「何を見ても何かを思い出す」というヘミングウェイの短編小説が有る。
市原市日本最高39度。・・・の見出しがあった。ひと夏過ごした市原のことを思い出した。この日札幌の気温も34度でうだるような暑さで知らない電話番号から何度もかかってきていたがうっとおしいので完全に無視していた。帰りの飛行機に乗り遅れた魚返からのイマージャンシーコールだと後から知る。最初の千葉市勤務の時住んでいたのが市原市で50年ほど前の事である。まだJリーグ設立前でジェフ市原もないのでそんな町は聞いた事もなかった。社宅が有ったので同期18人が一部屋ずつあてがわれてのほぼ共同生活であった。周りは緑と言うより野原が多くこの市は何となく面積が広そうだなあと感じた。実際千葉県一広い行政区であった。その事を賄いのおばちゃんが自慢げに語っていた。「おいおい、こちとら北海道の札幌市だぜ。市原市の3倍の面積と10倍の文化的洗練度があるわ」と言いたいのを我慢して「時々ホッケの開きをを食べたいと皆言っていますがどうでしょう」と懇願するのである。僕は経理であったのでおばちゃんに給料を渡す役目になっていて何となくネゴシエーター役にされてしまっていた。美味しくないというより口に合わないといったほうが適切である。味が薄い。味噌が赤味噌。焼き魚は見たこともない深海魚のような種類が出てくる。北海道では焼き魚の3本柱は鮭、秋刀魚、ホッケで決まりだ。テナーはロリンズとコルトレーンとスタンゲッツで何とかなるのと似ている。ところがジョン・チカイとかマリオン・ブラウンのような魚が出てくるのである。皆食べ残す。おばちゃんたちがしょげて僕に詰め寄る。それを上手くなだめて食生活を改善するのが僕の役目になっていた。その経験が店の接客にも生かされている。24条界隈ではおばちゃんの相手をさせたら僕が一番上手いはずだ。
社宅があった界隈は社宅銀座で当時の古川工業、新日鉄など当時の日本経済を支えていた重厚長大産業の社宅が林立していた。多くの労働者が北海道から流れてきておりそれがこの界隈の飲食店のメニューにも影響を与えていた。仲間と近所の小料理屋に行った。「ブタスキ」というメニューがあった。店主に聞くと豚肉のすき焼きだという・・・。我々北海道人はそれをすき焼きと呼ぶ。ところがブタスキの隣に「すき焼き」といメニューもある。どうやら牛肉のすき焼きらしい。一緒に行った仲間は誰も牛肉の好きなど食べたことはない。全員が牛すきを経験することになる。店主が北海道人は豚のすき焼きを食べたがるのでメニューに入れてあると言っていた。我々も牛肉の柔らかさに感動したもののブタスキに戻っていった。一度近所にある郵便局が過激派に襲撃された事がある。鉢合わせしなくてよかったと胸をなでおろした。僕は父親に言われて郵便将棋なるものをやっていたので良くそこには行っていた。親に近況を知らせる手紙など面倒くさくて書かないであろうという心を見透かされていた。76歩「何とかやっています」36歩「時々は母親に電話しろ」・・・・とかが一年くらい続くのである。紫式部か・・・と突っ込みを入れたくなるだろうとおもう。
社宅にはクーラーなどついていない。だが市原の夏で往生したという記憶はない。だが梅雨の時期はブレードランナーの延々続く雨のシーンのようにうっとおしかったのは覚えている。
