カルバドス

野崎はそのバアーのドアーを開けた。中は思ったよりカジュアルな造りであった。壁の色はディープブルー、テーブルはメタリックシルバー。これで天井の配管が剥き出しであればNY風であったのにカウンターの一枚いたが妙にアンバランスであった。マスターは白髪混じりの50台半ばに見えたが、オックスフォード織りの白い釦ダウンシャツを普通に着こなしているのが様になっていてこの商売を長くやっていると思った。
この店の近くまで来た事が一度だけある。
野崎はある女性の素行調査を請け負っていた。
木内美佐、44歳、専業主婦。子供は二人、長男15歳、長女12歳。週に一度書道を教えにカルチュアースクールに行っている。写真では男好きのする容姿ではないが品が感じられる典型的な中流階級の上位にランクされる奥様といったところだ。一年前に転勤で故郷に戻ってきた。
依頼者は夫ということになるが「妻が妙に明るいんです」という。まあ。地元に戻ってきてほっとしているとだと野崎は思うのだがそんな事を言ってはこの商売上がったりだ。考え様によってはいちばん簡単で見入りの良いケースだからだ。
もうその仕事の報告書は提出してある。依頼人がほっとするような、予想どおり通常の主婦と変わりない行動パター-ンであった。あるいは支払った金額に見合わないありきたりの報告書ということでも有ったのかもしれない。
この日、野崎はこの店の近くのパチンコ店で不正行為をする人物の監視という仕事を請け負っていた。この世で一番醜い音を8時間聞き続けて感性が麻痺しているのがわかった。身についた自衛本能の防御服を脱ぎ捨てる為にこの店に寄ってみた。
音量は小さ目とはいいがたいが今まで聞いていた雑音に比べると鼓膜の震え方の質が違うと感じた。
ジャケットが飾ってあった。サックス奏者が牛乳を飲んでいるあまりセンスがいいとはいえない代物であったが音色は絹ごし豆腐のように滑らかであった。スタン・ゲッツと描いてあった。
野崎の遊び心が頭をもたげてきた。「この音楽に合うものを下さい」
マスターは一瞬考えたが「これはどうでしょう」といってカルバドスを勧めた。
「では、それをストレートで」と注文した。昔「ガス燈」という古い映画で主役のイングリット・バーグマンが着付け薬の替わりに飲まされていたのを思い出した。まだ洋酒が普及していなかった時代に、ましてリンゴブランディーなどというものの味も価値もわからない学生時代のことだ。
ブランデーグラスではなく足長のストレートグラスで出てきた。
「あまりもったいぶって飲む酒ではないので」
客は学生風の二人組みが一組だけだった
「だからこのコードにはフリジァンが合うんじやないの」
「でもこの音はアボイドだぜ」
野崎には何の話をしているのかわからなかった。
カルバドスを口に放り込んだ。滑らかだが甘酸っぱい所がある。それが辛うじて野崎が残している青臭い所を刺激してくる。マスターがすり寄って来た。「私は音楽理論の話しが苦手で」
「カルバドスはどうです」
「疲れているときの細胞に沁みていくのがわかりますね」
「映画でイングリット・バーグマンが飲んでいた時の様にですか、ガス燈でしたっけ・・・」マスターは野崎の事を同世代と踏んで話し掛けてきている。自分より10歳ぐらい上かと思っていたが40台半ばなのかもしれない。
「あの映画のストーリーは思い出せないのに気付け薬に使うカルバドスという酒はどういうものなのだろうということは気になるんですよね」野崎も頷いた。
「バーグマンはもっと気丈な性格の役の方はまりますね」
「カサブランカとかですか」と聞いて同じ物をもう一杯頼んだ。
「ああいうことはここでも起きますか」
「あんな事が起きるなら、もうとっくに宝くじに当たっていますよ」といって顔を崩した。野崎もつられて笑った。
「男が愛する女の為に危険を冒して何かをする事は日常でも有りますよね。女が愛しているのは他の男であっても何かをする男の映画も多いですよね。ですが男は女が愛しているのは自分と知った上でその女と夫の為に危険を冒して何かをやり遂げるというのは途方もないことですよね」
「そうですね。無償の行為ですものね」
「絶対勝たない牝馬の馬券を買いつづけるような」
「あるいは、儲からないJazz barをつづける行為とも似ているかもしれませんね」野崎のセリフにマスターは笑った。
レコードを変えた。四人目の客が来た。
「美佐、しばらくぶり」
「Xさん、元気だった」マスターの名前は聞き取れなかった。
「大政翼賛会婦人部会の帰りかい」
「又、馬鹿にして・・・・」と言いながら幻滅という顔をして見せようとしたが上手くいっていない様に見えた。御互いの近況を確かめるようなありふれた会話が続いた。女性は時々「まだタバコ吸っているの」とか「体の調子はどうなの」とか母親が息子に諭すような物言いになった。マスターは「はいはい」といった感じで真剣に答えているとは思えなかったが顔は和んでいた。
野崎は思い出した。半年前に素行調査でもけさせてもらった木内美佐であった。勿論まじかで見るのは初めてであった。上気した顔の肌つやには張りが合ったし、その年の専業主婦としては溌剌として見えた。
「子供は大きくなったの」
『下は12歳、上は・・・・・14歳になったわよ』最後の方にちょっとした間があった様に思えた。野崎は長男は15歳ではと思った。
一瞬二人の空虚な視線が天井のライトの所で交錯した。
『長男は生意気よ。しゅうさんみたいに口が悪いから』上目使いでマスターを見た。
「じゃー、警官か取り立て屋に向いているね」グラスを拭きながら目はあわせなかった。
美佐は30分もいなかった。「シンデレラだから・・・」といって11頃店を出た。

あの日、美佐は同窓会か何かの流れで仲間の一人とこの店に寄った。店を一緒に出てきた二人は帰る方向が違ったのであろう別々のタクシーを捕まえた。友人の車が出た後美佐は店に戻った。忘れ物でも取りに戻ったのであろうと思った。時間が少し長いと考えたが大した事とは思わなかった。

勿論報告書にはそんな事は書いてはいない。それでよかったと思っている。
野崎は人生のB面ばかり聴かされるような仕事をしていると言っていい。
B面にはあまり聴きたくない曲も入っているものだ。
野崎はカルバドスを口の中で転がしながらよく聴いた「レフト・アローン」のB面はどんな曲が入っていただろうと考えていた。