Two for the road

一度腰痛になると最低ひと月は悩まされることになる。腰痛ベルトと湿布薬で対抗している。自転車で湿布薬を買いに行った。
これがほんとの「チャーリ・クスリチャン」
このことが言いたかったわけではない。
その帰り、何台もの自転車が駐輪している狭いスペースをのろのろと走っていたら通り過ぎた場所で自転車が二三台倒れ始めた。進行方向に二人連れの外人が信号待ちをしていてこっちを見ていた。手のひらを上に向け肩を狭め小首をかしげた。「オーマイ ガット!」のポーズである。僕の責任ではないが倒れた自転車を起こした。自分の自転車が倒れていると強風のせいかもしれないがちょっと寂しくなる。自分の自転車を引っ張り出すために人の自転車をなぎ倒す輩がいるからだ。その行為を見ていた外人が親指を上に立てて「Great!」と声を上げた。僕は焼け落ちる家屋から赤ん坊を救い出した消防士くらいいい気分になった。信号が変わった。僕は「どうぞ、渡ってください」くらいの気持ちで「two for the road」と言って手を進行方向に流した。
「It’s a nice song」という反応が返ってきた。こんなところで「two for the road」を知っている外人に会うなんて奇跡である。
津村の弾く「two for the road」を思い出した。
僕はひとときだけ腰痛もコロナも忘れルンルン気分で自転車を走らせた。こういう時口をついてくる曲は「two for the road」ではなく「青い山脈だ」

Jazz紳士交遊録vol14 鈴木央紹

鈴木央紹と付き合うようになってからまだ10年ほどである。鈴木央紹を連れて来てくれたのは原大力である。原を連れて来てくれたのは米木だ。米木と知り合わせてくれたのは神の思し召しである。
テナー奏者で知り合った順で言うと高橋知己、井上俊彦、臼庭潤、峰厚介そして鈴木央紹と言う事になる。先の四人は大雑把に言って申し訳ないがテナーらしいテナー・・・テナー界の王道リ・ヘップバーンである。央紹のテナーは対極にあると思った。音色は甘いが軟ではない。フレージングは伝統に根ざしているが近未来的である。それをほとんど完ぺきと思われるアティキュレーションで音を紡いでいく。いくら早いパッセージを吹いても忙しく聴こえない。アウトバーンをベンツで150キロで走っているときの乗り心地に似ている。
そして、圧倒的な読譜力。単にオタマジャクシが強いと言うレベルではなく譜面の奥にある作者の意図を見抜く力がとてつもなく早い。だからこちらのメンバーとやってもらう時にもオリジナル中心であっても安心して聴いていられる。初見で30分のリハ・・・・それでも高いレベルの演奏を聴かせてくれる。
時々耳に入るやっかみ半分のコメントでは「あまりうまくてもなあ・・・」とか「うまいけどつまらない」とかがある。好き嫌いは誰にでもある。それはいい。だが下手だけど素晴らしいという演奏家がいるなら教えてほしいものだ。
仕事は忙しい奴に頼めと言う格言がある。ミュージシャンにも当てはまる。央紹は連絡も早い。だからトントンとライブスケジュールが決まっていく。今年はのべ10日間ほどやってもらった。コロナ禍でルパンなどのホールでの仕事がほとんど飛びlazyのような小さな店で額に汗して働く意味を知ったようだ。ざまーみろ。
「Go toキャンペーンで安いパックが見つかったがどうしましょう」と提案があった。
乗ろうじゃないか。目標ができればその月まで持ちこたえる方策をひねり出さなくてはならない。
次鈴木央紹に会えるのは1月中旬になる。

沈黙

遠藤周作の「沈黙」は二度映画化されている。一度目は篠田正浩監督二度目はマーティン・スコセッシ監督による。隠れキリシタンの弾圧と布教に来た宣教師の棄宗と言う重い題材を扱っている。その中で「ころぶ」と言う用語が使われている。宗教を捨てさせることである。
「ころぶ」・・・・役人の方から見ると「ころばせる」になるが今の日本でこの「ころばせる」行為が色んな分野で起きている。
河野太郎行革担当大臣は学術会議に「言う事聞かないなら予算減らすぞ」と露骨に恫喝している。河野大臣自身一昔前はもう少し民主的な議員で会ったがあるポストと引き換えに「ころんだ」口である。アメリカも酷い国になり下がったがデニーロやレディ・ガガの発言が封じられることもないしオオサカナオミの行動も賞賛の拍手で迎えられている。日本ではキャリーパミュパミユは政治的発言を取り消す行為を強いられ小泉今日子にも事務所から圧力がかかったと聞く。令和新選組の山本太郎は役者時代ある発言を境に全く干されてしまった。山本太郎はつい最近も街頭演説を大阪府警に妨害された。通行の邪魔になるとの理由であった。明らかに言論弾圧である。学術会議への人事介入も「学問の自由」の侵害と言うより「言論弾圧」に近い。学者界でも「ころぶ」発言をしている者も出てきている。わが故郷北海道でも20億と引き換えに二町村が核ごみを受諾し「ころんだ」
内閣人事局創設で官僚が「ころび」会長人事でNHKが「ころび」パンケーキ朝食会でマスコミ記者が「ころぶ」
権力者は「ころばせて」国民を分断することで管理コストが安くつくことを知っている。
「ああ、そういうことですか、気が付きませんでした」と河井案里議員や杉田水脈議員が言っているかもしれない。
「ころんだ、ブスの卵」の一例である。

日本映画探訪記その10 風の歌を聞け

村上春樹がノーベル賞を取りそこなった日、僕は「風の歌を聞け」のビデオを見ていた。処女小説を大森一樹が映画化したものである。たまたまビデオショップで見つけたのである。村上春樹は自分の原作を映画化するのをあまり好んでいなかったと聞いていたから映像化されているだけでちょっとした驚きであった。原作の時代設定は1970年の夏。映像は新宿の騒乱から始まる。多分1968年10・21国際反戦dayのドキュメントだ。原作にはそういった描写はない。大森監督の強い思いがある。
この場面を見た時にこの映画は村上の世界とは違うと思った。それは僕の印象で映画の出来不出来とは関係ない。原作はすべてにおいて乾いた印象がある。人間関係、風景、音楽まで・・・それが主人公と社会との距離感。友人「鼠」との人間同士の微妙な距離感を醸し出している。映画の方は湿った空気感が漂っている。生活感があり所謂「日本的」なのである。村上はこの小説を英語で書き日本語に訳して作品化した。一度言葉のフィルターにかけ日本的なじめじめしたものを取り除いている。大森監督は一度捨てた物をもったいないと言ってごみステーションから拾ってきているような印象だ。
村上春樹は三島由紀夫や谷崎潤一郎とは一万光年くらいの距離があると思っていた。だが読み手によってはそこに共通項を見出す人がいることに驚きを覚える。まして文学と映像である。表現の領域が違うことを念頭に置かなければ自分の感性は広げられない。
大林監督は原作も脚本も映像を作るための素材であると言い切る。書いてもらった脚本を一行も使わなかったこともある。
原作と映像の関係を考えさせられる作品であった。
巻上公一が役者で出ていたがヒカシューの音楽も一部使われていた。さすがに村上春樹の世界とヒカシューは食べ合わせが悪いと思うのだが・・・・
大間のマグロをソースにつけるような・・・・
参考文献
村上春樹の解説本は本人の小説より多い。厳選3冊だけ紹介する。
「村上春樹は、むずかしい」加藤典洋 岩波新書
「もういちど、村上春樹にご用心」内田樹 文春文庫
「村上春樹の隣には三島由紀夫がいつもいる」佐藤幹夫 PHP新書

踏んだり蹴ったり

定期的にやってくる台風のようにまた腰痛がやって来た。三週間ほど前から腰に鉛が入ったように違和感がある。騙し騙し生活していたが一週間前防波堤が決壊した。朝目が覚めたら起き上がれない。ひっくり返った亀のようになってしまった。ゆっくり俯せの姿勢になって四つん這いになる。それから腰に負担が掛からないように二足歩行に切り替える。階段の登りは自宅では四つん這いである。近くの物を取る時など気合入れて立ち上がり、ゆっくり腰をかがめ新聞を取りまた腰をかがめて椅子に座るよりハイハイのほうが圧倒的に楽だ。類人猿がいかに危険を冒し二足歩行になったかが実感できる。中腰が一番辛いand ファミリーストーンである。
古新聞を片付けると間から電気料金の請求書が出てきた。コンビニでの支払期間はとうに過ぎており電気を止められても仕方ない期日になっている。老骨に鞭打って北電本社まで払いに行かなくてはならない。地下鉄駅の階段の上り下りよりも自転車のほうが楽かと思った。町内を一周する。何とか行けそうである。数分の駐輪時間である。玄関前に留め支払いを終え戻ってきた。鍵が開かないのである。何度もガチャガチャ鍵を動かす姿を横目でにらみ通行人が通り過ぎていく。自転車泥棒と思われているのでは・・・・と冷や汗が出てくる。方法は後で考えるとして公共の自転車置き場まで移動しなくてはならない。幸い駐輪場は近くにあったが自転車を担いでの道のりはシベリアから帰ってくるより遠く感じられた。

腹立ち日記vol37 日本学術会議その2

「今まで学術会議に何の興味を持っていない輩が騒いでいる」みたいな論調がある。ワールドカップの時期に一億総サッカー解説者になってメッシの怠慢プレーを非難するのと同じレベルであると思っているらしい。魔法の言葉である。世の中の不正に意見を言う行為を押しとどめようとする。桜問題も森友、加計問題もこんな問題が起きる前は興味すらなかった。当たり前である。日本学術会議任命問題は学問の分野にまで魔の手が伸びてきたと言う事である。集団的自衛権の法解釈変更からの一連の流れを見ていると1930年代の日本に逆行しているように思える。治安維持法も特高もないのに文化面がどんどん疲弊している。
「推薦された方をそのまま任命してきた前例を踏襲してよいのか考えてきた」と菅総理は述べた。「総合的、俯瞰的に判断した」と言う事である。なんだこの「総合的、俯瞰的」と言う日本語は・・・・何の論理的説明にもなっていない。この問題に関する大手メディアの報道も酷い。単なる両論併記だったりする。権力の横暴と脱法を見て見ぬふりをしている。NHKはこの問題は完全に無視である。「ヴァン・ヘレン死去」はニュースになっているのにである。どちらが重要な問題なのか・・・・。
日本学術会議には10億の予算がついている。それを盾に言う事を聞かせようとしている。
公の機関として運営を補助しているのは学問の自由を保障するためであって政府に従属させるためではない。裁判所は国税で運営されている。近い将来「あいつ気に入らないから20年くらいぶち込んでおけ」と総理が指示することになるのと論理は一緒である。菅総理も「政府」と「内閣」を混同するトリックをよく使う。前出の例も所属するのは「政府と言う機関」であって「特定の内閣」では断じてないのである。
菅総理も天皇陛下に任命されたはずである。「あいつ気に入らなないから、今回は任命するのやめとこう」と言う事にならなかったことを忘れてはいけない。

傀儡

杉田水脈議員は頭が悪い。こう言うと女性差別であると抗議のメールが来てブログが炎上するのであろうか。こういうバカ女がいくら頭数そろえても女性活躍時代には程遠い。
まず公人という立場が全く分かっていない。公の場でLGBTの人を生産性がないと貶めた。伊藤詩織さんを「女はいくらでも嘘をつく」と言って誹謗中傷した。だが処分は免れている。
水田水脈議員は安倍元総理の肝いりで比例中国ブロックのトップに選出された。名前は水脈だが人脈とその裏に流れる金脈で議員になった人である。安倍元総理を始めとする自民党の親爺議員たちの本音を代弁する腹話術の操り人形だからである。その立場も判っていない。
辞職しなければ次の選挙で落とせばいいと言うかもしれない。だが中国地方では自民党に投票すればもれなく杉田水脈議員が付いてくる。グリコのおまけなのである。
比例名簿に載せている自民党の責任、その長である自民党総裁の責任が問われなければならない。だがこういう場面になると今の総理も自民党総裁から行政府の長である総理大臣にコードチェンジするのだろうな・・・。
安倍チェンジはコルトレーンチェンジより有名になってしまった。

腹立ち日記vol36 日本学術会議

菅内閣によって日本学術会議による人事案が覆された。政権の立案した法案に反対した学者が排除されたのである。だが公式の説明はない。どうぞ忖度してくださいと言う事である。学者自身が「あの発言がまずかったのでは・・・」と自主規制のハードルを上げていくだろう。コロナ禍の自粛規制を強いる手口と同じである。加藤官房長官は「これが直ちに学問の自由の侵害にはならない」という。注意すべき用語は「直ちに」である。じわじわ遣らせてもらいますよ・・という意思表示とみる。
「法に法に基づいて適切に対応した」とある。猿の尻ほど赤い嘘である。学問の自由を担保した条文と任命を拒否はできない条文の二項にわたり憲法違反である。中国が香港、ウィグル自治区の統治強化に使う表現と酷似している。日銀、内閣法制局、検察庁人事に介入し、内閣人事局で忖度官僚を従える。火の粉は学術分野に及んでいる。次は芸術分野だ。出版物で不適切な表現は「法に法に基づいて適切に対応した」結果、出版差し止めになる悪夢を見たくはない。
ジョージ・オゥエルの「1984」を思い出す。真理省なる役所が国民の行動規範を示し
相互に監視しあう社会を構築する。あと一歩のところまで来ている。
携帯料金を下げておけば国民は喜んでいるだろうと言う感覚が人を馬鹿にしている。

討論会

討論会
For the first・・私のいいたい・I want//〇〇〇・・聞いてください・・Its my turn//
XO△XXX/・・・だから 
今日のアメリカ大統領選公開討論の実況中継である。トランプ大統領、バイデン候補、司会者、それぞれの同時通訳が三人。入り乱れて喋っているのでほとんど何を議論しているのか分からない。トランプ大統領は人の話をほとんど聞かない。司会者が最後まで「質問を聞いてください」と制止しているようだがフライング気味で話はじめ一度ソロを始めたらコルトレーンのように終わらない。確かにバイデン氏は影が薄いかもしれない。トランプ大統領はバイデン候補の事を頭が悪いと中傷したり、論点をすり替えたりリングに凶器を持ち込む悪役レスラーのようである。だが悪役レスラーには鉄板のファンがついていて支持率はそんなに変わらない。乱暴で考えも狭量であるが勢いはある。そんな勝ち馬に乗りたいと言う支持者に支えられている今のアメリカの現状がある。
論争がうまい人と言うのはどの業界にもいる。田原総一郎の「朝まで生討論」を見ていると相手がキープしているボールをユニフォームを引っ張ったり足をかけたりしながら強引に奪う出演者が必ずいる。田原総一朗はレッドカードを出すわけでもなくホイッスルさえ吹かない。こういう人は相手の主張に正面から反論するのではなく「相手が知らなさそうなどうでもいいことを」質問する。相手がそれにこたえようとしたら勝ちである。質問して答えを査定できる立場になったら「勝っているように見える」ものである。
こういう技術は飲み屋の親父は身に着けておいたほうが良い。面倒くさい客対策だ。
「ギルド・マホネスのハーモニー感覚におけるビル・エバンスの影響についてどう思いますか」
「それは・・・そろそろ帰ります。おあいそ」と言う事になるはずである。知らんけど・・。
「オレに分かるように説明しろ」と言う攻撃方法もある。これは見かけより高度な論法である。「説明しました」「わしは分からん」と却下できる。前例と同様査定できる立場になったら勝ちなのである。
「ギルド・マホネスは左手の和音にトニックとメジャー7をぶつけることあります」
「わしは分からん」
「ハーモニーは分かりますか」
「わしは分からん。そのハーモニーとやらを分かるように説明してくれんか」
大体常識人はこの辺で切れる。
「ばーか。渡辺貞夫のjazz studyくらい読んでからこいや。お前の母ちゃんデベソ・・・」
と怒鳴って論争に負けるのである。

腹立ち日記vol35 蜜蜂

竹中平蔵。菅総理が真っ先に会った人物である。肩書はパソナの取締役。マスコミに出るときはまだ経済学者と名乗っている。給付金関係で電通と組んで事務手続きの手間賃を中抜きした会社の社長である。蜜のある所に蜜蜂あり。利権のある所に竹中あり。壁に耳あり、クロードチアリなのである。竹中氏は小泉内閣の時閣僚を務め規制緩和と言う名目で大企業に利する政策を進言した人物である。その後遺症が今でも残っている。
だがこの人物は「成功者のロールモデル」でもあるのだ。菅総理が提唱した自助、共助、公助を身をもって体現している。菅総理と面談した直後、自説を開陳した。「7万円ベーシックインカム」である。ベーシックインカム自体議論の余地ある考え方でドイツでは一部採用されている。憲法に保障される最低限の幸福を追求するための費用を国が負担すると言う考えである
。だが竹中氏の考えは全く反対で「7万円ベーシックインカム」を保証する代わりに年金も生活保護も廃止し後は「自助」と「共助」で何とかしろと言うものである。「ベーシックインカムと言うものはお上が下々の者に施すものである」と言う上から目線の思想がはっきりと感じられる。国民はとうとうお上に頼ってしまったと言う後ろめたさを感じるように仕向ける。自尊感情を奪えば政府に反抗する気持ちもやがて失われる。そういう時こそ一党独裁が跋扈する。歴史が証明している。
菅内閣の正体見たり!