泡盛vol2

泡盛vol2
ここに来るのは十年ぶりかな。そうそうあの岩陰でやどかり探したんだっけ。穏やかな海だね。水平線まで比重の違うリキュールを静かに注いだように青の層が分かれている。思い切り深呼吸をした。空の浮かんでいるクロワッサンのような雲を吸い込んでやろうと思った。これが娑婆の空気か・・・・こんなこと女の子が言ったらおかしいかな?
私は羊田メイ。24歳
そうそう、白と紺のボーダーの水着を着てイルカの浮き輪に乗って引っ張ってもらっているのが私。
バーからプールを見ている人がいるでしょう。あの人が私のパパ。
ついつい昔に癖で手を振ってしまうのだけれどこっちの私は見えないんだ。
そう、もう私は死んでいるから。
誰かが思いだしてくれたら年に数回こっちに来ていい事になっているんだ。
バーの方に行ってみよぅと。パパまだ私の方を見ているね。もっと色々あったのにこんなこと思い出しているんだ。
人影が無いプールを見続けているパパに片足の無い女性が「どうかしました」と聞いた。
「いえ、一寸思い出したことがあって」
私も飲んで良いかな。615号室の部屋付けにしておくね。一杯ぐらい多くついていたってわからないよね。
泡盛のソーダ割りか。やっぱり土地のもの飲まないとね。一緒に来た新ちゃんとマー君元気かな。あまりあっちには出る機会が無くて。んーんー。何も怒っていないよ。少しずつ忘れてもらわないと駄目なんだって。
パパと呼んでいるけど実の親子ではないよ。家出同然で出てきた私を拾って使ってくれたと言う感じかな。あのお姉さんは片足が無かったけれど、パパも女の子を小さいとき無くしているので心のジグソーが一個足りなかったの。その、ジグソーの形に私が似ていたのかな・・・
もう行かないと・・・・・・。
本当は駄目なんだけど私が来た証拠残していくね。

テーブルのグラスを倒した。
「すいません」すぐにモップを持ったバーテンダーがやってきた。
テーブルと床を拭いたバーテンダーが「お客様のお品ですか」と床に落ちていたパーラメントのタバコをテーブルのに上に置いた。私はもう一度目を凝らしてプールを見たが、プールサイドにぶつかるかすかな波音だけしか聞こえなかった。

泡盛 vol1

僕はうとうとし読んでいた本を落としその音で我に帰った。プールの向こうには水平線まで完璧な水色の海が広がり静かに波を運んできていた。北国生まれなのでこの海の色をなんと呼んで良いかわからなかった。完璧な水色。そうとしか言いようがなかった。プールサイドには甲羅干しをしている客が何人かいるだけであった。先ほどから水面をたたく規則正しいビートが聞こえていた。美しいクロールのフォームであった。その女性は泳ぐのをやめゴーグルをとった。知った顔であった。昨日オプションのマングローブツアーでバスの席が隣り合わせだった女性だった。彼女はいったんプールサイドに腰かけ呼吸を整えているかのようだった。それからプールから上がりこちらにケンケンでやってくる。花柄のワンピースで肌は程よく焼けていた。そして左足の膝から下がなかった。
僕は本に目を戻した。ビーチベッドは僕の隣であった。
「あのーちょっとお話しても良いですか」と彼女が話しかけてきた。
「ええ構いませんが」
「読んでいらっしゃる本はカーソン・マッカラーズの『心は悲しき狩人』ではありませんか」
「ええそうですが」
彼女はごそごそとビーチバックの中を探し一冊の本を取り出した。ペンギンブックの『the heart is a lonely hunter』であった。これが村上春樹の「1984」であったりしたらさほど珍しいことではなかったかもしれない。彼女は下半身に大判のバスタオルをかけた。「周りの人に気を使わせるので・・・・」と独り言のように言った。
「ずいぶん年季の入った洋書ですね」
「そうなんです。学生時代の教科書ですから」
この小説の中身をごくごく簡単に言うと口がきけない主人公のところに色々な人が悩みを話しにやってくる。口がきけないのでずっと話を聞き続けてくれる。だが誰も主人公の話を聞いてくれない。なぜなら彼は口がきけないからだ。彼の名前は象徴的だ。口がきけないのにSinger。要はリゾートホテルのプールサイドで読むような小説ではないと言うことだ。そしてこの小説を何度も読む人がいるとしたら「聞く」事の大事さを知っているような気がした。
僕は運命論者ではないが縁は大事にする。「よかったら。食事前に軽くバーで飲みませんか。」とさそった。

「そうですね、着替えてきますので30分後に・・・」手際よく義足をつけバスローブをはおり宿泊棟に歩いていった。プールサイドにこつこつと言う音が響いた。
シャワーを浴びドット柄のアロハにベージュの棉パン、素足にスリッポンを履いた。
彼女は時間どうりにやってきた。白のvネックのサマーセーターに黒のジョーゼットのパンツを穿いている。言われなければ片足半分ない事などわからないほど動作が優雅であった。
「何、飲みますか」と聞いた
「せっかくの石垣島ですから土地の泡盛を飲みましょう」と彼女は答えた。
たっぷりのレモンを絞って炭酸で割ってもらった。バーの窓はすべて空け放たれており海からの風がかすかに潮の香りを運んできていた。
僕は完璧なクロールができて、左足の半分がなくてプールサイドで『the heart is a lonely hunter』を原書で読む女性がどういう話題を話してくれるのか楽しみであった。
「暑い所では、塩なめながらきついお酒飲みますよね。テキーラみたいに・・・・・泡盛もそういう飲み方するようですね。地元の方は・・・でもこの時間帯は潮の香りを嗅ぎながら割って飲むのが良いかもしれませんね」と彼女が口を開いた。
「チャーチルのドライマティーニの飲み方の話で似たような話ありましたよね」
「ベルモットのにおいを嗅ぎながらジンをストレートで飲むのが究極のドライマティーニだと言う話ですか。それってうなぎ屋の排煙筒の下でご飯を食べるのと似ていますよね」彼女は自分で言って笑った。僕も笑った。出だしは悪くはない。彼女の声には何か人を落ち着かせるものがあった。
「綺麗なクロールのフオームでしたね」
「私中学生まで水泳習っていましたから。泳ぐとまだ左足のキックの感覚を思い出します」
「辛い話をさせてはいませんか」
「私が辛くなるときは私が存在していないかのように振舞われるときです。私がプールから出るときあなたは目をそらして本を読む振りをしました。読んでいる本があの本でなければ私は声をかけないで立ち去ったと思います。
私の水着姿いけてると思うのになあ・・・・・」
「正直、いけてると思いましたよ。でもあなたはなぜそんなに前向きで生きられるのですか」
「16歳で足をなくすと言うのは辛いことです。でも今の私はそのときの自分に会いに行って話しができるのです。そりゃ辛いよね・・・・わかるよ。あなたが私なのだから。17年後完璧なクロールで泳げる自分がいるし、たまたま同じ本を読んでいる人が隣にいてお酒の誘ってくれてSingerさんのように辛抱強く私の話を聞いてくれる。それって素敵じゃないって励ますの。それが一度できると何かあるたび未来の私が出てきて何年後もそんなに悪くないと教えてくれるの」
「いい話ですね」
「もし私に彼氏ができるとしますよね。私はお姫様抱っこしてとせがむの。私重いと聞くの。そんなことないよと言うでしょうね」
「たぶん」
「脚があったらもっと重いわよと言うの。微笑んで頷いてくれたらその人と一緒にやっていける気がするのです」
「その人なら大丈夫かもしれませんね」
プールを見ると娘を乗せたイルカの浮き輪を引っ張る10年前の自分がいた。

あとがき
冬道で転んでパソコンの上に体を預けデーターを取り出せなくなった。最近やっと探し出した。旧作であるけれど気に入っているのでアップした。続きもある

blue in green 1

小池百合子の都民ファーストが大勝し、池田聡太は破れ連勝記録は途絶えた。今日の朝刊は話題に事欠かない。煮だしたようなコンビニのコーヒーを飲みながら新聞を読み終えたときその女は入ってきた。勧めもしないのに俺の向いの椅子に座ると高々と足を組み事務所を一通り眺めると煙草をバックから取り出した。今月の俺の収入では買えそうもないブランドものだった。
「殺風景な事務所ね」
「形成外科の受付じゃないからな」
「雑な口のきき方ね。探偵さんはサービス業ではないのかしら」
「汝、何者か、を語れ。私はなにものでもなろう」
「ちょっと、違うけど・・・・・探偵さんは同志社大の神学科卒業なのかしら」
女は右手に挟んだ煙草を小刻みに揺らした。
「火、貸して」
「俺は禁煙中だ」
「あ、そう」と言って高級バックから金張りのライターを取り出しこちらにほうり投げた。
「点けて・・・・禁煙辞めたら付け方忘れないように・・・」
苦笑いしながら差し出した俺の左手にそっと自分の手を添えて火をつけた。
女は左足を上に組みなおした。悪くない眺めだ。どちらも熟練したスイッチヒッターの様なスムーズな流れだった
「男を探してほしいの」女は用件を切り出した
「浮気調査はやらない。犯罪にかかわる調査もやらない。迷い猫も探さないし文部省への口利きもしない」
「私が幼稚園の経営者に見えるかしら」と言って細いメンソール系の煙を俺に吹きかけるように吐き出した。
「話を聞こう」
「緑川亮、38歳三日前から顔出さないの」と言って写真をテーブルの上に滑らした。細面のいい男であった。前髪にはパラパラ白いものが混じり金融系の会社であれば素敵な上司ベスト3には入る印象であった
「なぜ、警察に届けない」
「野暮な探偵さんね。訳アリなの」
続く

泡盛vol3

羊田メイ、24歳。24歳だったというべきかな。もう死んでいるから何歳と言ったらいいのかよくわからないな。しばらくぶりだから私のこと覚えていないかな。石垣島のバーでマスターが片足のないお姉さんとお話ししていた時グラスを倒す悪戯をした娘だよ。生きていたころの話していい?楽しかったのと大変だったのが半々かな。カクテルのレパートリーがだんだん増えていくとなんか賢くなったような気がしたな。お客さんも女の子が手際よくシェイカー振ると喜ぶんだ。味・・・・悪くないと言われていたよ。パパはあまり褒めてくれなかったけど。ああパパってマスターのあだ名、私がつけたんだ。常連の人からは店ではマスターって呼んだ方が良いと何度も注意されたけど結局治らなかった。パパもあきらめたみたいだったし。お客さんは親子だと思う人もいたけど若い愛人だと思う人もいたみたい。そういう人って男と女の関係って一種類しかないって思っているんだよね。でもそういうお客さんって売上的には良いお客さんになってくれるんだよ。高いお酒進めても気前よく飲んでくれるしチップをくれるときもある。私目当てだからちょっと可愛い事言ったりしたよ。商売商売。パパはあまり商売けがなかったから、そういう時は私が稼いでいたよ。可愛いのかって。失礼よ。自分でも美人だとは思っていないけど人から言われるとむかつく。訂正腹が立つ。ムカつくって言うとパパ怒るんだ。ちょっと目が離れて,鼻は申し訳程度についている。でも愛嬌がある顔だって言われるよ。こういう商売は私ぐらいの器量がいいんだって。手が届く近所のお姉さんと言う感じ。そう、あまり綺麗だとお客さん同士で抑止力が働くらしいよ。
今日はちょっと店の様子を見に来たんだけどライブのない日は相変わらず暇そうだね。お客さん新ちゃんだけじゃない。新ちゃんって一緒に石垣島に行った子、パパの舎弟分みたいな存在でギターリストなの。私とは話あうよ。パンクロックの話で盛り上がったこともある。
「新、今日はおごるよ」
「マスターいいんですか、今月辛いんで助かります」
ああ、パパまた新ちゃんに泡盛奢っている。自分だって辛いはずなのにかっこつけている。
何の話かな・・・・・また音楽談義だ。この話になると長いから、私そろそろ行かないと。私の話でないみたいだね。新ちゃん帰っちゃったね。
パパ、メール書いている。見ちゃおうっと!
「新、メイが生きていた時間までいてくれてありがとう」
返信が来た
「メイちゃんの話しなかったですね」
二人とも私の命日覚えているんだ。パパったら新ちゃんと私の話したいくせに無理してる

ジム・ビーム

長い間店をやっているとお客さんから面白い話を聞く機会が時々ある。偶然に偶然が重なったような宝くじの4等賞にあたる確率よりは低いが政治家に公約が守られない確率よりは高い数値の話だ。NさんがNYに言った時の話だ。Jazzのライブを聴く為に行った。だから当然有名処のビレッジ・バンガードやスイート・ベイジルには早々回ってしまった。当たり前だがレコードを出している有名ジャズメンガ出ている。だがお目当てのソニークリスのライブには当たらなかった。
明日日本に帰ろうという日たまたま見つけた店に入ってみようと思ったらしい。出演者のクレジットはなかった。重いドアーを開けて中に入ると丁度演奏中であった。日本人のような風貌であった。照明が当たった時気が付いた。地元で詐欺師まがいの事をやりながら店をやっていたTだった。わざわざ来たNYでそれも最後の日に地元にいても聴きたくない演奏家のプレイを聴く羽目になった事を呪った。すぐ出ようと思ったがカウンターに座っている黒人が目に入った。目を疑った。丁度楽器を出す所であった。
「ソニー・クリスさんですか」
「俺がリー・コニッツに見えるかい」
Nさんは結局遊びに来ていたソニー・クリスの演奏も聴く事が出来たという話だ。
調子はよさそうには見えなかった。それでも明るいけれど哀愁のある音色は健在だった。相反するものが一度に楽しめる鴨南蕎麦のような演奏だったらしい。
演奏を終えたソニー・クリスがカウンターの隣の席に陣取ってあちらから話掛けてきたと言う。
「あんた日本人かい」
「はい」
「俺が日本では人気があるって言うのは本当かい」
「あなたは、J・マクリーン、Pデスモンドと並んで人気がありますよ」
ソニーはどういう基準なんだと言うちょっと怪訝な表情を見せたが満更でもないといった様子であった。
「そうかい、あんたに土産話をあげよう」
「どういう話ですか」
「有名ミュージシャンに一杯奢ったって言う話だ。・・・・一杯もらっていいかい」
「よろこんで」
ソニーはストレートグラスを持ち上げてあるボトルを指差した。バーテンがジム・ビームをたっぷり注いだ。それを一気に喉に放り込んだ。酒を飲む時もタンギングはしないらしい。
「ジム・ビームが好きなんですか」
「そうでもないさ。でも日本人は奢ってもらう時には高い酒をたのまない奥ゆかしい奴が好きなんだろう」
空になったグラスを回しながら笑っていた。
Nさんは気を利かして「もう一杯どうですか」と言った。
「いいのかい、それじゃもう一つ土産話をあげよう。俺がバードの影響を受けていると言うのはあんたも知っているよな。ジム・ビームをダブルで三杯もらっておこう」といってアート・ブレイキーのドラムロールのように豪快に笑った。
「日本に行ったら又たのむぜ」
ソニークリスはその3年後ピストルで自殺した。
気さくに見えたソニー・クリスが銃の引き金を引いている姿はNさんには上手く想像できないと言う。そして一般的なジム・ビームがNさんには特別な酒になってしまった。

NさんはNYでの自慢話をするのは今回が初めてだ言った。

グレンモランジ

札幌の6月にしては異常に寒い。外は降りやまぬ雨はないというセリフが嘘のように一昼夜音もたてずに降り続いている。外では回転しない客待ちのタクシーが無駄に排気ガスを吐き出し、運転手は負け続ける野球球団の選手のように戦意を喪失した顔つきで時計を気にしながら煙草を燻らせている。客のいない店内は余計寒々しくこの季節としては珍しくストーブを点けざるを得なかった。周りのスナックのカラオケも鳴りを潜め、冷蔵庫のブーンという音が通奏低音のように小さく鳴り続けている。いつもより小さくかけているアート・ファーマーのフリューゲルホーンが雨音をじゃましないように静謐に流れている。こういう日の新聞の占い欄は妙に当たる。金運は最低だった。「出費を抑えて辛抱」か。舌打ちしたくなる内容だ。まあ今日はどこにも寄らず帰ろうと思った。愛情運は最高で「最愛の人に愛されている事が分かる日」と有った。かみさんと別れた俺には関係のない話だが・・・・・・。
客商売をしているとゲン担ぎでついつい金運だけは見てしまう。今日は早めに閉めようと思っていた矢先その女は入ってきた。肩まできっちり切りそろえられた黒髪。青と白のボーダーのTシャツの上に黒いパーカーを着ている。赤いスリムなパンツにヨーロッパ地図を極彩色で塗り分けたような賑やかなスニーカーを履いていた。カウンターの真ん中に座るとピースを取り出しマッチで火をつけた。カウンター越しに見るとマッチ棒が載るほど長い睫毛でゆったり来ているパーカー越しでもわかる大きな胸だった。化粧はほとんどしていないようだが男好きのする顔立ちであった。30歳代半ばであろうか・・・・・。カウンターに出しっぱなしになっていたグレン・モランジを指差し「寒いから、ストレートで。マスターも何か飲んで」完全な為口であった。一部上場企業の秘書課勤務でないことは確かだ。
「じゃ、ビールもらいます」
「この寒いのに」
「じゃんけんと一緒で最初はグウから」
「とりあえず、ビールってやつ?」
「そうともいうね」
「私の同僚でマレーシアから来た娘、皆、とりあえずビール、とりあえずビールっていうから『とりあえず』はビールの会社だと思っていたみたい」
「その娘は『月極駐車場』は全国チェーンの駐車場会社だと思っているよ」
「え!。違うの」
「冗談だよね」
「冗談だよ、でも私パーだから時々そんなことも知らないのかと本当に思われるみたい」
俺はライブハウスとはいえ一応客商売に分類される業種を営んでいる割には愛想が悪いといわれる。特に明らかに年下の人間にオーダーであっても為口をきかれると頭に血が上ってしまう。でもその娘には腹が立たなかった。むしろおおらかさを感じた。
「このウィスキー、何ていうの」
「グレン・モランジ。スコットランドのシングルモルトだよ」
「なめらかな味だね。品がある。オードリ・ヘップバーンみたい」と言ってグラスをゆっくり回した。
「私、大雑把だから・・・・。最北端の農家が自家用に作ったどぶろくに似てるよ言われた。このウィスキーとは全然違うみたい」
俺は思わず笑った。その娘も笑った。
「ワァンコの事聞かせて」その娘は唐突に話題を変えた。
「ワァンコ・・・・・・。俺は猫は飼ったことはあるが犬は詳しくないな」
「犬じゃないよれっきとした人間。顔がチャウチャウ犬がほっかぶりしたような感じなので、『ワァンコ』私がつけたの。本名南原敏英、ここでギターを弾いたことがあると自慢してた」
南原と言う名前だけでは思い出さなかったかもしれないが、弾く時の表情がチャウチャウ犬がほっかぶりしたようなギタリストがいた。数年見ていないと思う。一本調子ではあるがやりたいことは十分伝わるステージだった事を思い出した。何でもできるが、どれも香港の裏通りにある土産物屋で売っているバッタ物のブランド品の様なギターとは違っていた。ただ全国レベルで通用する演奏家だとは思えなかった。そう、自家用どぶろくのように。
「思い出したよ。南原・・・。しばらく見ないけど知り合い?」
「付き合っているの」くぐもった声で言い直した「付き合っていたよ」八分音符一個くらいの間があった。
「別れたの」俺は成り行き上聞いた。若いやつの好いた、腫れたのの話はコンビニの数より多い。でも聞いてやるのは料金に含まれている。
「微妙」と言って涙目になった。
「もう、意識ないんだ。でもまだ、話できる時期ここでライブやったんだとワァンコ何度も自慢していた。時々様子見に行っているよ。手握りながら私がずっと話しかけるだけ。付き合っている感じはもうしない」
外はとうとう本格的な雨模様になってきた。それにテンポを合わせるかのようにその娘の涙も大粒になっていた。
「マスターにはギター褒められた事ないと言っていたけど私には言いたいことが分かったの。私jazzはよくわからないけど・・・・・。ワァンコのギター本当はどうだったの。教えてそれ聞きたくて田舎から出てきたの」
俺はゆっくりタバコを一本フィルターに火が回りそうになるまで吸った。
「いいギターだったよ。長くやっていたら東京でも通用するギターリストになっていたよ」
「本当に!私の耳イヤリングつけるだけの耳でなかったんだね」
「そうだね、ウサギの耳くらい繊細なんだよ」
グラスにモランジを足してあげた
「店のおごりだよ」
「いいよ。お金はあるんだ。店暇だったんでしょう」
俺はくわえ煙草で手を振った。
「ところで南原は天秤座?」
「そうだけどどうして」
新聞の愛情運の占いも当たっていたのだ。

メドック

私がその男にあったのは二度目になる。最初は都心のスターバックスの昼下がり。店内は混雑していて私はテーブルにぶつかり彼のコーヒーをこぼしてしまった。私は詫びを言いハンカチでテーブルを拭き、「代わりをお持ちしましょう」と申し出たが丁重に断られた。「俺、大きいサイズ頼んじゃって、これ以上飲むと夜寝れなくなっちゃうんで、」男の足元にはギターケースが置いてあり、右手がなかった。私はもう一度丁寧に謝り店を出た。
片手のギターリスト・・・・・・頭にはてなマークがいくつも出てきたがそんな些細なことはすぐ忘れてしまった。同僚の亜由美に連れられて六本木のジャズクラブに行ったときその男はカウンターにいた。ピアノの横にギタースタンドに立てられてギターがあった。使い込まれた風体で私の会社の役員よりは貫禄があった。何と呼んだらいいのだろうか・・・・・頭の部分にGibsonと書いてあった。
「亜由美、今日はピアノトリオじゃなかったっけ」
「そうよ、なぜ」
「ギター、置いてある、誰かゲストで入るの」
「ああ、あれ・・・カウンターの隅に片腕の人が見えるでしょう。あの人、村津さんていうんだけど昔ギターリストだったんだって。マスター言っていた。凄かったらしいよ」と亜由美は小声で言った。
「メンバーの麦本さんが俺たちのサウンドをギターに叩き込んでやるから置いておけと言ったんですって」
「弾くの?」
「まさか」と私の二の腕を軽くたたいた。
一部が終わった。私が知っている曲も何曲かあった。透明感のあるサウンドだが冷たくはない。無駄に盛り上がるわけでもないが刺激的でもある。
「三人が信頼しあっているのが空気感でわかるよね、亜由美」
「ちょっと、香奈いつから通になったの」
給料も入ったことだし二人で相談してメドックの赤ワインをボトルで入れた。赤ワインの渋みが二人をちょっとだけ猥雑にさせた。
「あの村津さんって子供助けるために自分が事故に巻き込まれて片腕失ってしまったんだって」
「自分の子供ならそうするかもね」
「他人の子なんですって」
「じゃー、何倍も立派じゃない」
「でもミュージシャン仲間からは村津は大馬鹿野郎だって言われているらしいの」
「なんでなのよ」私は納得がいかなかった。
「助けたのは人間の子じゃないの、犬の子、それも雑種」
私のワインを飲む手が思わず止まった。しげしげと村津さんを見てしまった。ラルフローレンの様な品の良いスーツに明るいグレイにあうピンクのドットのタイをしめ、右手の袖は丁寧に折りたたまれピンでとめられていた。頭には白いものが混じり始めている。五十歳ぐらいであろうか。顔は木彫りの仏像のように穏やかである。
ベースの麦本さんが村津さんのところに行った。
「村津、商売は如何だい」
「損保の代理店は過当競争で大変ですが、昔の仲間が助けてくれています」
「村津、最後の曲はいれよ」
「麦本さん、手がないですから」と言って右手のスーツの袖をぶらぶらさせた。麦本さんは笑いながら「これと、ここはあるんだろう」と言って左手で胸を二回たたいた。最後の曲になった。
「仲間を紹介します。ギター、村津彦一」年配の人はやんやの拍手を送っていた。半数の客はざわついていた。曲はベラ・クルーズと紹介された。村津さんはアンプもつながないギターを左手だけで弾いている。私は耳を澄ました。いや、心を澄ました。何かの導線で村津さんと直接結ばれているかのようにパルスを感じた。私自身が奏でられているような気がした。
「香奈、どうしたの。飲みすぎた?」
演奏が終わった。「村津、俺は感じたよ」と言って麦本さんは左手で少々ぎこちないが、それでもがっしり村津さんと握手をした。私も村津さんのところに駆け寄った。
「以前、スタバでコーヒーを倒したことがあります。今日お会いするのは二度目です」
「ごめん、コーヒーを倒す子は月百人はいるから覚えていないなー」
「いいんです。その時コーヒは弁償できなかったのですが、ワインはいかがですか」
「ありがとう、ワインは頂くよ」
「先ほどの曲、村津さんの歌が聞こえたように感じました」
「そう、僕は弾いていないよ。それは君自身の歌だよ、たぶん」といって微笑みながらワインを口にした

カルバドス

野崎はそのバアーのドアーを開けた。中は思ったよりカジュアルな造りであった。壁の色はディープブルー、テーブルはメタリックシルバー。これで天井の配管が剥き出しであればNY風であったのにカウンターの一枚いたが妙にアンバランスであった。マスターは白髪混じりの50台半ばに見えたが、オックスフォード織りの白い釦ダウンシャツを普通に着こなしているのが様になっていてこの商売を長くやっていると思った。
この店の近くまで来た事が一度だけある。
野崎はある女性の素行調査を請け負っていた。
木内美佐、44歳、専業主婦。子供は二人、長男15歳、長女12歳。週に一度書道を教えにカルチュアースクールに行っている。写真では男好きのする容姿ではないが品が感じられる典型的な中流階級の上位にランクされる奥様といったところだ。一年前に転勤で故郷に戻ってきた。
依頼者は夫ということになるが「妻が妙に明るいんです」という。まあ。地元に戻ってきてほっとしているとだと野崎は思うのだがそんな事を言ってはこの商売上がったりだ。考え様によってはいちばん簡単で見入りの良いケースだからだ。
もうその仕事の報告書は提出してある。依頼人がほっとするような、予想どおり通常の主婦と変わりない行動パター-ンであった。あるいは支払った金額に見合わないありきたりの報告書ということでも有ったのかもしれない。
この日、野崎はこの店の近くのパチンコ店で不正行為をする人物の監視という仕事を請け負っていた。この世で一番醜い音を8時間聞き続けて感性が麻痺しているのがわかった。身についた自衛本能の防御服を脱ぎ捨てる為にこの店に寄ってみた。
音量は小さ目とはいいがたいが今まで聞いていた雑音に比べると鼓膜の震え方の質が違うと感じた。
ジャケットが飾ってあった。サックス奏者が牛乳を飲んでいるあまりセンスがいいとはいえない代物であったが音色は絹ごし豆腐のように滑らかであった。スタン・ゲッツと描いてあった。
野崎の遊び心が頭をもたげてきた。「この音楽に合うものを下さい」
マスターは一瞬考えたが「これはどうでしょう」といってカルバドスを勧めた。
「では、それをストレートで」と注文した。昔「ガス燈」という古い映画で主役のイングリット・バーグマンが着付け薬の替わりに飲まされていたのを思い出した。まだ洋酒が普及していなかった時代に、ましてリンゴブランディーなどというものの味も価値もわからない学生時代のことだ。
ブランデーグラスではなく足長のストレートグラスで出てきた。
「あまりもったいぶって飲む酒ではないので」
客は学生風の二人組みが一組だけだった
「だからこのコードにはフリジァンが合うんじやないの」
「でもこの音はアボイドだぜ」
野崎には何の話をしているのかわからなかった。
カルバドスを口に放り込んだ。滑らかだが甘酸っぱい所がある。それが辛うじて野崎が残している青臭い所を刺激してくる。マスターがすり寄って来た。「私は音楽理論の話しが苦手で」
「カルバドスはどうです」
「疲れているときの細胞に沁みていくのがわかりますね」
「映画でイングリット・バーグマンが飲んでいた時の様にですか、ガス燈でしたっけ・・・」マスターは野崎の事を同世代と踏んで話し掛けてきている。自分より10歳ぐらい上かと思っていたが40台半ばなのかもしれない。
「あの映画のストーリーは思い出せないのに気付け薬に使うカルバドスという酒はどういうものなのだろうということは気になるんですよね」野崎も頷いた。
「バーグマンはもっと気丈な性格の役の方はまりますね」
「カサブランカとかですか」と聞いて同じ物をもう一杯頼んだ。
「ああいうことはここでも起きますか」
「あんな事が起きるなら、もうとっくに宝くじに当たっていますよ」といって顔を崩した。野崎もつられて笑った。
「男が愛する女の為に危険を冒して何かをする事は日常でも有りますよね。女が愛しているのは他の男であっても何かをする男の映画も多いですよね。ですが男は女が愛しているのは自分と知った上でその女と夫の為に危険を冒して何かをやり遂げるというのは途方もないことですよね」
「そうですね。無償の行為ですものね」
「絶対勝たない牝馬の馬券を買いつづけるような」
「あるいは、儲からないJazz barをつづける行為とも似ているかもしれませんね」野崎のセリフにマスターは笑った。
レコードを変えた。四人目の客が来た。
「美佐、しばらくぶり」
「Xさん、元気だった」マスターの名前は聞き取れなかった。
「大政翼賛会婦人部会の帰りかい」
「又、馬鹿にして・・・・」と言いながら幻滅という顔をして見せようとしたが上手くいっていない様に見えた。御互いの近況を確かめるようなありふれた会話が続いた。女性は時々「まだタバコ吸っているの」とか「体の調子はどうなの」とか母親が息子に諭すような物言いになった。マスターは「はいはい」といった感じで真剣に答えているとは思えなかったが顔は和んでいた。
野崎は思い出した。半年前に素行調査でもけさせてもらった木内美佐であった。勿論まじかで見るのは初めてであった。上気した顔の肌つやには張りが合ったし、その年の専業主婦としては溌剌として見えた。
「子供は大きくなったの」
『下は12歳、上は・・・・・14歳になったわよ』最後の方にちょっとした間があった様に思えた。野崎は長男は15歳ではと思った。
一瞬二人の空虚な視線が天井のライトの所で交錯した。
『長男は生意気よ。しゅうさんみたいに口が悪いから』上目使いでマスターを見た。
「じゃー、警官か取り立て屋に向いているね」グラスを拭きながら目はあわせなかった。
美佐は30分もいなかった。「シンデレラだから・・・」といって11頃店を出た。

あの日、美佐は同窓会か何かの流れで仲間の一人とこの店に寄った。店を一緒に出てきた二人は帰る方向が違ったのであろう別々のタクシーを捕まえた。友人の車が出た後美佐は店に戻った。忘れ物でも取りに戻ったのであろうと思った。時間が少し長いと考えたが大した事とは思わなかった。

勿論報告書にはそんな事は書いてはいない。それでよかったと思っている。
野崎は人生のB面ばかり聴かされるような仕事をしていると言っていい。
B面にはあまり聴きたくない曲も入っているものだ。
野崎はカルバドスを口の中で転がしながらよく聴いた「レフト・アローン」のB面はどんな曲が入っていただろうと考えていた。

マティーニ

店には客がまだ二,3人しかいなかった。リハーサルが終わったのであろう、ミュージシャンらしき人物が店の片隅で談笑していた。その中にその娘はいた。くわえタバコで譜面を見ていた。一瞬目があった様に感じた。誰かに似ていると思った。
このjazz barに来るのは初めてであった。仕事で全国を回るが、仕事の区切りがついた時は知らない店で知らないミュージシャンの演奏を聴く事にしている。
たいがいは「ああ、こういうミュージシャンは10倍上手いのが東京にいたなあ・・・」と里心を起こさせるものであったが稀に宝石の原石を思わせるものも在った。
同じ味のものを食べたければ全国チェーンのファーストフードの店に行けばいい。上手いものを食べたければ冒険は必要だ。
マティーニを頼んだ。初めて飲んだ学生時代にはまずいと思った。何でこんな飲み物がカクテルの王様なのだと訝った。はなからジンなどスコッチのシングルモルトに比べたら十両と横綱の違いほどある。
何かを混ぜるということは生のままで飲む以上の何かがあるということなのだろう。
チャーチルが「最高のドライマティーニはベルモットの瓶を眺めながらジンをストレートで飲む事だ」と言った。だがこの話は眉唾物だ。チャーチルはアララットと言うロシアのブランディーを愛飲していたからだ。第二次世界大戦後、和平交渉に臨んだチャーチルが「ロシアにもまともな酒があった」と喜んだ逸話が残っている。そのチャーチルでさえマティーニについた語りたくなるらしい。
ジンと僅かなベルモット、数滴のビターズ、香水のように吹きかけるレモンピ-ル。それがバーテンダーの腕で無限の味になる。それがこちらの体調やら気分の組み合わせでその都度違った印象になる。
演奏が始まった。
まあ、定番のミディアムテンポで聴きなれた曲で始まった。悪くないピアノトリオだが何か足りない。若いバーテンダーが作ったこのマティーニのように・・・・。技術ではない何か、もっと本質的なものが欠けている。
次の曲が紹介された。オリジナルらしい。身構えてしまった。
マティーニに以降誕生した凡百のカクテル、酒メーカーが開発するシュシュのリキュールが出るたびに考えられるレシピ。それは無数の代理コード進行で構成される楽曲。レシピだけ難しくなって印象がないカクテル。そんなオリジナルが無数に創られ、こちらの鼓膜をこじ開けようとする。
ピアノのアルペジオが始まった。執拗に繰り返される音列。呪術的なものが人間のものになる前の自然そのものを想起させるものであった。
舞い散る粉雪が月光に照らされた時に見せる様々な色合いだ。行ったこともない北欧の湖が脳裏に浮かんだ。
その時このピアニストが若い頃のマリーネ・ディトリヒに似ていることを思い出した。
意志の強そうなくわえ煙草。
曲の色合いが変わっていった。竹林を微かに騒がせる驟雨のような音。めくるめくトランジット・・・ここは京都なのか。マティーニの味が変わった。均一に混ざり合っているものが表情が変わることがある。
曲のメロディーと言うより万華鏡のように変わる音色が印象的だった。それがマティーニの味を微妙に変化させたのかもしれない。
ステージを終えたピアニストがカウンターに移動してきた。席が隣り合わせになった。
黒のニットのワンピースに同色のレギンズ、ゴールドのトライアングルのようなイアリングをつけてブルーのスカーフを首にあしらっている。殆どモノトーンなのに色彩感覚の鋭さを感じた。
「良かったら一杯どうですか」
「ありがとうございます。何を飲んでいるのですか」
「マティーニ」
「ここのは美味しいですか」
「あなたの演奏中にワンランク上がりましたよ」
「じゃ、私もマティーニ」若いマスターが軽く頷いた。
「マティーニ頼むお客さんっていろいろ注文がうるさいって聞いたけどお客さんは違うのですか」
「私は注文をつけない。ここみたいに若いバーテンダーに言っても無駄だし、年配のバーテンダーは黙っていても出てくる。素人は変な注文はつけないほうがいい。あなたもbody&soulをアップテンポでと注文されたらこいつ音楽知らないと思うでしょう」
「こいつとは思わないでしょうが、中途半端にjazz知っていると思うでしょうね」
彼女のマティーニが来た。
「このオリーブどうすればいいのかいつも迷います」
「ああ、それは次の人も使うからそのまま返すと喜ばれる」
ピアニストは笑った。笑うと大人びた立ち振る舞いの陰に隠れていた幼い部分が出てくる。20代前半なのかもしれない。
「あなたは絵が好きじゃありませんか」
「はい、でもなぜわかりました」
「あなたのピアノ・・・・・・・いや私は人相見が趣味だから」
その娘は小首をかしげた。
最後のマティーニを飲み干した。

マルガリータ

海からの風がオープンカフェの扇風機を静かに回している。月は水平線の上にアップリケのように張り付いて見えた。周りは静かとはいいがたいがそれがかえって私を落ち着かせた。多分この席だ。
父と二人でここに来たのは三年前だ。父は随分嫌がった。娘と二人で、ましてタイなど行きたくないと・・・・・・。私はリフレッシュ休暇を消化をしなければならないとか現地の友達に会いたいとか色々噓をついて父を連れてきた。
父は一緒に歩いて恥かしいという外見ではない。前髪に多少見える白髪がお洒落染めに見えるぐらいだ。同世代の中年の中では上位にはいるかもしれない。ただ少女時代は御多分に漏れず存在自体が疎ましく思っていた。親権も私が微妙な年齢なので母親の方がいいのではと主張したのも父だった。母は経済力を理由に拒否したらしい。父が母と別れるときに「俺は自分のことは自分でする。お前も自分のことは自分でしろ」とだけ言った。
父はレストランを経営している。だから家であまり顔を合わせる時間がない。それがいがみ合いを減らしていたのかもしれない。プーケットを選んだのは一度来たことがあって案内できる自信があったからだ。
「お父様がちゃんと日常生活を送れるのはあと一年くらいと思ってください」と先生に言われたのはひと月前だ。
親孝行のまねごとをしたいと思ったのではない。日常生活でない中で父を見たいと思った。
日中はプールサイドで本を読み、肌が熱くなると水牛のように水に入った。私の選んだオプションツァーにも文句を言わずついてきた。ホテルで知り合った香港在住のイギリス人とテーブルを共にすることがあった。流暢ではないが意思疎通ができるくらい英語を話せるのだと初めて知った。旅の最後の日「今日はおしゃれしてバーに行くぞ。お前もドレスを用意しろ」言われた。
気温は高いがヤシの葉をくすぐる海風が心地よかった。波が白亜の砂を海に持ち帰る音まで聞こえた。父は「今日はお前のおごりだ」と言ってマルガリータを三杯飲んだ。考えると父が家だ飲んでいるのを見たことがない。「俺は生粋の酒飲みではないから家では飲まないんだ」と答えた。そして料理人らしくカクテルの味ではなく「いい塩を使っている」とスノースタイルの塩をほめた。
「そろそろ部屋にもどるか」
「そうね」
長い通路は熱帯植物を取り囲むように右に左に曲がっていた。その途中父は足を止めた。そしてオーソン・ウエルズの様な落ち着いた声で聴いてきた。
「俺はいつまでもつ」
私は何も言えず父の腕をとった。父は何も言わずゆっくり歩きだした。バージンロード歩く父親のように。
波の音が一瞬大きくなった。