札幌ライブハウス放浪記

ベースの斎藤里奈とピアノの本山禎朗が札幌のライブハウスを紹介する動画を定期的に制作している。その5回目にLazy Birdが選ばれた。だが僕は極端なあがり症でマイクを向けられると一言もしゃべられない性格なのである方にトラをお願いした。
動画は28日22時公開で2月4日中までで、応援ドネーションは28日の21時から受付可能になっているらしい。視聴の上ご支援よろしくお願い致します。

https://yotu.be/5-pRRvDXuwc
と、応援ドネーションのリンク
https://passmarket.yahoo.co.jp/event/show/detail/029v6q1twk521.html

尾身クローン

まん延防止措置法を出しておいて「外出自粛や飲食店の時短は必要ない」と尾身茂会長は発言した。全く意味が分からない。エロいお姉さんのAVを見せておいて興奮するな・・・よ言われているようなものだ。
検査なしでコロナの診断ができるようになった。PCR検査が感染拡大で間に合わなくなってしまったからだ。無料PCR検査に殺到し数日待ちもあると言う。今まで何をしていたのだと言いたい。政府の役目は国民の命を守る事。食わす事。そこに効率性を優先する経済論理を持ち込んではいけないと考える。10月すべての緊急事態、まん延防止措置法が解除になった時来るかもしれない感染拡大に備える検査体制の拡充に努めるべきであった。感染が拡大しなければかけた金が無駄になると言う論理は当てはまらない。予防とはそういう無駄がつきものである。医療、教育、ライフラインに関することに競争の論理を持ち込んでは将来に禍根を残すことになる。
厚労省の決定は無茶苦茶である。当然検査抜きで診断などできるはずがない。診断不可能ならコロナ患者は増えない。人為的に感染者数を低く捏造している。それでもこの数字である。こんな画策で感染爆発は手に負えなくなる。尾身クローン株は軽症であるとの説もある。実際の所は良く分からない。僕はコロナに関してはマッチョ嗜好でも敗北主義でもない。粛々と日常生活を生きている。
先日北大jazz研の部長が報告したいことが有ると言う事で来てくれた。部員に濃厚接触者が出ておりその部員が一週間前にここに来ていたと言う事である。数日間の自宅待機を命じられたが体調には変化がなかった。PCR検査は受けられないと言う事であった。感染経路もわからないらしい。近い所で検査体制が破綻していることが感じられた。その部員も僕もそこにいた人間もピンピンしているので個別に連絡することは辞めた。「下手な鉄砲も数うちゃ当たる」の諺通り濃厚接触者の末裔が身近にもいると考える方が自然だ。店以外での接触機会は減らす努力はしている。今日話したのは酒屋さんと1分ほどだけである。

暗雲

青雲が抹香臭いのは許せるが暗雲は何やらきな臭い。岸田総理が連合の新年会に出席し挨拶をした。連合と自民党が急速に接近している。7月の参院選にもう暗雲が立ち込めている。連合は共産党と共闘する候補は支援しないと明言した。連合は経団連の下部組織になりつつある。傘下の組合員数が減少にある事に起因しているのだが芳野友子会長になってからその傾向が顕著である。立憲民主党首脳部は腹を括ってもらいたい。少なくとも国民政党である。大きな組織とはいえ一組合連合の親分の顔色を伺っているようでは情けない。衆議院選挙でも共産党との共闘で当選した議員がいたはずである。野合でないことを今回も示す義務がある。それでなければ浮動票は大方逃げていく。そうなれば自民と維新の思うつぼである。フランスの大統領候補に極右のエリック・ゼムール氏が名乗りを上げた。「移民を拒否し続けた日本がモデルである」と公言している。
日本は選挙はあるものの期限付きの独裁政治とほとんど変わりない領域になりつつある。

ライブレーポート代筆

レィジー公式記録員の牛さんが雪害で来店不能になり代わりに感じたことを書き留めておきたい。
山田丈造5daysが終わった。主催者の思惑としては2点ある。丈造に故郷に錦を飾ってほしい。ワンホーンで丈造のトランペット自体の進化状況を見極めたい。もう一点はレギュラーで動いてるベース古木佳祐とドラム山田玲のコンビネーションを味わいたいと言う事である。ここ数年まともなトランペットは松島啓之しか聴いたことがない。ステージにトランぺッターが立つとパブロフの犬の様に松島の音色が思い浮かんでしまう。ハードルは高い。ここ何回かの丈造は楽器そのものが鳴っている気がした。早いパッセージを吹いてもペラペラがない。丈造自身でワンホーンでやることはあまり無いという。サウンドが作りずらいと言う事であった。そういえばtpのレジエンドのアルバムは少ない。リー・モーガンは「キャンディ」一枚。マイルスも少ない。ガレスピーは思い浮かばない。言いたいことは分かる。ワンホーンが多くなるのはチャールス・トリバーや日野皓正が出てきてからだ。新主流派の流れに即応している。第一トランペットは唇に負担がかかる。一人で吹き切るのは大変だ。まして5日も続くと水蛸に唇を吸い続けられる状態になる。知らんけど・・・。「自分のグループをワンホーンでやり続ける松島さんは凄い」と丈造も賞賛していた。
リズムセクションの二人は大野俊三さんとか山口真文さんの様な大御所のバックを務めながら同じ世代の人間とギグを重ねている。年長者の芸を引き継ぎながら同世代の息吹を吹き込むと言った理想的な活動をしている。それで二人とも引っ張りだこだ。勿論丈造Gのリズムセクションでもある。何が起きても拾えあえる信頼関係が聴いていても判る。インからアウトまで変幻自在である。又この二人のコンビネーションを聴きたくなり山田玲のリーダーグループ「ケジメコレクィブ」を7月に呼ぶ約束をしてしまった。

三島由紀夫VS東大全共闘

1969年安田講堂陥落後の東大全共闘の活動の記録ドキュメントである。なぜ討論の相手に三島由紀夫が選ばれ三島はなぜ出向いたのか。その一端が理解できるドキュメントである。当時の学生運動は60年安保の直系であり反米愛国の思いが根底にあった。三島とは思想的には全く異なるものではあったが反米愛国の思いには通ずるものがあったと言う事である。三島は討論の中で「天皇と言う言葉さえ言ってくれれば私は君たちと一諸に安田講堂に籠城したであろう」とさえ言っている。
一人敵地へ乗り込む三島由紀夫。そこには1000人の学生が待ち構えている。怒号と罵声が飛び交い討論の程などなしえないと思いきや想像と全く違っていた。友好的とまだは言えないが笑いなども入り混じる討論であった。三島は実に丁寧に学生の質問に答えている。言葉を荒げることも無い。そこには1000人の学生を本当に説得しようという意気込みさえ感ずるのである。三島は丸山真男を頂点とする東大権威主義に反抗する学生に共感している。三島は認識より行動を・・・という意味に於いて反知性主義を唱えている。ここで用語だけの問題なのかもしれないが気になることが有った。僕は反知性主義と言う言葉を自分の都合の良い所だけつなぎ合わせて理屈を作る方法論と理解していた。三島の言う反知性主義は反教養主義と言う方が適切ではないのか。このフィルムの中で作家平野啓一郎が言っている。三島の文学の中には苦節何十年で何かを成し遂げると言った類のものは皆無であると。散る桜的なものに憧憬を抱き実際にこの二年後市ヶ谷駐屯地でクーデターを試み失敗すると自害して果てた。その行動を裏付けるセリフをこの討論の中で言っている。
この映画を見ると当時の事を想い出す。僕は毛のふさふさした高校生だった。全共闘運動は全国に飛び火し北大でも中央図書館が占拠される事件が起きた。物見遊山で見に行ったが北大正門前は機動隊が陣取り、信号は金網で防護され物々しい警備であった。勿論構内には入れない。これは後で知ることになったのだが図書館には僕が引き継ぐこととなるGROOVYのマスターが籠城していた。

ジョーカー

てくるジョーカーである。トランプのジョーカーは何にでもなれるので最強のカードである。映画でのジョーカーは何も持たないからバットマンにとって最強の敵なのである。ここでホアキン・フェニック演ずるジョーカーは「格差と貧困」の象徴になっている。トッド・フィリップ監督作品である。70年生まれの監督は70年代のアメリカ映画「タクシードライバー」や「セルピコ」へのオマージューを散りばめながら重苦しい主題に笑いを散りばめている。主役のアーサーはピエロのバイトをしながら認知症の母親の介護をしている。スタンダップコメディアンを目指しているのだが全く面白くない。僕のジョークの方が面白い。ローバート・デニーロ演ずるトークショウの司会者マレー・フランクリンに憧れている。デニーロはかつて自分が演じた「キングオブコメディ」へのオマージュをシナリオを読んだ時点で感じ取り引き受けたという。アーサーがトークショウのゲストの真似をするシーンは「タクシードライバー」でデニーロが鏡の前で芝居をするシーンそのものである。「タクシードライバー」のスコセッシ監督が脚本に参加していることを知った。
ロケーションはゴッサムシティとなっているが街並みはゴミ山積のニューヨークである。81年清掃局のストによって2週間ゴミ収集がなかった事実をもとにしている。
ピエロの格好をしたアーサーは地下鉄で絡まれ3人を射殺してしまう。其の3人はゴッサムシティを仕切るボスのトーマス・ウェインの部下であった。アーサーは母親の手紙から自分はウエインの子供ではないかと思い彼に会いに行く。ところが彼から出自の真実を知らされる。養子であり母親の同棲者から虐待を受け、ある瞬間笑いが止まらなくなる精神疾患にかかってしまう。自分は笑うが人は笑ってくれないピエロのなんとアイロニカルな存在か・・・。カーソン・マッカラーズの小説で「心は優しき狩人」という小説がある。その主人公が「シンガー」と追う名前であるが口がきけない事を想い出した。この事実を知ったアーサーは寝ている母親をまくらで窒息死させてしまう。このシーンはフランス映画「ベティ・ブルー」に酷似している。
この瞬間アーサーは何も失うものがないジョーカーになった。アーサーはマレーから番組出演依頼を受ける。彼のライブを番組で放映したところ反響が有ったと言事であるが、内実は「すべった」所をマレーが弄って笑いを取っているに過ぎないのであった。
町ではピエロが上流階級に鉄槌下したと喧騒な雰囲気になっている。
「一つジョークはどうだい。社会に見捨てられた精神疾患のある孤独な男をコケにするとどうなるか知ってるかい」と言ってアーサーは番組本場中マレーを射殺してしまう。警察に取り押さえられるがその護送中事故にあいパトーカーから暴徒と化した市民に車から救出される。そして市民から歓喜を持って迎えられ、ヒーローになるのである。
バックにはクリームの名曲「White room」が流れている。
決して日の届かない白い部屋で孤独に何かを待ち続けている・・・・
この映画が封切られるときアメリカでは暴動が起きるのではと警察が出動したという。トランプ大統領支持者が国会議事堂を占拠した事件と本質は同じである。
もう一人のアーサーが近くにもいるはずである。

日米地位協定とオミクロン

ずいぶん昔の事だが日本のやり手のプロモーターがジャズミュージシャンを軍用機に乗せて嘉手納基地まで運び日本ツァーをさせたという話を聞いたことが有る。確かデビット・マレイだったと思う。交通費を浮かすことが主目的であるが、何もなければパスポートも要らないし税関も通る必要がない。その時は凄いコネをもっているものだとそちらに感心してしまった。沖縄に何度か行ったことが有る。那覇空港から石垣空港に行くときの高度がやたら低い。サンゴ礁環がはっきり見え海の深さによって色彩が変わるのが見て取れる。これはJALの観光客向けのサービースだと思っていたがそうではないらしい。羽田から千歳に飛ぶ時も不自然な旋回をする。勿論これは乗客向けのサービスではない。米軍基地がある地域の空域は米軍を優先させると日米地位協定にあるからである。基地問題に関する矛盾はここに端を発している。1月7日沖縄に蔓延防止法が適用された。沖縄の感染率が異常である。感染源はどうやら基地関係らしいと当初から言われていたが玉城デニー知事の申し入れにもかかわらず何の手も打たれなかった。在日米軍は6日になって米軍施設内における新型コロナの感染拡大を受け、感染予防措置の態勢を強化すると発表した。検査で陰性が確認されるまでの公共の場などでのマスク着用や、日本に到着した際の検査の実施、ワクチンの接種状況にかかわらず基地外でのマスク着用が義務付けられた。と言う事は今まで何もやっていなかったと言う事である。日本政府がマンボーだそうがランボー呼ぼうがビンボーになろうがそんなの関係ない・・・という取り決めに日米地位協定でなっているのである。
米軍基地はドイツにもあるしフィリッピンにだってある。だが思いやり予算と言い基地内の固定経費を負担している国は日本以外にない。

2020年 新年ご挨拶

あけましておめでとうございます。御陰様で何とか年を越すことができました。本当にありがとうございました。緊急事態の時もまん防の時も、酒類提供禁止の時も店に足を運んでくれた方に感謝。ライブCDRを定期的に購入してくれた方に感謝。ただで読めるブログに購読料として定期的に振り込んでくれる方に感謝。匿名で郵便受けに現金を投げ入れてくれた方に感謝。世話になった店を救えとカンパを募ってくれたjazz研OBの連中に感謝。店の基盤を支え続けてくれた常連の方々に感謝。ライブ音源を快く販売させてくれたミュージシャンに感謝。一緒に居るだけで元気になる現役jazz研の学生に感謝。そして命と引き換えに店を永らえさせてくれた母親に感謝。
今年もいつまでもつかはわかりませんが少しでも恩返しをしたいと考えております。それが直接助けていただいた方にではないかもしれません。回りまわって届くような共生社会を念頭に置きながら店も運営したいと考えております。

2021  レイジーバード ウォッチング

『Jazz is』。これは批評家ナット・ヘントフ氏の著作のタイトルである。「is」のあとに来るのは個々人のJazzに対する思いであり、特定の解はない。だからヨソからの縛りを喰らうことなく聴いていられる。これは結構大切なことのように思う。今年もソロから複数人の編成まで様々なタイプの演奏に接したが、それは偏に楽しみの幅の広がりとして受け入ればよいのだと思うが、どうだろうか?。さて、今年はどんなだっただろうと考えてみると、気分のうえで上半期はモヤモヤ、下半期は割り切りといった感じだ。思いつくまま振り返ると、6月までは常連の鈴木央紹、若井俊也、Unpluged Rockなどが記憶に残る。それと若井のライブに客演した村田千紘の「Blue In Green」が個人的には印象深い。7月以降になると時間制限と酒類禁止の中、皆さんがチビチビとウーロン・トゥギャザーしていた時の光景を思い出す。それはさておき、ライブの話に戻ろう。まずは三嶋のトリオだろう。毎度の手土産“東京バナナ”の皮1枚で滑らずにいた三嶋が満を持して連れてきたメンバー(加藤友彦(p)と柳沼祐育(ds))とのセットだ。このトリオは彼の自信を裏付ける出来栄えだった。連れてきた二人とも初聴きだったが、溌剌として引き締まったプレイは上々のものである。特に若き加藤の今後には大いなる期待を持った。そしてこのトリオは12月にも声がかかることになったのである。三嶋は辛口で知られるLB・AWARDにおいて堂々最優秀賞の栄誉に輝いたと聞く。そこで三嶋について一筆付け加えておく。彼は回を重ねるごとに充実した演奏を披露しているように感じている。思うに、三嶋にとってライブは課題発見と克服の結合になっている。人は本当のことに気がつくと嘘をつきたくなるものだが、実直な三嶋はそこに陥らず課題を正面から受け入れているように見える。演奏を聴けば、それが分かるのだ。ただし、それが受賞理由の一つになっているかどうかは知る由もない。8月にはLBの一帯一路戦略を牽引してきた米木さんのお出ましとなった。聞くところによると東京ミュージシャンはギグの中止・順延を後追いで穴埋めしていようで、ブッキングが思うに任せない事情下にあるようなのだ。そんなこんなで、今年は観測史上初めての1回出演になったのだ。演奏は山田丈造を招いてスタンダード中心に進められた。8時終了というのは残酷に思えた。お盆明けには松島・山ジョーの双頭ライブがあった。松島は演奏もさることながら、人柄だけでメシを食っていけそうな模範人だ。9月はLUNAの北海道ツアーの本体が中止になったが、ツアーの付録編は無事挙行された。ジャンルのルツボのような構成は特許もの。この路線は定着しつつあるようだ。月の終わりには原大力Week、オルガン入りトリオ(原、鈴木、宮川)のグルーブは益々磨きがかかっている。宮川が「上達すると演奏がつまらなくなる」と自身に警鐘を鳴らしていた。プロの世界は厳しい。10月に入っても時間制限は解除されていない。カニBAND北海道ツアーのオフに唯一設定された大口・林Quartet。林さんのドエラい音に会場が膨張した。11月にようやく制限解除となった。先鞭を切ったのが若井・壺阪・西村のライブだ。いいタイミングでいい連中が登場した。彼らにとっても客にとっても開放感が充満していた。これが本来のライブではないか。以後、怒涛の展開となって行く。昨年我々を驚かせた竹村一哲グループ(竹村、井上、三嶋、魚返)による『村雨』ライブだ。4つの個性の激突はスリル満点、一哲は改めて札幌の誇りであると確信した。こうなると気を緩められない流れにハマってしまわざるを得ない。小松・楠井・本山のトリオ。聴きどころ満載である。リーダーは本山、昔流の言い方を借りれば「どこに嫁に出しても恥ずかしくない自慢の娘」的な本山が余すとこなくこん日の力量を見せつけていた。いよいよ本年の最終月。待遇改善がかなった三嶋トリオの再演。「アップ・テンポの演奏で喜んでもらうだけが能じゃない」と切り出して“テネシー・ワルツ”なんぞを披露した。三嶋は演奏家としていいテンポを刻んでいるわい。そしてこのトリオをバックに待ちに待った池田篤。いつも池田には感動の予感が働く。蓋を開けてその通りになる。大熱演の締めくくりにどこまでも穏やかな「フォーカスセカス」には麻酔にかけられたような抵抗不要の気分になったのだった。今年の締めくくりはLUNA4DAYS。全部聴いたわけではないが、あぶない路線に円熟味が加わり、黄金期の浅草六区でも面食らいそうなSun Shine Of Your Liveでフィニッシュした。
今年も残り僅か、毎年、除夜の鐘の刻に何かを聴くことを習慣にしている。今年は何にしようか考えているが、LIVEものにしようと思っている。JazzおよびBeyond Jazzファンの皆さんよいお年を、そして2022もLIVEを楽しみましょう。
(M・Flanagan)

素晴らしき哉、人生

アメリカではこの映画が頻繁に放映されるという。クリスマスにこの映画をお勧めしようと文章だけ起こしてブログにUPするのを忘れていた。クリスマス映画史上最高傑作と思う。1946年制作。フランク・カプラ監督。証文の出し遅れ感があるが、jazzでも年中枯葉を演奏している。お正月に馬鹿なお笑い番組を見る代わりに見ても何ら支障はない。「アメリカの良心」ともいうべきJ・スチュアートが主役である。一見善良な市民の心温まる「いい話」になっている。勿論そこだけ見ても元は取れる。主人公が中年になって人生を振り返る。人生は無限のIFに満ちている。諦めてしまった夢、かなえられなかった欲望に苦しむ。苦い大人の物語でもある。エンディングは何度見ても感動する。この映画を見ると今からでも遅くない正直に生きてみようとちょっとだけ思うのである。
「ニキータ」とか「ローラ」などのバイオレンス映画を制作しているリュック・ベンソンがこの映画の有る場面を敬意をもって拝借している。
古い映画である。パーカーがsavoyレーベルに最高傑作を吹き込んでいる頃の映画なのだ。パーカーの音楽がそうであるように3分に一回の爆発シーンも無ければエロいお姉さんも出てこない。だが心に残る。
この映画の製作年度を見て改めて思うのだが戦後すぐこのような映画を作れる国に戦争しても勝てるはずがない。