒトツだと思ってしまっていた 6年のインターバルはコロナのせいだとレコード会社は説明するがバンドのギタリストと組んだソングライティングによる全曲オリジナルは成功していると思う 21世紀のビリーホリデイと言うキャッチフレーズは今度ののアルバムでも付いてまわってるが(多分一生ついてまわるだろう)このアルバムではもひとつのコピーのポストジョニ・ミッチェルがあってるかもしれない ポップやラテンリズムのナンバーも悪くない フレンチシンギングもいつもの有名スタンダードからオリジナルになって新鮮だ 仏語はともかく内容がある様な詩が聴き取れないので歌詞カードが有ればなぁーと思う…
BY 山の実

米木の近況報告とT’s 


6月27日俊也、柳沼の3daysの最終日。打ち上げで盛り上がっていた。話しは米木のことにも及んだ。それに聞き耳を立てていたかのように米木から電話が入った。術後初めて話した。活舌はさすがに良くないが声そのものは元気であった。豚カツを1時間かけて食べたことなど話した。函館からオファーがあったので1年後大石とlazyにも行っても良いかというのが用件であった。気持ちは全く萎えていないと思った。勿論いつ来ても良いが大石と相談して連絡するからと言って電話を終えた。その後大石と相談し6月21日にduoでやってもらうことにした。何があってもその日までは潰れるわけにはいかない。決意を新たにした。
その数日後、匠平から米木がセッションに遊びに来てくれたとのメールが入り写真を送ってくれた。セッションにいたメンバーが凄い。石田衛p松原慎之介asホストが西村匠平dsそれに米木。全員レイジーに来てもらったことがあるメンバーで普通に有料でライブができる組み合わせである。米木は徐々に回復しているようで何よりベースを弾いている姿が見られることが嬉しい。その場所が懐かしかったのでメールを出すと返信が来た。
Subject: Re: 直ちゃん
そうそうその日は
匠平ちゃんがホストだった、懐かしかった!
元のマスター高橋君もテナーで参加してるから、T’sに居る気分!
カンパ
ありがとうございます。
夏バテには気をつけないとね!
ご指摘感謝。
米木康志

付記
ここは現在M’sという店であるがここには浅からぬ因縁がある。国分寺の米木のマンションから歩いてevery thing8分to meの距離にある。マスターが3回変っている。二人目のマスターは今札幌にいて匠平、俊也、柳沼が来るときは時々顔を出してくれる。僕がよく行っていたのは最後の東京勤務の時期で30年前のことである。残業のない土曜日だけ心のバランスを取る為にライブを聴きに行っていたが住んでいたのは千葉県の西船橋でライブハウスの場所によっては最後まで聞くと帰宅できなくなる。
それを見かねた米木がよく自宅の702号室に泊めてくれた。翌日は日曜日あわてて帰る必要はない。奥さんさきくさんが作る美味しい朝食をNHKの将棋番組を見ながら食べるのが恒例行事になってしまった。上記の高橋君がマスターの時初めてT’sに行った時のことははっきりと覚えている。その日も米木のマンションに泊めてもらうことになっていた。店に入ると壁に羽生善治の写真が飾られていた。マスターも将棋が大好きとの事だ。初めて行った店でjazzと将棋の話ができるのは万馬券が当たる確率くらい低い。高橋君が「家に泊って行ってください。1局指しましょう」と言う。さすがに初対面の人の家に泊まるほど厚かましくはないので固辞していたが一緒に店を切り盛りしている奥さんも遠慮なくとおっしゃる。そこまで言われるのならということでお邪魔して深夜の熱闘を繰り広げた。翌日奥さんの美味しい手料理もしっかり頂いておいとました。これが縁で米木が出演していなくともお邪魔し宿泊付きの将棋を指す仲となった。

都知事選の印象

7月6日。投票日前夜、小池百合子の最後の街宣を聴いていた。おりしものゲリラ豪雨で落雷の危険もあるということで小池の登壇は30分以上遅れていた。報道陣もずぶぬれにながら待機している。
やっと登壇した小池のスピーチは大雨災害の対策する公務の為到着をが遅れたなど言い訳をするような内容で至って熱のない内容であった。反対派の怒号も聞こえてくる。時間も短く雨に濡れて厚化粧が落ちるのを嫌がっているとさえ感じた。かたや蓮舫の最終街宣は熱気につつまれており見たこともないほどの聴衆でごった返していた。蓮舫自身のスピーチも感動さえ覚える力強い内容であった。だが応援演説は立民の大御所議員が名を連ね代り映えしない人選で野田元総理のスピーチは安倍総理を称賛するフレーズを含むもので後から考えると立民の選挙対策の稚拙さを象徴するものであった。この時間帯には豪雨も収まり選挙結果にも奇跡が起こるのではとの希望的観測を抱かせる展開となった。
7月7日。8:00
負けるとは分かっていたがまさかのゼロ打ち。投票終了と同時の小池当確発表。蓮舫は3位に転落。石丸が駆使したyou tubeの威力、そして無党派層の投票行動、どれをとってもにわかには受け入れがたい事実であった。詳細は次回に譲るとして石丸候補に投票した20代のコメントを紹介しておく。
「長いわかりにくい演説よりTiktokで一瞬でわかるわかりやすい人にいれた。」
コスパ主義で投票対象が選択される。「1週間で覚えられる英単語」より「5日で覚えられる英単語」の受験本が売れ、映画はエロビデオと同様2倍速見られ、ポップスのギターソロは飛ばされ、「コルトレーンin ジャパン」の全面ジミーギャリソンのソロが収録されている面は針が落とされることはなく、長い小説の代表プルーストの「失われた時を求めて」は手に取られることさえなくなる。
なにかが崩壊している。

2024.6.28-29 大石 学 DUO & SOLO


ご承知の事情により6月の恒例企画は米木さん抜きに切り替えられ、大石・NAMIのDUOおよび大石のSOLOとなった。NAMIさんは何度か聴いているが、濃すぎず薄すすぎずの中間領域で活躍されているという印象をもっている。ライブで特段ヴォーカルを追い続けるような熱心さを持ち合わせては来なかったが、相手が大石となると別だ。大石はシンガーと自身を夫々自立させつつ、絶妙のコラボレーションを演出する。流麗に寄り添いながら、時折ドキッとするフレーズを注ぎ込む瞬間があり、それと同時にNAMIさんの表情から心が腕まくりし始めていることが見て取れた。こういう咄嗟の相互反応は我々をグイグイ引き付けていく。演奏は淀みなく進行するのだが、1ステ、2ステとも途中で大石のソロが各2曲挿入され、ライブ全体のメリハリに効果的な作用をしていたと思う。歌と歌バンに喝采だ。演奏曲は「Raindrops Keep Fallin’ On My Head」、「Under Paris Sky」、「Tow For The Road」、「生きていれば(solo)」、「安らかな志(solo)」、「One Note Samba」、「Corcovado」、「Devil May Care」、「My Favorite Things」、「So In Love」、「I Concentrate On You」、「Rainy Days And Mondays」、「上を向いて歩こう(solo)」、「ひまわり(solo)」、「I Let A Song Go Out Of My Heart」、「見上げてごらん夜の星を」、「New York State Of Mind」、「Caravan」。SOLOの日は前日の演奏曲から幾つかをピックアップしながら、「E More Me(≒いも美)」、「花曇りのち雨」、「I Fall In Love Too Easily」、「Alone Together」、「What A Wonderful World」などが選曲されていた。もっと聴きたかったが、それは来年の復活ライブを待つとしよう。
 大石の2daysは会場を大いに湧かせて終了した。湧かせた理由は三つ考えられる。一つは何と言っても全くスキのない演奏によってである。二つは初日に二度不規則発言をしたことである。それは女性客が大半を占める中「今日は若い人がいらっしゃっていない…」(事実と推定されるが、会場大いにどよめく)、三つはNAMIさんが発した”かつて大石さんはよく正装で演奏していましたよね”とのコールに対し、Tシャツ大石のレスポンスは「ちゃんとした所ではちゃんとしたものを着る…」(LBとの長年の付き合いに照らし、会場大いにざわつく)。口を開く大石は、その社交辞令なき演奏と真逆なのである。なお、二日目はジャズ研メンバーになりたての学生さん達が多数詰めかけていて、終演後に大石による緊急講座が行われた。彼らは思わぬボーナス・トラックに等しく目を輝かせていたのだった。最後に米木さんのことに触れておきたい。年内はほぼ療養に専念と見込まれていたが、新着情報によると最寄りのライブ・ハウスでセッションに参加するまでに回復しているそうである。それを聞いて遠くから胸を撫で下ろしている。くれぐれも無理のない範囲で復帰の途を進まれんことを願うところである。
(M・Flanagan)
付記
この日の演奏を聴いていて二つの記憶が蘇ってきた。中本マリさんがlazyで「ひまわり」を歌ったときのことだ。臼庭潤もよくこの曲を演奏していた。この日マリさんはバックを務めていたセシル・モンローが亡くなったことを知らないでいた。臼庭がセシルとここで演奏した時20年ぶりと言っていた。思わず涙が込み上げてきた。「見上げてごらん夜の星を」は森山威夫バンドで井上俊彦が演奏している。1994年のアルバムである。このアルバムが発売されたときいつもクールに吹き切る井上に得も言われぬ暖かさを感じ思わず井上に感動したと電話した事を思い出した。二人とももうこの世にはいない。

宇宙人が攻めてきたら

もし宇宙人が攻めてきたらロシアもウクライナと戦争している場合ではないしアメリカも中国と派遣争いをしている場合ではなくなることは明白である。規模が小さくなるが宇宙人が東京を経済的に環境的に破壊しようとしている。宇宙人とは小池百合子の事である。都知事選まで後2日。個人的に小池百合子の落選運動をしている。このブログもタイトルを「都知事選の行方 vol4」すべきなのだが固いタイトルだと中々読んでもらえない。それでピンクキャバレーの客引き方式を取った。2時間、飲み放題、顔見せホステスチエンジ無制限・・・この謳い文句で入店したら最後、会計で10万単位の請求がされる。話が違うとごねると奥から怖いお兄さんが出てくる。このブログを開いたら最後、最後まで読まなかったらマルウエア感染ブルース・ウイルス出てきて携帯を破壊しつくす。
差は縮まったとはいえ戦況は小池有利で推移している。小池がどれだけ嘘で塗り固めて今の地位まで登りつめたのか、思い付きの政策を並べどれ一つとっても達成されていない。公職選挙法違反の疑いのあるばらまき政策を選挙に合わせておこなう。批判的な都庁幹部職員は左遷し米つきバッタ職員で側近を固める。うるさいフリージャーナリスト徹底的に排除、黙殺し親衛隊化している都庁記者クラブ記者を弾除けにしジャーナリズムを支配し民主主義の根幹を破壊する。裏金自民党のスティルス支援を受けながら話題にならない様討論会は拒否する。神宮外苑を再開発する大手不動産会社三井不動産には子飼いの都職員が天下りし政治献金も受けている。カイロ在住時代は父親とヒルトンホテルで会食し銀食器をテーブルクロスごと自宅に持ち帰っている。「嘘つきは泥棒の始まり」とは小池の為にある諺である。あげつらえば全盛期のパーカーの様にいくらでもフレーズが出てくるが音数を減らすことも大事である。細かい事実はさておく。取りあえず宇宙人は退治しましょう。いろいろご不満もありましょうが地球人である蓮舫、石丸伸二に投票してもらいたい。
反対派防御の為、川をボートで遊説している小池の姿を見た。泥船に載った緑の狸のカチカチ山を想い出した。

帰ってきた酔っ払い

加藤和彦のドキュメント映画が一部のフアンの間で評判になっている。Youtubeでサディステイックミカバンドをやたら勧めてくるのはそのせいかもしれない。加藤はフオーククルセイダースを活動の原点としておりそのレパトリー「イムジン川」にはフォークあがりの僕もお世話になった。だが大ヒット曲「帰ってきた酔っ払い」のような曲は苦手であった。というより嫌いである。
その日は大石とナミさんのDUOの日であった。席は予約で大体埋まっていた。見知らぬ客が入ってきた。酔っぱらいには見えなかったが腐りかけの鰯の目をした客で陰鬱なデミニッシュスケールの雰囲気を醸し出していた。予約はあるかと聞くと「ない」という。その日は鯛の尾頭付きの上品な客で埋まっていたが鰯を断るのは差別につながる。カウンターの右から2番目の席に座ってもらった。なんとなく挙動不審の感があるのでバイトには目を離すなと申し伝えた。演奏中体が左右に揺れてきた。ビールをひっり返されると困るのでパソコンを隣の席から非難させた。途中でウトウトしてきたようである。演奏中の「ネテルティティ」は雰囲気が悪くなるのでちょっと「マイルス」ではあるが先日来た「馬鹿女」よりは罪が軽い。
そうこうしているうちに体が前後に揺れてきて後ろにひっくり返りそうになった。最後尾の椅子席にいた僕は後ろから抱きかかえ事なきを得た。そろそろ「小倉生まれの玄界灘」と思い帰るよう促した。割とすんなりしたがってくれた。こういう時いくら貰うかに迷う。バイトの石川は正規の金額を告げた。難波の商人になり切れない僕は飲み代だけで良いと訂正した。ところが財布が財布がいつまでたっても見つからない。バックには大石の美しいピアノが流れている。石川が「外でやりましょう」と言った。好判断であった。外でリックから入っている物を一つずつ出してもらうと奥から財布が出てきた。この光景を通りがかりの人が見たら二人がかりで酔っぱらいをカツアゲしているように見えたかもしれない。時々ある無銭飲食でなくてよかった。今まで3度ほど警察を呼んだことがあるがこの手で無銭飲食を重ねる確信犯もいるのである。インターバルの時間に外で涼んでいると先ほどの客が向かいのクラブに入っていく。帰してから30分は経っている。その間飲める所を探していたのだろう。向かいの店は24条界隈では1,2,を争う高級店である。ちらっと見えた財布の中身では絶対に払えない。どのみち警察を呼ばれることになるだろうと思っていたらすぐ追い出されて出てきた。クラブ夢幻はセキュリティがしっかりしている。
それから1時間は経過し演奏が終わり打ち上げで盛り上がっていた。「一人ですが良いですか」と入ってくる客が来た。先ほどの客である。話し方が最初に来た時よりシャキとしている。多分どこの店にも入れなかったのだろう。「さっき来たよ」というと悲しげな表情を浮かべすごすご帰っていった。暇なとき来てくれたら話聞くよ・・・。

宮沢昭「Sea horse」


Chan G good
6月18日発売だが新譜でなく92年に浅川マキプロジュースの3枚のうちの1枚で渋谷毅とのデュオである LP時代でもないと思うがなんと32分  宮沢は再評価されてるのでも無いと思うが去年SEAHORSEも再発された それは89年のライブでほとんどがスタンダードでコレは全部オリジナルである 某ジャズカフェのマスターは最近聴いた中では一番良いと言うので32年前のがいいんじゃなあ…と嘆息した しかし最近新譜を出したCロイドは86でロスコー・ミッチェルは84なのだ ちゃんGならでは音楽世界というのもございます✨ さて、宮沢昭はこのとき65でむしろ最盛期の音でこの頃の録音が少ないのは残念であるが彼はまぁいつの時代のも少ないが.
同時に再発の植松孝もとてもgoodなので必聴です!
by 山の実