復活の日

同名の映画もあったが今日は水泳の話である
池江璃花子選手の復活劇は素晴らしいものであった。尊敬する。道新も大きな紙面を割いて報じていた。道新もスポンサー企業なのだ。だが一選手の復活劇と国民全体の健康にかかわる問題を同列に扱うこと自体間違っている。このことを政治利用しようとする輩が必ず出てくる。そして声高に叫ぶのである。
「池江選手に向かってオリンピック開催反対と言えるのか」
「お国のために死んだ英霊に申し訳ないと思わないのか」同じ論法である。NHKは「火のリレー」を何度も報じる。いかにも健康そうな若いランナー、それを応援する人のよさそうな老人たち。周りでは反対とは言えない雰囲気が醸し出される。大阪では最大の感染者数が出ている。組織委員会はアメリカのいちゃもんが付かない限りこのまま押し切るつもりだ。
日本人の同調圧力に弱い国民性は戦後も変わっていない。
「震災の犠牲になった遺族の前で同じ言葉が言えるのか」
「演奏を終えたミュージシャンにつまらなかったと言えるのか」
「蒲焼にされたウナギの気持ちがお前に分かるのか」
「リンゴの気持ちがわかるのか」ポールは歌うであろう「林檎の気持ちは~よくわかる♪」
付記
「悪徳プロモーターに騙されてロックと昭和歌謡を唄うジャズうシンガーの気持ちがあなたにはわかりますか」
その答えを今週の木曜、金曜に聴くことができる。外出を自粛している方の為にライブCDRも期間限定で販売させてもらう。トピック欄をご覧の上ご支援いただきたい。

日本映画探訪記vol17 キャバレー

ライザ・ミネリ主演の方ではなく野村宏伸主演の角川映画の方である。僕はどんな映画でも途中で出ることはないし、ライブも最後まで聴く。ご飯も残さず食べる。だがこの映画を見に行った時には併映の映画を見ないで出てきてしまった。併映作品は「彼のオートバイ、彼女の島」で大林宣彦がメガホンを取っていることを最近想い出した。こちらはいい作品だ。もったいないことをした。何が気に入らなかったのかはっきりと思い出せないので見直してみた。なぜ見に行ったかは覚えている。ジャズを志す若者の生きざまが主題で尚且つ「レフトアローン」がメインテーマに使われているからだった。監督は角川春樹が自分でやっている。どうやらみんなに断られたかららしい。プローデューサーは黙って財布だけ出せばいいのである。見よう見まねでメガホンを握ってもフィルムの無駄、プラスチック塵の増加、しいては海洋汚染につながる。ニカ夫人だって調子こいて「ニカズドリーム」を録音したりはしないはずである。大人と言うものはそういう振る舞いをするものだ。まず「レフトアローン」をアルトで吹いた時の指使いもタイミングも出鱈目である。野村宏伸が悪いわけではない。監督がジャズをその程度に考えているからである。タイロン・パワーは「愛情物語」のピアニスト役をこなす為にすべての仕事を断り一年ピアノの練習に励んだ。その音をそのまま映画に使えるレベルだったと言う。考えていることがその程度だからすべてにリアリティーがない。雰囲気は50年代ハードボイルド映画である。冒頭鹿賀丈史演じるヤクザが掟を破った弟分を始末するシーン。ジュークボックスから「レフトアローン」が流れている。「レフトアローン」のシングル盤はありません。大体ジュークボックスは「ダイアナ」とか「この胸のときめきを」をかける道具です。鹿賀丈史の元情婦でジャズバーのママ役を倍賞美津子が演じていて夭折した天才アルト奏者の妹と言う設定である。違いの分かる女なのだ。キャバレー最後の日バンドマンが集まって最後の演奏をする。ふらりと立ち寄った倍賞美津子に野村宏伸は聞くのである
「今の演奏はどうでしたか」「
「もう、分かったはずよ」みたいなセリフを残して立ち去るのである。かっこ良い!となるはずであるが最初に吹いた「レフトアローン」と最後に吹いた「レフトアローン」が遜色ない出来であることに監督は気づいていない。
倍賞美津子のバーで野村が兄のサックス奏者のLPをリクエストする。野村は「全然、僕とは違うレベルだ」と感心し自分に落胆する。だが奏者は野村が「レフトアローン」を吹いている時と同じ大友義男に聴こえる。ここでも監督は気に留めていない。一事が万事それであるからカットの集合体である映画の出来は押して図るべしである。
峰さんが来た時に聞いたことが有る。峰さんはマル・ウォルドロンと「レフトアローン」をレコーディングしている。この吹替の話は来なかったのかと・・・・「来たんだけど、断って大友君を紹介したんだよ」
人生は無限の時間の集合体だと思っている人にお勧めの映画である。
付記
トピック欄もご覧の上ご支援よろしくお願いします。 LUNA「レフトアローン」やらないだろうなぁ・・・・

オリンピックの行方

聖火リレーが始まった時点でオリンピックはもう後戻りできないのではないかと危惧していた。それが小さなことがきっかけで違う様相に見えてきた。
もう半年以上米木の演奏を聴いていない。せっかく初リーダーアルバムを出したのだから大石と来てもらおうと思ったが忙しい二人のスケジュールがなかなか合わない。たまには一人で来てもらおうと思ってスケジュールを確認したところ週末を含めて4,5日空いているところは8月の限られた日程だけであった。調べてみると札幌でマラソンがある日程と前後している。これは航空券が値上がりし下手するとホテルも取れないのではと思っていた。ところが予期していたよりも安かったのである。この書き入れ時に大手旅行代理店が動いていないことに小さな疑問符が湧いた。もう組織委員会上層部と大手スポンサー企業、政権中枢部では中止で了解が取れているのかもしれない。どうせ保険で補填できる。その前に少しでも元を取っておこうとするスポンサー企業の思惑があの宣伝車の車列に象徴されている。
日本国内でも感染者は増え続けているがアメリカでは感染者数が2500万人、死亡者数40万で選手選考もできない状況なのである。アメリカは選手団を送り込んでこないはずである。アメリカのいないオリンピックは牛肉の無いすき焼きのようなものである。そんなすき焼きに金を払う酔狂はいない。NBCも放映しないであろう。モスクワ五輪をボイコットしたときも放映しなかった。放映権料は保険でカバーできる。では保険会社は大損か?保険会社は企業投資家でもある。このところのコロナ禍での株価高騰と無関係ではない。きっちりこちらで補填している。ではその投資の原資は何かというと我々の年金の拠出金だったりする。一見三方一両損の大岡裁きのように見えるがババを引かされているのは我々だったりするのである。
組織委員会は内心IOCあるいはWHOからかもしれないが中止要請依頼が来ることを願っているのではないか。だが自分からは誰も言い出せない。言い出しっぺはぼこぼこにされたうえ簀巻きで東京湾に沈められる。どうしても外部からの圧力で中止したように仕向けたい。被害者になれば五輪関係者は誰も責任を取らなくて済む。この関係はコロナ対策における政府と東京都知事の関係性の相似形だ。
組織委員会の「オリンピック絶対やるぞ」のキャッチフレーズはダチョウ倶楽部の「押すなよ、押すなよ」の代理コードと考えると一連の流れの説明がつく。果たして正解だろうか。
付記
オリンピックが中止になっても周年記念は中止にするわけにはいかない。トピック欄をご覧の上ご支援を賜りたい。

日本映画探訪記vol16 玄海つれづれ節

吉永小百合主演の人情コメディで風間杜夫と八代亜紀が共演している。のちの東映社長になる岡田裕介の企画で笠原和夫(仁義なき戦いの脚本家)他が脚本を手掛けている。情報通ならこのキャストだけでも映画の内容が想像つくはずである。岡田裕介と言う人物は生涯吉永小百合の最高の理解者であり支援者であった。東映と言う会社は一本当たればすぐシリーズ化し量産する「仁義なき戦い」や「極道の妻たち」は好例である。「八甲田山」が当たれば明治時代軍隊もの題名固有名詞の「二百三高地」を制作する。ではこの映画過去の何を継承しているかと言うと風間杜夫のヒット作品「蒲田行進曲」「上海バンスキング」なのである。風間杜夫は単なる二枚目俳優だったのがつかこうへいに鍛えられてコメディもできる俳優に成長していた。そこに吉永小百合をぶつけて新しい魅力を引き出そうと岡田は考えたはずである。原作は吉田兼好の「徒然草」とある。どういう過程でこのストーリーになったかは全く想像つかないが岡田は吉永小百合を引き立てる「何か」を見つけ脚本家の笠原に依頼したはずである。後で気が付いたのであるがタイトルの「玄海つれづれ節」は「徒然」と子連れのダブルミーニングになっている。
映画の冒頭、蒸発した夫の事を話し合う上流階級の家族会議の場面。「あ、やられた」と小百合ストは思うのである。吉永小百合がショートヘァーなのだ。ただそれだけで小百合ストは萌えるのである。来ている服も上流階級なので高級なものを着ているはずなのだがそうは見えない。それは吉永小百合が北九州出身の水商売上がりと言う出自のメタファーになっている。
吉永小百合は失踪した夫が北九州にいるらしいと言う情報を頼りに生まれ故郷に帰る。夫役は企画の岡田裕介が演じている。この人はいつも頼りないボンボンの役が多い。私生活そのままで何も演じていないのではと思うがプローデューサーとしては優秀なのである。吉永小百合は夫の借金の肩代わりにトルコ嬢に叩き売られるのだが東映のお客様感謝祭のサービスショットとして赤い下着姿の吉永小百合を拝める構成になっている。いかにも場末のトルコ嬢といういでたちのチリチリのかつら、百円ショップだ買ったようなヘアーバンド、安っぽいキャミソール、ドラキュラが血を吸った後のようなけばけばしい口紅。そのどれもが吉永小百合での実像をかくす小道具になっており吉永小百合のイメージが壊れないようになっている。そこには風俗嬢の吉永小百合がいるはずなのに萌えないのである。監督が五社英雄だったり深作欣二だったりすると長い濡れ場があるはずであるが岡田がしっかり吉永を守っている。
三船敏郎が地元北九州の有力者の役で出演している。炭鉱で働いていた吉永の父親とは同僚でそこから成り上がった。父親には恩義を感じていて最後は吉永を助けてくれる。三船が吉永に北九州の再開発の事を説明するシーンがある。私事であるが僕が勤務していた会社がそこに進出するときの話だった。多分三船が演じたような実在の人物がいたのだと思う。八代亜紀が取り立て屋役で出演しておりスナックで歌うシーンがある。大歌手なのに歌うと場末感が出てくる。一度だけ生歌を聴いたことが有る。バックが凄い。大石学、米木康志。セシル・モンロー、片山広明。「舟歌」など自分の持ち歌も歌ったが「you ‘d be so nice come home to」
などジャズのスタンダードも披露した。もともとクラブ歌手なので歌は上手い。ニューヨークで本家ヘレン・メリルとも共演している。エンドロールでは吉永小百合、風間杜夫、八代亜紀
の三人が踊りながら歌っている。吉永小百合のたどたどしいステップを見ると頑張れ,頑張れと応援したくなる。長々と書いてから映画とは何であったのかと考えるのである。大林宣彦監督は「映画の役目は嘘を嘘で塗り固めて一個の真実を導いだすことにある」と喝破した。ヒッチコックはそれを「映画的真実」と表現している。
ある種の映画を見るときはそういう意識を持って銀幕の向こう側にあることを探ろうとしながら見る。だが吉永小百合がショートヘアーで出てくるだけでそんな意識が吹き飛んでしまう。改めて自分は小百合ストなのだなあと思うのである。
付記
来週Lunaを迎えての16週記念ライヴ第一弾を敢行する。関東圏の非常事態宣言は解除されたものの客足は成層圏にまで遠のいている。外を歩く人の気配も感じない。レコードが終わると冷蔵庫のブーンと言う通奏音が虚しく響く。ライブ持続化CDRのご購入あるいはブログの定期購読でご支援を承りたい。ご支援いただいた部分については決して内部留保には組み込むようなことはしない。ミュージシャンの経済を1ミリでも動かすために使う事をお約束したい。
具体的なことはトピック欄をご覧いただきたい

リリアン

今日は本の紹介である。「リリアン」は岸政彦の小説集の名前である。村上春樹がマイルス・ディビスだとするなら岸政彦はギル・コギンズくらいマイナーだ。マイルスの名盤をたどっていくと忍耐力のある人はギル・コギンズと出合う事になる。岸政彦はそういう立場の人だ。本業は社会学者で研究テーマは沖縄や生活史と言う分野だ。その専門分野の著作は社会の中でひっそり生きている人の人格を「聴き集め」と言う手法で浮かびあがらせる。学術論文とは思えないほど豊潤で美しい。
この小説は大阪の片隅で暮らすジャズベーシストと酒場で知り合った女性との小さな小さな物語である。二人でコルトレーンの「ボディ&ソウル」を聴くシーンがある。説明するより読んでもらった方が早いので引用する。
下でずっとベースがささえる音をな、それも一つの音だけをずっと弾くねん。で、その上でテナーとピアノが自由に、完全に自由ってわけちゃうけど、まあ大体自由に動けるねん。
 ほな、ほんまにうかんでるねんな。
 そう思う
 そういうのって音で決まってるの?
 そう
 やっぱり、なんか怖いな
 怖い?
 音楽って、なんか怖い
 そう
 音で決まっている感じ。人間が要らん感じ。
 あ、前も言うとったな。
 うん
 ほんまやな。
 人間が音を弾いてそれが伝わるとちゃうねんな
 うん。
 人間が生まれてくる前に、それより先に、音の順番みたいなものが決まっていてその後に人間が生まれてきて、だからそういう順番の音を聴くとそう感じるようになってるねんな
 俺もそう思う。
 怖い
 怖くはないやろ。
 そやな。怖いっていうか。不思議?
 俺たち要らんみたいやな。
 そんな感じする。
 綺麗な音の順番とか組み合わせが、地球に人間が生まれてくる前から決まってるんやったら、俺たちみたいな場末のミュージシャンがやってる事って何やろな
 そういや私まだちゃんと演奏聴いてないな
 聴かんでええよ。
以下続く。
二人はジャズのこと、街の風景、今はもういない人々の事を語り合う。市井で淡々と生きる人の言葉が響き合う。ここの大阪弁はふわっとして包み込んでくれる。僕も鈴木央紹に大阪弁を習っているが何か嘘くさいと言われる。どこが、違っとるねん、完璧の母やで・・・・・
あのな
・・・うん
もっかい、リリアンの話して。
・・・なんで
ええから
読者の皆さん「リリアン」が何か気になりだしたでしょう。
わし、教えへんで、本買ってな。ほなバイなら。
参考文献
「断片的なものの社会学」岸政彦
「ビニール傘」岸政彦(小説)
どちらも自信をもってお勧めする。
 

聖火リレー

3月25日福島から聖火リレーが始まった。大阪府 では266人感染確認、緊急事態宣言解除後最多である。この儀式の為に解除したとしか思われない。一気にオリンピックへの機運を盛り上げようとのアンダーハートが見え見えである。政府高官は宣う。「開催が前提だ。聖火リレーが始まったらもうやめることはできない」あれっ、この馬―鹿ーフレーズ聞いたことあると思うのである。真珠湾攻撃から始まった戦争が沖縄決戦まで続けざるを得なかった大本営に酷似している。パーカーフレーズのコピーは歴史を学ぶことに等しい。馬ー鹿フレーズは歴史をスィーブ愚弄すマンである。初日トーチの火が消えるアクシデントが2度あり予備の火で点火しなおした。「聖火」とはその程度の価値しか無い。 新興宗教が販売するご利益があるとされる「聖水」と同じようなものである。そもそも聖火リレーが始まったのはヒットラー政権下のベルリンオリンピックの時である。国威高揚のセレモニーとしてであった。このセレモニー全国合わせて50億の予算が掛かる。単なる「火」のリレーが国民的イベントとして押し付けられ、スポンサー企業の宣伝車を先頭に喧騒なパレードが繰り広げられる。
震災の影響が色濃く残る双葉町の映像を見た。聖火ランナーの走るコースは駅前をぐるぐる回るだけ。道路一本入ると無人の街並みが続く。復興の証としてのオリンピックとは1万光年のひらきがある。
「火」のリレーは火遊びである。子供の頃火遊びをするとおねしょをすると母親に言われたものだ。お漏らしはシーツを取り換えれば済むが放射能の漏れは取り換えるシーツがない。

詭弁と暴言worst 3

菅総理大臣「政治責任という定義は無いんじゃないでしょうか?」
加藤官房長官「虚偽答弁については、必ずしも固定した定義は国会の中において、あるとは承知していない」
こんな低劣な答弁が無批判に垂れ流されている。政治部記者の倫理観はどこへ行った。
Where have the flowers gone ,long time passing ♪
麻生財務大臣
「マスクなんて暑くなって口の周りがかゆくなって、最近皮膚科がはやっているそうだけどいつまでやるんだね。真面目に聞いているんだよ俺が。あんたら新聞記者だからそれくらい知っているんだろう。いつまでやるのこれ。」
開いた口が塞がらないとはこの事だ。誰も好き好んでマスクをしているわけではない。稀に化粧するのが面倒でマスクでごまかしている女性が30万人くらい入るかもしれないがそれは例外だ。国民にお願いしておきながら自分は守ろうともしない特権階級意識丸出し。そしてそのお言葉を唯々諾々とこうべを垂れて承る大手マスメディア記者。「悪い子はいねえか」となまはげに脅されて大人しく従う子供そっくりだと思うのである。僕は腹が煮えくり返るのであるが周りにはそういう人はあまりいない。
「まあ、そんなに怒りなさんな・・・君子危うきには近寄らず、清濁併せのむのが大人と言うものではないですか」という天からのお告げが聴こえる。
あるいはあんな不遜な態度をとっても誰にも何も言われない地位こそ最高と思っている人の方が多いと言う事はないと思うのだが・・・・
今の時代斜に構えたほうが生かしていると言う事か

オリンピッグ問題

演出に豚の格好をした渡辺直美を使おうとしたディレクターが叩かれて辞任した。世界に発信するレベルのアイデイアではない。この人物は先のオリンピックの閉会式で安倍総理にマリオの格好をさせて日本の総理のレベルの低さを世界に知らしめた人物でもある。御多分に漏れず電通関係である。
森喜朗前委員長同様女性蔑視の観点から論評されている。女性に豚の格好をさせるとはけしからん・・・と。ここで一度?マークがつくのである。豚だからダメなのか・・・。そうではない。容姿によって差別してはだめだと言う事である。女性ピアニストのTに意見を聞いてみた。豚はやはりいやだと言う。「鹿は」「微妙」「鶴は」「それも微妙」なんだったら許せるかと聞いた。「猫」・・ここに落ち着く。猫がだめだったら劇団四季は商売あがったりになる。僕は豚は可愛い動物という認識なので文脈を無視して女性蔑視と言われるとピンとこない。どちらが菖蒲か燕子花・・みたいな日本文学の根底に通ずる表現もダメなのかと疑問は次々に沸く。実際学生の頃「白豚ちゃん」と呼んでいた女性がいたが彼女から訴えられることはなかった。イスラム圏では豚は不浄な動物と言う事になっている。その動物に女性を例えるとは論外であるという主旨の記事が中東で掲載された。プロデュースと言う仕事はその程度の文化の違いが判る見識を持つ人間に任せなくてはならないという事である。
渡辺直美のコメントが新聞に載っていた。非常にしっかりした内容で好感度上がる事確実である。だがこの種のコメントを聞くと喉に小骨が刺さったような感覚にとらわれる。あの体形があってのビヨンセの物まねではないのか。昔の渡辺直美なら、と言うより所属事務所はこの仕事に飛びついたはずである。豚の格好でオリンピック・・・これで一生食べていけるお胸をなでおろすはずである。「狩人」が「あづさ二号」一曲で食べていけるようなものである。たとえが分からない・・・・。ジャズフアン為のたとえである。アーマッド・ジャマルが「ポインシアナ」一曲で食べていけるようあののである。分からない・・・。ビートルズが「yesterday」一曲で・・・・もういい。あそ・・
昔グラビア誌に惜しげも無く裸体をさらけ出していたタレントがひょんなことから人気が出て演技派女優に舵を切る時現れる光景と同じ位相である。 ちょっと前『人間見ためがすべて』(タイトルうろ覚え)と言う新書が結構売れていた。容姿端麗、有名大卒を採用しておけば空くじなしという企業の思惑だってある。容姿が全く関係ない女性と言うのは世界でただ一人母親だけである。
大事なことが最後になった。「えっ、まだオリンピックやる気なんだ」と言う事である。オリンピックなんかやったって「コロナに打ち勝った証」なんかにはならない。「分別ある政権の証」としてオリンピックは中止してほしいい。4兆円の経済効果など利権がある者のへの中元話である。

記憶の行方

今国会で「記憶にありません」と言うセリフが流行っている。総務省とNTT、東北新社との接待に関する質疑の時である。ロッキード事件の時小佐野賢治や児玉誉志夫が多用していた。
注意を払う必要がないもの」は「記憶にありません」が許されるが「注意を払う必要が絶対的にあるもの」では許されない。彼女の誕生日のデートの日「ちょっと変えてみたんだけど、どう」と聞かれたとする。髪型なのか、口紅の色なのか服装の趣味なのか・・・細心の注意をもって答えなくてはならない。「記憶にありません」では執行猶予なしの実刑判決を食らう。僕は50年以上前の学祭の時に着てきたブラウスの色を間違っただけで今でも咎められる。
話は全くそれてしまった。今国会で問題になっていることは例えば踏切を渡る時「警報機は点滅していましたか」と「手前にあったコンビニのポスターは見ましたか」の違いである。
不正疑惑は前者で「記憶にありません」は許される返答ではない。だが皆安々と追及の網を潜り抜けてしまう。論理矛盾を突く質問がないかと考えていたら戦史研究家の山崎雅弘氏が鋭い指摘をしてくれた。問うべきは「特定の話をしたか、しなかったか」ではなく「そのような話をしてはいけないと注意を払う努力をしたか否か」であると言う。公務員は倫理規定で利害が絡む話はしてはいけないことになっている。だから宴席であっても細心の注意を払っていることになる。「記憶にありません」という返事は国家公務員失格を意味するからである。だから「その努力をした」と答えたとしたら「努力したのなら『その話はしていない』と明言できるはずですね」と追及の手を緩めない質疑ができる
総理や大臣、官僚が記憶力の悪さを競い平気でうそをつき通す。拙い詭弁で居直る態度の下劣さに辟易するが諦めてはいけない。こんな国の状態で次の世代には渡したくはない。

日本映画探訪記vol15 戦場のメリークリスマス

この映画監督大島渚は軍隊経験がない。それまでの戦中派が制作した戦争映画とは一線を画している。軍国主義を叩き込まれて皇軍として戦地に赴きそして完膚なきほど叩きのめされた恨み辛みが全編を支配している映画はそれが娯楽映画として制作されていても暗い影を引きずっている。この映画は情話としての戦争映画を否定している。設定はインドネシアの捕虜収容所と言う事である。坂本龍一演ずる所長とデビット・ボウイ演じるイギリス将校とのホモセクシャルをにおわせる関係と北野武が演じる軍曹と通訳の将校ローレンスの奇妙な友情を縦糸、横糸で物語は進行していく。女性は一人も出てこない。映像も妙に明るい。坂本龍一のヨノイ大尉はYMO時代の化粧を施されている。当時映画館で見た時は教授が大写しで出てくる場面を写真に収めている女性がいたものだ。
捕虜収容所の生活が日本の視点のみならずイギリスの視点でも描かれている。デビット・リーン監督「戦場にかける橋」に共通するものを感じた。
大島渚監督は「大日本帝国」と「連合艦隊」に出演した俳優は絶対に使わないと言ったそうである。それで坂本龍一や北野武やデビット・ボウイといった素人が重要な役で出ることになった。うまい演技とは思ないが映画の出来の足を引っ張っているとも思えない。デビッ・ボウイには敬意を払いパントマイムをさせている。
エンディングも坂本龍一の作曲したメロディに乗せて北野武が「メリークリスマス、ミスターローレンス」と繰り返すセリフで終わる。妙に明るい。情話を排している