メドック

私がその男にあったのは二度目になる。最初は都心のスターバックスの昼下がり。店内は混雑していて私はテーブルにぶつかり彼のコーヒーをこぼしてしまった。私は詫びを言いハンカチでテーブルを拭き、「代わりをお持ちしましょう」と申し出たが丁重に断られた。「俺、大きいサイズ頼んじゃって、これ以上飲むと夜寝れなくなっちゃうんで、」男の足元にはギターケースが置いてあり、右手がなかった。私はもう一度丁寧に謝り店を出た。
片手のギターリスト・・・・・・頭にはてなマークがいくつも出てきたがそんな些細なことはすぐ忘れてしまった。同僚の亜由美に連れられて六本木のジャズクラブに行ったときその男はカウンターにいた。ピアノの横にギタースタンドに立てられてギターがあった。使い込まれた風体で私の会社の役員よりは貫禄があった。何と呼んだらいいのだろうか・・・・・頭の部分にGibsonと書いてあった。
「亜由美、今日はピアノトリオじゃなかったっけ」
「そうよ、なぜ」
「ギター、置いてある、誰かゲストで入るの」
「ああ、あれ・・・カウンターの隅に片腕の人が見えるでしょう。あの人、村津さんていうんだけど昔ギターリストだったんだって。マスター言っていた。凄かったらしいよ」と亜由美は小声で言った。
「メンバーの麦本さんが俺たちのサウンドをギターに叩き込んでやるから置いておけと言ったんですって」
「弾くの?」
「まさか」と私の二の腕を軽くたたいた。
一部が終わった。私が知っている曲も何曲かあった。透明感のあるサウンドだが冷たくはない。無駄に盛り上がるわけでもないが刺激的でもある。
「三人が信頼しあっているのが空気感でわかるよね、亜由美」
「ちょっと、香奈いつから通になったの」
給料も入ったことだし二人で相談してメドックの赤ワインをボトルで入れた。赤ワインの渋みが二人をちょっとだけ猥雑にさせた。
「あの村津さんって子供助けるために自分が事故に巻き込まれて片腕失ってしまったんだって」
「自分の子供ならそうするかもね」
「他人の子なんですって」
「じゃー、何倍も立派じゃない」
「でもミュージシャン仲間からは村津は大馬鹿野郎だって言われているらしいの」
「なんでなのよ」私は納得がいかなかった。
「助けたのは人間の子じゃないの、犬の子、それも雑種」
私のワインを飲む手が思わず止まった。しげしげと村津さんを見てしまった。ラルフローレンの様な品の良いスーツに明るいグレイにあうピンクのドットのタイをしめ、右手の袖は丁寧に折りたたまれピンでとめられていた。頭には白いものが混じり始めている。五十歳ぐらいであろうか。顔は木彫りの仏像のように穏やかである。
ベースの麦本さんが村津さんのところに行った。
「村津、商売は如何だい」
「損保の代理店は過当競争で大変ですが、昔の仲間が助けてくれています」
「村津、最後の曲はいれよ」
「麦本さん、手がないですから」と言って右手のスーツの袖をぶらぶらさせた。麦本さんは笑いながら「これと、ここはあるんだろう」と言って左手で胸を二回たたいた。最後の曲になった。
「仲間を紹介します。ギター、村津彦一」年配の人はやんやの拍手を送っていた。半数の客はざわついていた。曲はベラ・クルーズと紹介された。村津さんはアンプもつながないギターを左手だけで弾いている。私は耳を澄ました。いや、心を澄ました。何かの導線で村津さんと直接結ばれているかのようにパルスを感じた。私自身が奏でられているような気がした。
「香奈、どうしたの。飲みすぎた?」
演奏が終わった。「村津、俺は感じたよ」と言って麦本さんは左手で少々ぎこちないが、それでもがっしり村津さんと握手をした。私も村津さんのところに駆け寄った。
「以前、スタバでコーヒーを倒したことがあります。今日お会いするのは二度目です」
「ごめん、コーヒーを倒す子は月百人はいるから覚えていないなー」
「いいんです。その時コーヒは弁償できなかったのですが、ワインはいかがですか」
「ありがとう、ワインは頂くよ」
「先ほどの曲、村津さんの歌が聞こえたように感じました」
「そう、僕は弾いていないよ。それは君自身の歌だよ、たぶん」といって微笑みながらワインを口にした