頭の悪い人によく出会う。ふらっと寄った飲み屋で、コンビニで、国会で、自分の店で、そして自分の中で。
勿論学歴のことでも偏差値のことでもない。無知とは何か。受け売りだが「『無知』とは知識の欠如ではなく知識に飽和された状態で「新しいものを受け入れることができなくなった状態をいう」とある。一ジャンルの視点からしか音楽を語れないミュージシャン、蘊蓄や商業雑誌の音楽情報を語ることを音楽そのものを語ることだと勘違いしているリスナー。その誰もが自説に固執する。そして例えば僕に同意を求めてくる。「そうは思わない」と言おうものなら「お前は俺の意見を認めないのか」とくる。意見を言うのは自由だが、それに同意するかどうかも自由である。そういう人と話していても会話は全くスイングしない。そのような人は知識、情報を加算しているだけで新たな知的フレームを作り出すことができない。ゆるぎない人は逆説的であるがその都度自己刷新している人でもある。僕も長年jazzに関わっているので誤った意味で詳しいと思われることがある。ブルーノートの4000番台の最初のLPはなんだとか、ジャイアント・ステップのタイトルの謂れはとか、テナーマドナスでコルトレーンとロリンズが共演している理由は何かとか、そういうことに詳しいことそのものがjazzを知っていることにはならないと思っている。後逆に「ビーバップとはなにかを、一言で」こういう質問も困る。一言では言えないからだ。何とか複合要素を簡潔に説明したりするがどうしてもあいまいさが残る。人はシンプルな説明を好む。知的渇望の帰結であり時として政治的スローガンのように人々を扇動するテクニックにも利用される。知性が反知性に転げ落ちるクロスロードがある。自分程度の知力でも理解できる説明を渇望するときである。