参院選の結果を暗澹たる気持ちで眺めていたらやはりやって来た.「改憲を国民的議論の俎上に載せて・・・・」
選挙中は封印していたドスをさっそく抜いて見せた。背中に入れ墨をしょっている人間は背広着て髪を七三に分けようがやくざはやくざに変わりはない。まず「お試し改憲」で様子をみて本隊がやって来る。経済、経済といい経済がうまく回れば大体のことは人は忘れるとよんでいる。金がないのがつらいのは事実だ。だがどこかの大臣が福島県民に「所詮金目でしょう」といったセリフに象徴されるのが安倍政権の国民観だ。我々を馬鹿にするのもほどほどにしてほしい。仏のfaceもthree timeだ。これからの最悪のシナリオはどこかで、紛争に自衛隊が巻き込まれマスコミもこぞって「この死をむだにしていいのか」といいだす。既成事実ができてしまえば後は「国家緊急事態」といってしまえばどうとでもなる。
今回の選挙は政策論もかみ合わないまま与党の結果圧勝に終わってしまった。確かに投票したくなる政党がなかったかもしれない。ただ安倍晋三を首相の座から引きずり下ろす結果にできなかったのは今後の日本の将来に暗い影を投げかけていると思えてならない。
投稿者: yoshida
2016.7.9 キャノンボール・は誰?
松原衣里(vo)朝川繁樹(p)柳真也(b)伊藤宏樹(ds)、スペシャル・ゲスト 畑ひろし(g)
かなり前のことだが、廃刊になった「スウィング・ジャーナル」誌に畑のデビューCDが紹介されていて、入手したところ腕の立つ未知のギタリストがいるものだと思ったことを覚えている。このライブに来た動機は畑を聴くためだ。予想通り、ソロにバッキングに淀みなくスウィングする見事な演奏を披露して頂いた。なお、本日の段階で松原のことは全く知らない。最初の2曲「ステラ・バイ・スターライト」、「オーニソロジー」はインスト演奏だったが所期の目的は達成できそうだと感じていたところで、3曲目から初めて聴く松原が登場した。“つれなくしないで”が邦訳の「ミーン・トゥ・ミー」。いきなり“うぉっ”と思った。太く柔らかい声は天性のものに違いない。1stは「ワン・ノート・サンバ」、「ユードゥ・ビー・ソ・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ」、「ア・タイム・フォー・ラブ」、「ジス・キャント・ビー・ラブ」と続いて行くが、この人は徹底的に自分の天性を活かす鍛錬を積んでいるのだろうという印象を持った。2ndもボーカル抜きの「ラブ・フォー・セイル」から始まり、2曲目から再びボーカルが入る。「アワ・ラブ・イズ・ヒア・トゥ・ステイ」、「ウェイブ」で会場の秩序を整え、そのあと壊しにかかる。ど・ブルースの「サムワン・エルス・イズ・ステッピン・イン」を思いっきりシャウト。放蕩男に対する女の怒りが爆発。客が内に潜めているウズウズした感覚を一気に引っ張り出して見せた。一転、次はシンプルなギターのイントロに乗せて「ホワット・ア・ワンダフル・ワールド」。誰もが六十になったらルイ・アームストロングのように歌いたいと願っている。この曲はそういう曲だ。そう言えば、わが国のリーディング・ボーカリストの大野エリさんも近作で歌っていたのを思い出す。最後は「アンソロポロジー」で、アタマで同じコード進行の「アイ・ガッタ・リズム」をワンコーラス入れるサービスがあり、ごっつぁんでした。アンコールは賑やかに「オン・ザ・サニー・サイド・オブ・ザ・ストリート」。
筆者はボーカルに明るくないので、松原がどのような位置にいるのか分からない。敢えて感想を言うならば、ボーカルの新館には実力者がひしめいている、彼女はそこには居ないかもしれないが、別館では間違いなく女王の座を争っているのではないか。イージーな設問に恥じらうが、誰を隠そう松原こそ声も見た目もキャノンボール、圧巻のライブだった。
(M・Flanagan)
ハーゲーマン
フルート奏者のハービーマンの話ではない。禿の話である。新聞の雑文によるとロシアの権力者は毛髪がフサフサの人とツルツルの人がほぼ交互に努めてきたということだ。「ツルフサの法則」という。レーニン(ツル)スターリン(フサ)フルシチョフ(ツル)最近はゴルバチョフ(ツル)エリツィン(フサ)今はツルのプーチンということは次は又フサのメドベーチェフということでしょうか。いまの権力構造を考えると「ツルの一声」出決まりそうだが。唐突だがロシアンジョークを思い出してしまった。
まだソビエト連邦と呼ばれていたころ一市民が「フルシショフはバカだ」といったところ翌日にKGBが来て逮捕されてしまった。その市民は「罪状は名誉棄損か」と尋ねたところ係官は小声で「いや、国家機密漏えい罪だ」と答えた。フルシチョフを安倍晋三に置き換えると今の日本でも起こり得る。ジョークでは済まないかもしれない。
話は戻る。昔僕が子供のころ毛生え薬を発明したらノーベル賞もらえて億万長者になれるといわれていた。
今養毛剤などの毛髪関係の市場規模は年間4400億円規模で頭皮細胞から毛髪を再生する臨床研究も始まっており一度の治療で毛が生え続ける可能性あるという。僕がこの研究に一途の望みをかけていっるということでは全くない。今の歳で毛が生えたからと言って今後の人生に影響が出るとは思えないし急に毛が伸びだしたらホルモンのバランスが崩れたのではとそちらのほうが気になる。ではなぜ男性は禿を気にするか・・・・・・・。そうです禿だと女性にモテないからです。少なくともそう思っている人が多いということだ。だが統計的には女性は禿を毛嫌いしているわけではないらしい。僕は懐疑的だ。年収、身長、学歴、容姿、X力、ギターテクニック,駄洒落のセンスが全く一緒であれば禿よりもフサフサ髪があった方がいいという人が圧倒的だと思うのだが・・・・・・。
僕が知る限り一回だけ禿ブームがあった。村上春樹の「1Q84」が出版された時だ。主人公の女性「青豆」が禿が好きだということで「マスターその髪型にあってるし、今年はブームに乗ってもてるよ」とよくいわれた。勿論そんなブームはやってこないし、大体禿はワンレン、ソバージュのような髪型の名前ではありません。
ソフトバンクの孫正義が名言を残しているらしい「髪の毛が後退しているのではない、私が前進しているのだ」と。だがこれは狡い。金持ちのセリフだからだ。キャバ嬢100人に聞いてみるがいい。「禿でモテるのは金持ちだけ。ただの禿・・・・・・超キモイ。同じ禿ならオラウータンのほうがかわいい的な感じ。」と言われるに決まっている。
最後は綺麗に戯れ歌でしめます
世の中は澄むと濁るで大違い
刷毛に毛があり禿げに毛がなし。
2016.6.25 生き返った歌の行方
高野雅絵(vo) 大石 学(p)
『大石はボーカルのバックをさせたら日本最高と信じています』。これはライブ案内に書き添えられていた1行である。今回の企画を知った時、ゾクゾクとザワザワが走った。札幌圏で地道な活動を続ける高野だが、今日の相手は案内書のとおり“日本最高”だからだ。
早速ライブの進行に沿いながら振り返りたい。1st.最初の2曲は大石のソロから開始された。ボーカルが入るまでの前奏として静かな幕開けが演出されていた。高野が加わった1曲目はセルジオ・メンデスの「ソー・メニー・スターズ」、上ずる心を鎮めていて中々の滑り出しだ。次は最近よく採り上げている鈴木慶一の「塀の上で」、これまでの中で最も情感が乗っていたと思う。ブルース・ライクな強音のイントロから“ガッガッガッガッ~”「Come together」だ、これも十分歌い切っていて出色の出来だ。加藤崇之作「泣いて笑って」、この曲で大石はピアノとピアニカの同時二刀流で臨んだ。ピアニカはこの曲名を象徴するかのような悲と喜を漂わせる不思議な音色だった。最後はC・ローパー叛の「タイム・アフター・タイム」、高野は今日の自分に手応えを感じている。親しみやすいポップ曲を気持ちよさそうに歌っていたのだった。2nd.も冒頭2曲は大石のソロから。2曲目はラグタイムとブギーを掛け合わせたような賑やかな演奏で、暗に“さぁやるぞ”と高野に呼びかけていた。高野も大人である。調子に乗ると落とし穴があることを知っていて、大石に振り切られないようにギアを一つ下げて「スパルタカス愛のテーマ」と「ジンジ」というスローで美麗なメロディーの曲を持って来た。これは賢明な選択だった。場が落ち着いてから、ジョー・サンプルの割とポップな「When The World turns blue」、元々インストの曲に後から歌詞が付けられたと紹介された。詞が付けられる必然性が高野の歌で証明されていたように思う。いよいよ峠越えが近づきユーミンの「ひこうき雲」へ、そして雲の流れの先で最終曲の「Bridges」にたどり着いた。この曲を彼女が大事にしていることを承知していたが、ひときわ丁寧な歌いぶりにそれがよく表れていた。大石の豪快なバックに乗せて高野から”A thank for you”の謝意が会場に発せられ、必然的にアンコールは「A song for you」、予想にたがわぬ熱唱で2時間が締め括られた。
筆者は高野の歌をそれなりの回数聴いてきたが、今回は群を抜いて良かったと断言しよう。地元の連中が東京の一流どころと共演するとき、思わぬ能力が引き出されるのを度々見てきた。この思わぬ能力はその後の日常に吸収され易いことも知っている。今回は敢えて大石レポートにしていないが、「日本最高と信じられている」このピアニストはその形容のとおり起伏づくりやその立体感において全編で素晴らしい演奏を繰り広げていた。大石がいたから生き返った歌はこれからどうなるのだろうか。聴衆は豪華客船に乗せて貰い大満足の旅を終えたが、高野の旅は始まったばかりだ。過去は変えられないが未来と自分は変えられるという角度から今後の成り行きを注視して行こうか。
(M・Flanagan)
2016.5.28 『Ikeda 奥に生きる』
2016.5.28 『Ikeda 奥に生きる』
池田篤(as)若井俊也(b)本山禎朗(p)伊藤宏樹(ds)
ことも有ろうに27日、羽田空港で旅客機火災事故が発生した。その煽りで池田は新幹線に切り替えて一夜越しで札幌に着いたため、1日のみのライブとなってしまった。対照的に筆者は、数日前から池田のCDを何枚か聴き直し、24への助走路を通り抜けていたので殊さら残念であった。今回のベース若井俊也については数年前に初めて聴いていたが、周知のとおり今やケイ赤城トリオで本田珠也と共にその構成員として活躍している。いつぞや珠也に「そんなんじゃ、気合入らねぇだろ」と言われたとか言われないとか。前置きはさておき、開演に当たり池田らしく昨日来の不運に触れた後、ここに2日分を込めると公言してくれた。
最初の曲は、W・ショーターの友人の手による「デ・ポワ・ド・アモール・バッジオ」(恋の終わりは空しい)で、心に残る旋律とそれに相応しい端正な演奏だ。( )書きの心理状態のお客さんがいたなら症状が悪化したかも知れない。2曲目は数日前に出来上がったオリジナル曲で、その演奏の濃さから演奏家が演奏を強く意識して書いた曲だと思わせる。3曲目はC・ブレイのあまり知られていない“永遠の平和”を意味するらしい曲、才媛カーラならではのメロディアスな曲想が相性よく胸に収まる。毎回演奏する「フレイム・オブ・ピース」は池田の代表作の一つとなっており、この曲がまだ無題であった時に沖縄の海を眺めながら作ったと言っていたが、このバラードは最近の憂うべき世情を超越していて心に迫る。2回目は無題の自作曲から始まり、次の「フォーリャス・セーカス」という曲は“枯葉のサンバ”という邦題で、例の“枯葉“と比較することは無意味な南半球でしか生まれそうにない曲。W・ショ-タ-の「ユナイテッド」、これはアクの強い曲なので中々テーマを頭から追っ払えない。バラードを挟みいよいよ佳境を迎えた。アタマからアルトとベースがインプロでスリリングに並奏しはじめ、これが第1の聴きどころとなっていた。次に池田の渦と渦が混ざり合うような壮絶ソロからやがて四重奏になっていくところが第2の聴きどころだろう。その曲名が池田のソロ解決部分で「チェロキー」だと分かる。客の貯まっていたエネルギーが躊躇なく大喝采となって噴き出した。伊藤も本山も最早引き下がることを許されない。そして十分健闘した。彼らも止まない拍手に一役買っていたのだった。池田には素晴らしいソロ・アルバムがあるが、アンコールはそれを想起させるようなソロに始まる「オールド・フォークス」が演奏され、じわ~っと来させてからメンバー紹介を織り交ぜた「ナウズ・ザ・タイム」にて終演した。若井俊也が益々大きくなっていたこともあり、池田の公言どおり2日分が1日に込められた手に汗のライブだった。
冒頭、池田のCDを聴き直したことに触れたが、辛島さん支援のために自主制作した『Karashimaジャズに生きる』は結束感が極められていて一際印象深いアルバムだ。少し横道にそれるが、人は勘違いに気付かないことがある。美空ひばりの「柔」の歌詞には「“おくに”生きてる柔の夢が・・」という一節があって、東京オリンピックの頃の曲ゆえに筆者は競技による国威高揚の文脈から“おくに”を長い間“お国”と思い続けてきた。ところが、最近になって“奥に”であることを知った。ここで勘違いを確信に変換してみたい。『Ikeda奥に生きる』と断言しようではないか。池田を聴いていて我々の脈動が熱く変化するのは、彼の音に血が通っているからだと信じている。いま池田篤は奥の奥で演奏することが許される数少ない演奏家の一人となった。
(涙のM・Flanagan)
四方山話
その1
時々母親のご機嫌伺いに実家に帰っている。苺のショートケーキが出てきた。「今日は子供の日だから」と言うことらしい。勿論全部食べた。「もう一個、食べるかい」と聞かれたがもういいと断った。「昔はもっと食べたのに」
因みに僕は62歳、せんべいの方が好きになる歳だ。
その2
ラジオを聴いていた。東京の豊島園にツバメが巣を作り出しているらしい。同じ巣に戻ってくるツバメがどれくらいいるか興味を持って足環をつけて調べた人がいる。同じ地域に戻ってくるのが2割ほど同じ巣につがいで戻ってくるのが2%だ。人間はよく戻ってきたと思うらしいがツバメにとっては「あんた誰」ということだ。巣は早い者勝ちでそれから伴侶を見つける。そこで司会の人がうまい事を言った
「鳥、帰る。ねぐらも嫁も取り替える」
記憶の捏造
小山彰太5daysの初日。出し物は田中朋子trio。お客さんもなかなかの盛況で演奏も楽しく、なによりjazz幼稚園東京支部長のS名が帰札すると言う事でミニ同窓会の様相も呈していた。当然酒もすすむ。営業中にちょっとした買い物にコンビニに行った。おりしも小雨が降りだし行灯の隣に停めてある自転車のサドルが濡れていた。「しまった、自転車なんか乗ってくるんじゃなかった」とその時思った。とにかくそう思ってしまった。ああ今日は楽しかった。そろそろ帰ろうと思い鍵を探したが自転車の鍵が見当たらない。ようし、落ち着け。少しは酔っているが考えてみよう。いつも入れる鍵箱をもう一度確かめてみよう。ない。次はポケットだ。パンツだけでなくパーカーのポケットも探せ。ない。どこかに落ちていないかよく探せ。ない。お前は酔ってなんかいない。はじめから考えよう!そうだ、鍵のかけ忘れだ。今までも何回かあった。そうに違いない。ドアを開けて行灯の横を見ると自転車がなくなっている。やられた。鍵をつけたままなのでどこかの酔っ払いが乗っていってしまったのだ。
もう二回もやられている。楽しかった一日が台無しワシントンになってしまった。僕はPKを外したストライカーのようにとぼとぼ家に帰った。雨がひときわ冷たく感じた。
翌朝、目覚めが二日酔いをつれて訪れた。しょうがない。自転車を買いにいかなくては。近くの中古屋でお手ごろなやつを買った。それを自宅の自転車置き場にもっていくと見慣れた自転車があった。?マークが毛根の数だけ頭に浮かんだ.何で盗まれた自転車がここにあるんだ?????????????。
激しい二日酔いの余震が訪れた。
犯人は身近にいる。推理小説の鉄則だ。
そして記憶は常に作り変えられる
憲法記念日のたまたま
家に何百本ものvhsテープがある。ところがデッキが壊れてしまい数年見た事がなかった。こういうところは呑み屋の特権なのだが、捨てると言う人がいた。DVDレコーダー付きの最新機種だ。(勿論当時のです)8割は古い映画なのだが、ラベルが張っていないテープが大量に出てきた。人に見せられないテープは確か1本だけのはずだがこの際整理しておこうと思い、ランダムにかけた。こういうときありがちな話だが全部見るまで判断がつかない。引越しのとき本を整理しようと思い読み始め奥さんに怒鳴られた経験はありませんか。僕はとりあえずとっておく派なので、家が不必要なもので溢れかえっている。lazyの前は寿司屋さんだった。居ぬきのまま引き継いだので捨てられなかった寿司桶やらざるやら天狗のお面やらが押入れに入っている。
テープのはなしに戻す。3本目にNHKで放送した井上ひさしの追悼番組のテープが出たきた。その中で憲法を変える動きがあることに触れて戦後もう人を殺さない世の中になるのだ、軍隊を持たない選択肢があるのだと晴れがましく思ったと言う。そういう実感が崩れつつある事を危惧していた。
そのテープを見終わったときが憲法記念日であった。
むずかしいことをやさしく
やさしい事を深く
深い事を愉快に
愉快な事をまじめに
井上ひさしの座右の銘だ
悲しみ、憎しみは備わっているが笑いはつくっていかなければ無い感情だ。
ジャック・レモンが喜劇は難しいといい、桂文楽は噺家は人情話はやめたほうがいいといったのは共通した認識のように思える。
ナチス政権下の題材をロベルト・ベニーニは映画「ライフ イズ ビューチフル」で戦争を遊びにしてわが子に説明していた。カレル・チャペックもコラムでドイツに蹂躙されていくチェコを笑いを以て乗り越えようとしていた。
そういえばホレス・シルバーのブルースは悲しくないなー
時評
時評
熊本地震から二十日ほどたった。今も大きな余震が続く中被災された方には心よりお悔やみを言いたいと思う。ただ地震一色の報道がなされる中、国の命運を決めるような事がどんどん既成事実として作られていく。オスプレイを使った輸送活動など完全に政治ショーに利用されている。激甚災害に指定されたタイミングも北海道5区の衆議院補欠選挙の前日で遅きに失しているにもかかわらず災害対策を遂行する与党は批判しづらい。結果も与党が辛くも逃げ切った。次回の国政選挙に課題を残した。アメリカに自国民の幸せまで差し出して自分の歴史認識やら存在感を主張するお坊ちゃま総理には絶対やめてもらわないといけない。僕は自民党を支持したことはないがそれでも昔は骨のある政治家がいてだめなものはだめと言う風土は残っていたと思う。TPPなど市場拡大と効率化をうたう政策は要はあなたもこちら側に来れば金持ちになれる可能性はありますよと恫喝しているようなものだ。国は断じて株式会社になってはいけない。潰れてはいけないのだ。ケイマン諸島や、バージン諸島に会社を移して国民から絞り上げたものを自分たちのために使うことは阻止しなくてはいけない。
音楽とて無関係ではない。何時の間にか著作権が延長され、在庫を抱えるCDショップは大手と言えども縮小の一途だ。札幌をjazzの町にすると言ってはじまったcity jazzも演奏者の低年齢化と経済効果だけが取りざたされるイベントになってしまった。音楽の質が問われる構造にはなっていないと思う。
呑み屋で政治と宗教の話はご法度だと言われるが呑み屋の親父も言いたいことはあるので真面目に書いてみました。明日からは面白い事書きます。
鮭の遡上
週中のライブのない小雨模様の木曜日、巨人の優勝が決まった後の中日とヤクルトの消化試合のように盛り上がらない。・・・・・・と覚悟していた。見知らぬ会社員がドアを開けた。(目は悪いし、逆光だと本当にを分からない)リクルートスーツに身を包んだバイトのF本だった。あまりに早い季節の遡上で一瞬ぴんと来なかったし、思わず笑ってしまった。何日かこっちにいるんだ。会社の歓迎会のあと関東圏に行く前に立ち寄ってくれた。国家元首をもてなすのと同様に接客をさせていただいた。何せお客様だ。お通しと未使用の割り箸とちゃんと冷えたビールをだした。まだ最後に会ってから2週間ぐらいしか経っていないのにカウンター越しに見るとずいぶん違った印象を受ける。明日早起きしなければならないといって10時過ぎには帰っていった。勿論引き止めたりはしない。さりげなく給料日を聞いた。一流社会人であれば聞いた意味は分かるはずだ。今度来れるのはゴールデンウィークということだ。シングルモルトの21年物を仕入れて待っていようと思う。
金1600円確かにいただいた。嬉しい1600円であった。
領収書は・・・・・と聞いた。「おこられます」と言った。
そういう時は「日付、金額なしで2枚下さい」と言った方が面白い。
F本まだまだ。