2021.6.1  本山禎朗 孤高のソロ

本山については、これまでのレポートで手短に触れるに留まっていた。そんな中でもう“ソロソロ”ひと踏み込みしようかなというタイミングでこのソロに巡り合うことになった。従って、いつに増して真摯に聴くことになったのである。時の流れは、これからのJAZZシーンを担おうとする連中が東京に活動拠点を移す中で、本山は東京との交流を巧みに消化しつつ、それを地元に還元している貴重な存在である。折に触れ彼の音に接してきたが、いつの間にか気になる演奏家になっていたというのが個人的思いである。私たちが音楽に共感すると言うとき、大別して理由は二つあるだろう。一つは演奏そのものに、もう一つは演奏に対する演奏家の姿勢に対するものである。普通は前者が優先的に享受され、後者は遅れてやって来る。ところが、継続的に聴き続けていると、これは逆循に転じていく。演奏家像を通じて演奏を聴くようになるのだ。思い浮かべただけで、直ちに音が聞こえてくるミュージシャンがいるのはこのためだと思うのである。どうやら本山はその中の一員になっているようなのだ。そういう思いで聴いていたのだが、彼の静かなる熱意が、静まり返った場内を独占していく様子が胸を打つ。孤高のソロというに相応しいライブとなったのである。演奏曲は、「ウィッチ・クラフト」、「エミリー」、「ペンサティヴァ」、「ミスティー」、「ブッチ&ブッチ」、「カム・トゥギャザー」、「リトル・ウイング」、「ソラー」、「プレリュード・トゥ・ア・キス」、「イン・ラヴ・イン・ヴェイン」。振ったら当たったというような、まぐれの演奏は有り得ない。試練のあとの成果、これに逆循はない。当夜の模様は、CD-R10枚限定で提供されるとのことである。手遅れにならぬようお問い合わせ願いたい。
ところで、昨年、本山はソロのインプロ・アルバムを2枚リリースした。それは幾つかの音楽誌で賞賛されたと聞く。そこに何が書かれていたかは知らないが、聴いてみると、音に向かう本山の姿勢が伝わって来るものであった。ソロといえば、聴くのをためらう向きもあるかも知れないが、筆者は途中で止めることなく2枚一気に聴き終えた。それだけで、お分かりになるだろう。
(M・Flanagan)