橋本治の小説「渦巻き」に次のようなくだりがある。らしい。僕が今読んでいるのは高橋源一郎の『「あの戦争」から「この戦争」』と言う評論でそこからの孫引きで失礼!
<昌子は特徴のない女だった。結婚してからは専業主婦で、結婚前はOLだった。結婚を夢見るOLではなく。仕事に生きがいを見出すOLでもなく結婚と仕事の両立を目指すOLでもなかった。短大を出て就職しいずれ結婚も寿退社をするものと思っていた。未来を疑うでもなく、信じるでもなく、「未来」と言う言葉自体が「社会」にかかるもので、自分とは関係ないもの思っていた。信じるも信じないもなく、明日と言うものは順当にやってくる。
中略・・・・・・・・
しばらく待てば手に入るかどうかは別として、望む物は向こうからやってきた。そんな時代だった。昌子が特徴がない女だとしても、それで咎められるようなことはなかった。>
これを読んだ時、高校時代のある同級生Xを思い出してしまった。時代背景もたぶん僕らが高校生だった頃の様な気がする。Xは掛け値なくいい人間だ。僕が保障する。ただ若い頃は話していてもつまらなかった。NHK的な発言しかしなかったからだ。一般的な人は「考えない」のだ。僕が言っているのではなく、橋本治がそう言っている。けっして「一般的な人」を馬鹿にしているわけではなく、そもそも人間は考えるものなのだろうかと問いかけている。特に小説や映画の中では深遠なことを考えている場面にでくわす。僕も考えている振りをすることがある。だから考えていない人はすぐわかる。同じ匂いがするからだ。僕の今の職業はある程度まで考えても日常生活に齟齬をきたさない。jazzの将来についていくら考えても半分仕事だから問題ない。僕が北洋銀行の審査部課長だったらかなり難しい作業だ。適当にしないとあちら側の世界に行ってしまうからだ。
それで僕も適当に慣れて店でもあまり怒らなくなった。
Xは大学生の娘に「お母さん青春あったの」と訊かれたらしい。娘から見ても特徴のない女性に見えるらしい。
「そうよね・・・・」と口ごもってしまったと言う。
「何でちゃんと在ったって言わなかったんだい。xxxxとxxxしたことだって、いちどだけxxxもしたじゃない。子供三人成人させて孫ができて還暦にしては若々しいよ。普通で何が悪いのといってやれよ」
Xは自分に言い聞かせるように「あった、あった」といいながらにこにこしながら店を後にした。
僕も時々はいい仕事をする。
よいしょっと!