最近、池田聡太四段のおかげで将棋に興味を持ってくれる人が増えた。「どれぐらい強いんですか」と聞かれることがあるが棋譜だけ見ても僕のレベルでは分からない。(僕の棋力はアマ二段くらいと思う)。これはC.パーカーのコピー譜を見ただけではパーカーの凄さは伝わらないのと似てる。藤井猛九段という羽生善治世代の棋士がいる。タイトルも取ったことがある実力者であるが、その業界ではそれまでには全くない発想の戦法を編み出した棋士として名が通っている。振り飛車だが玉を囲わずにどんどん攻める藤井システムと呼ばれる戦法はダンスと不可分に結びついていたスイングジャズの時代に出現したbe-bopの様な存在だった。その藤井が自分の戦法について語ったセリフがある。「自分の振り飛車は鰻屋の鰻だ、何でも指しこなす人の振り飛車は天婦羅屋の鰻だ」(寿司屋の鰻だったかもしれない)
何でも屋のbe-bopとbe-bop屋のbe-bopは違うという議論がある。その根底にはjazzの憲法はbe-bopだという暗黙の了解を前提にしている。果たして今の時代その前提はあっているのだろうか。
be-bopを突っ込んでやってきた人のbop系の演奏とさらっと通ってきた人のbop系の演奏は何となく違いが分かる。だからbopを通らなければだめだと言いたいわけではない。時々若いミュージシャンが説教めいたことを言われているのを目にするがそういう時は擁護もしたくなる。ビーバップも今の時代となってはjazzの一部であり、jazzは音楽の一部であり、音楽は世界のごく一部である。jazzも百年の歴史がある。だがどこの駅から乗ろうと聞くのを楽しむだけならいいが、演奏するとなると最低、快速列車が止まる駅は見ておいた方がいいかなとは思う。そう考えさせられるライブが最近有った。