2019.11.9 峰 厚介 Mr.Monster

峰厚介(ts)中島弘恵(p)秋田祐二(b)小山彰太(ds)
 峰さんは昨年の年明け以来だ。その日のことを思い出しながら、今後どれくらい、峰さんの生に接することが出来るのだろうかという思いに駆られ、手に取るまま数枚のアルバムを聴いた。ささやかに助走付けをしてから会場に向かった。これまでギリギリまでスコア・チェックするといった厳しい演奏姿勢の峰さんを何度か目撃してきたが、この日のレジェンドは柔和な雰囲気を漂わせていた。時間を押すことなく開演を迎えた。おおよその流れに沿ってみよう。1回目はW・ショーターの逸品「LIMBO」にて開始、中島の「セカンド・ステップ」は次に踏み出す一歩というよりは二の足を踏むとした方が相応しいような曲想。次は峰さんのオリジナル2曲。公演先をひっそり去る時の心情のような「アフター・ザ・チェック・アウト」。聴く側は哀愁のバラッドにチェック・イン。昨年リリースしたアルバムのタイトル曲「バンブー・グローヴ」、パワフルな魅力にぐいぐい引き込まれる。これぞワンホーン・カルテットの醍醐味。2回目は、最近休筆から復活を遂げた時事評論家がタイトルを付けたという中島の「ガンボズ・ステップ」、S・リバースのメロディアスな佳曲「Beatrice」、彰太さんの「月とスッポンティニアスな夢」はタイトルとは逆に深海を彷徨してるような不思議な曲。最後は中島の「スリー・ヒルズ」で、終局の聴かせどころに巻き込んでいった。アンコールはD・チェリーの「Art・Deco」。
峰さんは十代から夜の営業の生バンド需要がある世界で身をもって腕を磨いてきた人だ。そういう出自は、今では縮小過程に入っているのだと思う。現代という時代は、ネットで幾らでも音楽情報を手にすることができるので、土埃をかぶらなくても、ソコソコの考古学者になれるかも知れないような怪しい陰が貼り付いている。とはいえ、最近の台頭著しい若手ミュージシャンたちは、そうした懸念を払拭してくれていることも知っている。彼らは、峰さんをはじめとする偉人たちの描いてきた軌跡をきちんと視野に収めているのだろう。それにしても、ワイルドさありデリケートさあり、そこを自在に往還する風格は、わが国JAZZの覇権を握る演奏家の威容そのものだ。当然の帰結と云おうか、峰ウチでは済まされず、バッサリやられたことのこの快感。今なお湧き出すエナジーによって、Mr.Monsterは今日も峰ブランドをクリエイティヴに更新し続けているのである。
(M・Flanagan)

2019.10.18 本山 東京以心伝心トリオ

 本山禎朗(p)楠井五月(b)小松伸之(ds)
これは在札の本山が、アウェイの東京で演奏する時に組まれるトリオである。メンバーは、LB登場から月日は浅いが、その驚異的テクニックは(ペデルセン+ビトウス)÷2+something-elesと言われており、衝撃のベーシストと称されている楠井、原大力の一番弟子で札幌には10年余りのブランクを置いて舞い戻って来たドラムスの小松。この二人は先ごろ深い感銘を残していった池田篤とともに辛島さんのバンドに在籍していたので、そちらで聴いていた向きも多いと思われる。1回目は、ガーシュイン「エンブレイサブル・ユー」、「マイルス・アヘッド」と名曲が並べられ、耳馴染みのないクレア・フィッシャーのしっとりとした「ペンサティバ」、オスカー・レバントという作者の曲で、若き純粋は時に危険でもある「ブレイム・イット・オン・マイ・ユース」、4曲目は「ホワット・イズ・ディス・シング・コールド・ラブ」、品位優先の曲だと思っていたが、ここでは奇襲攻撃が絡む熱の入った演奏。コール・ポーターが気に入ったかどうかは誰も知りようがない。2回目はR・ロジャース「ハブ・ユー・メット・ミス・ジョーンズ」、モンク「レッツ・コール・ジス」、R・カークのゴスペル・ライクな「フィンガーズ・イン・ザ・ウインド」。最期は、ここのところ本山が好んで採り上げるピーターソンの「スシ」、トロトロするどころか、抜群のスピード感が漂うもので、ネタの鮮度は開店前の行列モノであった。アンコールはE・ガーナーの「ミスティー」で、とろけるようにライブの幕を下ろした。演奏側自らがオススメ・トリオと言っているだけのことはある。連携十分な纏まりの良さを目の当たりにして、以心伝心トリオという思いに行き着いた。
2019.10.19 鈴木 一心不乱カルテット
 鈴木央紹(ts)本山禎朗(p)楠井五月(b)小松伸之(ds)
前日のトリオに加え、当夜だけにのみ鈴木が駆けつけた。この演出は賞賛すべきものである。1stは、前日もやった「エンブレイサブル・ユー」、テナーが入ると相当雰囲気が変わることが見て取れる。マイルス初期の「バップリシティー」からカーマイケル「スカイラーク」と古典群が続く。ドラマーV・ルイスの「ヘイ、イッツ・ミー・ユア・トーキン・トゥ」は初めて耳にしたが、太鼓屋ならではのドライブ感のある曲に猛アタック、爽快そのものだ。2ndは、今どきの冷え込みから、枯れゆく葉のリーブスと秋が去り行くリーブスが重なる。「オータム・リーブス」でスタート。続いてモブレーの「ジス・アイ・ディグ・オブ・ユー」でバップ的に会場を加熱。続く「イット・ネヴァー・エンタード・マイ・マインド」は、ゆったり流れるモノクロ映画の中に誘い出されるかのようだ。それに身を任せていると、“うっとり”から“うとうと”に引きずり込まれそうになった。とその時、鈴木のカデンツァから「ザ・ソング・イズ・ユー」に突入して一気に覚醒した。今日のハイライトを成すに相応しい滅茶カッコイイ(少し軽いか?)熱演にゴキゲン沸騰。酔いしれる演奏とはこのことだ。アンコールは今も昔もあらゆる瞬間が「ナウズ・ザ・タイム」。これは我らに脇見を許さぬ一心不乱のライブだ。
鈴木は7月のオルガン入りトリオで問題提起していったが、時を経ずして再び聴ける本企画に有難みを感じつつ、バースを回す。鈴木、大きく歌いながら、細かく音が刻まれるパッセージがふんだんに湧き出るさまは、恰も管をくわえた話術師と言えるものだ。500円と1万円のワインをハズしても、鈴木を聴き間違えることはない。楠井、イフェクタありアルコあり、パッション・アリアリ。小松、原師匠のエッセンス継承の上に、自身の個性を貫徹。前日からソツ無しスキ無しユルミ無し。本山、他のメンバーの押上げに真っ向勝負、実に腰のすわった演奏を披露した。2日合わせて延べ“7人の侍”よるヌルさ撃退ライブでした。 
(M・Flanagan)

2019.10.4-5 池田篤 今日のインプレッション

池田篤(as)田中菜緒子Trio(田中(p)若井俊也(b)西村匠平(ds))
 4月の14周年に池田が荒武との共演を果し、「閉伊川」の感動的ソロは記憶に新しい。その池田をよもや年内に再び聴けるとは思っていなかった。今回は昨年の3月に13周年で初登場した田中菜緒子Trioとの合流Quartetという妙味も加わる。
ところで、私たちの演奏家に対する思いは、それまでに聴いてきた延長線上に位置させているのが普通である。人によっては、前期と後期のどちらの方がいいかというように、はっきり線引きして問いを立てることもある。それは一概には、否定できない面もある。しかし、演奏家の積み重ねの裏には体力的変化や私事などの連続性において、誰もがそうであるように人の属性が否応なく影響している。池田の凄まじい演奏力に釘付けにされた体験者は相当数いると思われるが、これまでにも触れて来たように、それが一聴変わっていないようでいて、今は8の力に10の思いを込める池田のように思えている。この熱く浸み込んでくる池田を聴き逃すことがあってはならない。それが池田に対する今日のインプレッションである。それを象徴する演奏が、もう聴く機会はないと思っていたあの曲、「Impressions」だ。こうなるとマナジリの緩みが容赦してくれなくて困る。言いたいことを言ってしまったので、その他の曲を紹介する。出だしはモブレーの「ジス・アイ・ディグ・オブ・ユー」、田中の「ルンバ(とメモされているが無題)」。池田は石垣から船で南下した琉球地方のある島を訪れるのを恒例としている。その地を素材とした「ウガン」。これは南国情緒を綴ったものではなく、その島の祭祀を行う“拝み山”を曲名にしたもので荘厳な佇まいの曲である。一月前に作った池田の未だタイトルのない曲も披露された。更には池田のラージに聞こえる「リトル・バーニング」。ショーターのお馴染み「YES・OR・NO」、シルバの「ピース」。田中オリジナル「MT」はアグレッシヴな曲。何と田中は“ふぐ”を飼っているという。聞いただけで痺れが回るが、小さな観賞用で暗がりで目が光るのだそうだ。それを曲にした「アベニー・イン・ザ・ダーク」。ガレスピー「コン・アルマ」、マクリーンの「DIG」、など。そういえばブルースをやっている時に、池田が“イン・ザ・ムード”のテーマをハメ込んでいたのには結構ニンマリだ。折角なので、Trioについて付け加える。田中に池田と共演の感想を訊いて見た。初共演だけれど池田さんをよく聴いています、とはぐらかされてしまったが、日頃色々な取組みをしているのだろう、1日目から2日目に向かうにつれ、冷静さと思い切った踏み込みがバランスし、適応力をたっぷり見せ付けていたことは記憶にとどめる。若井と西村は、毎回やることやっていくなぁ、だ。そろそろ若き名演請負人と言うべきか。
池田の真綿で暖められた音が、適温となってこちらの体内に伝えられてくるかのような2日間であった。こうした味わいを生で聴く喜びはこの上ない。そう思いつつ、ここのところ池田を語ろうとすると力みが入り過ぎる。今まさに、抜き方を池田から学ばなければならない。
(M・Flanagan)

2019.9.20 大野えり&石田衛meets TKO

大野えり(vo)石田衛(p)立花泰彦(b)小山彰太(ds)奥野義典(as)
40年もの長きにわたり第一線を張っている大野えり。腹心の石田を従えて3年ぶりの登場だ。片や迎え撃つは初共演の硬派TKO。軍配が返る時間がやや押し加減になった。皮肉にも1曲目は「ジャスト・イン・タイム」という塩梅だ。最初から心をとろけさせるのは流石というしかない。この達人はライブで必ず自作曲を入れるが、この日も「イン・ザタイム・オブ・ザ・シルバー・レイン」、「ウイ・ワー・メント・トゥ・ビー」、「カム・アラウンド・ラブ」が採り上げられていた。このことは、自己主張というよりは自己確認のためになされているように思う。シンガーとコンポーザーの共同作業が彼女にとって欠かせない音楽コンセプトになっているのだろうと想像する。それら以外の曲は、お馴染みの「エスターテ」をじっくり聴かせて何とも艶やか。B・ストレイホンの「ロータス・ブロッサム」、「ラッシュ・ライフ」。コルトレーンほか多くのミュージシャンがやっている「アイム・オールド・ファッションド」、S・ラファロが他界して失意の中で彼に語りかけた(と思われる)エバンスの「ハウ・マイ・ハート・シングス」。人種・人権に深く関与したA・リンカーンの「スロー・イット・アウェイ」。スキャットを含め高速かつ滑らかな離れ業、この「コンファメーション」に匹敵する熱唱に出遭うことは、今後もそうそう望めないかもしれない。シナトラも歌っていた「The best is yet to come」については、最後に触れる。思わぬ話だが、えりさんはクラゲ好き(食用ではない)なのだという。山形県にある“クラゲ水族館”(NHKの逆転人生で、その苦闘が放映されていた)とも交友関係が築かれているらしい。そのクラゲ哀歌は「ジェリー・フィシュ・ブルース」。最終曲はエリントンの「ラブ・ユー・マッドリー」、アンコールは最近リリースされたPIT-INNライブVOL.2のタイトル曲「フィーリング・グッド」。これが当夜の大体のところである。音楽を聴く者の嗜好基準は非常に曖昧なため、感涙ものが別の者にとってはマズマズの評になったりする。こうした感覚の段差と大野えりは縁がない。歌も楽器も上手い人は山ほどいるが、そこにJAZZならではの色気が息づいているかどうかを問えば、大きくその数を減らすであろう。この色気には長年にわたって飽きが来ない、つまり心を酔わせて止まない何かが宿されている。だから多くのレコードを所有していても、手を差し伸べるものに偏りが生ずるのだと言える。話を戻すが、歌唱力を頂点とする大野えりのステージ・ワークは既に完成域に到達していると誰しもが思っている筈である。それは全く正しいのだが、ここで少し修正を加えなければならない羽目になった。
名唱の余韻をよそに、わが国の至宝に対し失礼を顧みず言うならば、欠けているのは還暦越えの年齢的若さ以外にないと思っていた。だが、本人によれば、達成し終えたという意識は皆無で、これからがさぁ本番なのだそうである。前述の「The best is yet to come」。言わば“頂上はまだこれからよ”なのである。若さという失礼の辞は、あくなき探求心に撃墜されてしまったので、訂正してお詫び申し上げる。語り尽くせぬ部分を別の形で補完しておく。よくライブにはCDが持参され、数人が買い求めることは珍しくない。えりさんは、PIT-INNライブのVOL.1、VOL.2、DVDの3点をダンボール詰めで用意していた。知る限りこれだけの飛ぶようなSOLDを見たことがない
(M・Flanagan)

2018.9.6 Trio De るなんぴる

LUNA(vo) 南山雅樹(p)菅原昇二(tb)
丁度1年前、ブラックアウトで札幌の灯は消えていた。辛うじて北24条界隈は部分復旧下にあり、ギリギリのところでLUNAの10年連続ライブが挙行できる運びとなった。首に懐中電灯を下げて何とか会場に辿り着いたのを思い出す。この特殊事情からその日は予定曲の多くが差し替えられた。災害とシンクロしない「明るい表通りで」のような曲を歌う訳にはいかなかったのだろう。そんな中での最終曲「ナチュラル・ウーマン」の熱唱は今も印象深い。さて、今回は何ともイージーなツアー・バンド名ではあるが、それを覆すシリアスなライヴとなるのか?それを気に懸けながら追ってみることにしよう。ひとまず選曲の妙が織りなす英語、ポルトガル語、日本語による世界旅行を楽しむことが出来たとしておく。曲名が余り紹介されなかったので分かる範囲に限定されるが、かなり凝ったアレンジの「サマータイム」からスタートし、ブラジルの蝉「シガーハ」、スタンダード「ジス・オータム」、スキャットを駆使したブルース、悲恋がテーマの日本語の曲、J・レノンの「Love」などが1ステで採り上げられた。2ステは再びブラジルに飛んだ後、わが国にとんぼ返り、“ざんし”と聞こえた失意の曲。次は安部公房の作品に武満徹が曲を付けた「他人の顔」、郷愁をそそる旋律とは裏腹に、歌詞はホラー映画並みに怖い。このあと懐かしくも思いがけない曲が現れた。多分、筆者は四十数年ぶりに聴いた「教訓」。曲も意外だったが、歌詞を断片的に覚えていた自分が照れくさい。これは曲の生命力を気付かせてくれる当夜の掘り出し物。最終局面は必殺パターンの「ヒア‘ズ・トゥ・ライフ」、曲名不詳だが聴き覚えのある魅力的ブラジル曲、そして「諸行無常」にてFine。ジャッジの採点では、燃焼部門LUNA、小粋さ部門NAN、マイルド効果部門PIL、それぞれ高得点をマーク。人生色々なことがあるが捨てたもんじゃない、と思わせるような“Trio-De-るなんぴる”の『今夜は最高!』ライブでした。
この蛇足は失礼に当たらなければよいが、LUNAの話し言葉は、その声の転がし方が気のせいかアジアの歌姫テレサ・テンに似ているような気がする。ホーリー ジュン ザイライ(いつの日君帰る)。ジャズに?ロックに?歌謡に?何処に帰るのだろうか、ヒヒヒ。
(M・Flanagan)

2019.8.9 壷阪健登 器用な果実

壷阪健登(p)柳真也(b)伊藤宏樹(ds)
 近年、若手の台頭には目を見張るものがある。率直にこの日聴いた壷阪から今後重要な役割を果していくのではないかと感じた。まだ二十代半ばであることによる清新さはさて置き、既に自己の方向性が定まっており、その射程圏内において存分に研鑽を積むことが今日の演奏活動なのだと思われる。折々のアナウンスから少しずつその秘密が明らかになって行った。それは、彼が過去の遺産の中に未来を発掘しようとする明確な自覚を持っており、強めて言えば当代の毒気のない流行は眼中にないということだろう。余談だが、エリントンを学習したか否かでその後の演奏に明確な差が出るという話を聞いたことがある。因みに現代音楽あがりであるC・テイラー自身の発言よると一方で“私は4ビートをできない”と語り、他方で“デューク・エンリントンを最大限に尊敬している”と述べている。その両立を可能にしているのはエリントンの想像力を学習したことによるものだと思われる。さて、この日の選曲は、1曲目が「ステラ・バイ・スターライト」、2曲目は「グッド・モーニング・ハートエイク」、これはエンディングにその演奏のピークを持ってくるあのスタンダーズのような仕上がり。3曲目は」「アイ・ディドゥント・ノー・ホワット・タイム・イット・ワズ」、4曲目は「プレリュード・トゥ・ア・キス」と名曲を並べ、最期はストレイホンの「UMMG」をアグレッシブに攻めた。筆者は前半だけに限っても異才を放つ壷坂を感ずることが出来た。後半はモンクの「トゥインクル・トゥインクル」、2曲目がヘイデンの「ワルツ・フォー・ルース」。そして3曲目が「ゴースト」、これには完全に意表を突かれ飲むペースが倍テンになってしまった。アメリカでの彼はFreeのセッションにも参加することがあるらしい。4曲目は一般に定着しているよりスローな「イッツ・イージー・トゥ・リメンバー」。5曲目は逆にアップ・テンポ気味の「アイ・ヒア・ア・ラプソディー」。この若き才能の演奏から、閃き溢れるフレーズ、アクセントの付け方などの独自性をはっきりと窺い知ることができた。必然的にサイドの柳と伊藤もその刺激を十分浴びた立派な演奏をやり切っていた。
 これからの話は何処に持ってくるか迷ったが最後にした。それは壷阪が誰を最も敬愛しているかという話である。ビリー・ホリデイなのだそうだ。寝起きから聴くこともよくあると言っていた。このライブでも彼女への畏敬の念を込めて愛唱曲を採り上げていた。ビリーは器楽的フレージングやブルース感覚において天才と言われたが、我々が伝え聞く波乱の生涯のイメージが余りにも強いシンガーである。筆者には何を聴いても物悲しく聞こえてしまうのだが、改めて“奇妙な果実”を聴き直すと、彼女の背負った体験が宿命的に滲み出て来るのは致し方の無いこととして、そのことと意図的に仕組まれた感情移入とは区別しておかなければならないと思う。実際、彼女にとって歌うこととは、天性の歌唱力を極限化することのみに専念する営みだったのかも知れない。そうであれば、彼女の人生と歌とを過剰に接合させているのは恣意的に悲運のビリーホリデイ物語を仕組もうとする聴く側の干渉が働いているのではないかと疑ってみる必要がある。けれどもこの疑いは壷坂が何故ビリーなのかの手掛かりにはなっていない。凡人には謎が解けないままだが、壷坂は彼の特異な才をもってビリーの想像力を巧みに汲み取っている筈だ。“器用な果実”壷阪健登、目を離してはならない飛び切りの逸材である。
(M・Flanagan)

2019.7.26 マキシム・ワールド・ジャズ・トリオ

Maxme・Combaruie(p)三島大輝(b)伊藤宏樹(ds)
 前回のこのトリオ演奏でマキシムの個性を少しは掴めたと思っている。やや回りくどく言うと、アメリカはジャズ発祥の地であるが、その多様さから説明するのは容易なことではないにしても、わが国の多数はアメリカ的なるものを体感的に分かっているような気がする。そのアメリカの多様性のどの区画にも属していないというのが、少なくとも前回掴めたマキシムの個性の位置である。他のヨーロッパ国民以上にフランス人は自国語に固執するとよく言われている。訊いて見ると、マキシムはその通りだと頷いた。今回は止むを得ずカウントに英語を使っていたが、言語観と彼の音楽とは不離一体である。これを24批評界ではマキシムのFrench-Connectionと言っているらしい。通常私たちは、音楽を聴きながら頭の中をあちこち徘徊することもあれば、じっと立ち止まったりもする。そんな状態のなかで耳を傾けていると、マキシムはラ・マルセイエーズの勇ましさを柔らかさに変換させながら端正なピアノで行進しているように思えてならないのである。その行進に合わせて、マキシムの音楽に対する筆者の理解も半歩は前進したようだ。ここまで来て気恥ずかしいが、以上のことは彼のエスプリの所在はセーヌ河であってミシシッピー川ではないと言ってしまえば済むことであった。演奏曲は「イット・クッド・ハップン・トゥ・ユー」、関西のアルト奏者の曲「大きな桜の木の下で」、「ソーラー」、「オーバー・ザ・レインボウ」、「エアジン」、「酒とバラの日々」、オリジナル「4:00 AM」、「ステラ・バイ・スターライト」、ブラジルもの「テドルフィン」、オリジナルの「ハピネス」で閉め。アンコールは日本をイメージしたオリジナル「エリカ」、これはソロを割愛したので2分ほどで終了、次回は演奏サイズをマキシマムにしてもらいたいものだ。
 では蛇足。ヴィジュアル的に伊藤は生粋のニッポン顔である。三島は気合が入るほどにゲバラ顔になる。マキシムは気のいいヤサ男顔。彼ら3人は自由・平等・博愛に満ちているかは分からないが、ひとまずWorld・Jazz・Trioと名付けて逃げ切りを図ることにした。
(M・Flanagan)

2019.7.19 田中朋子オリジナル集

田中朋子(key)菅原昇二(tb)中澤一起(g)北垣響(b)小山彰太(ds)
 5月の連休明けのことだ。有りそうで無かったこのメンバーによる初ライブがあった。それはお客さんを大いに楽しませるものだった。そんなこんなの勢いで、ライブ終了後にさっそく次回のスケジュール調整が始まり、そこで組まれたのが当夜である。見るからにヤル気満々のようなのである。そして田中のオリジナルが中心と紹介されたのも嬉しい限りだ。夫々の印象を添える。1stは比較的新しい曲が並んだ。1曲目は「イノセント・ウーマン」、汚れなき潔白の女性というような意味合いだが、一筋縄ではいかなかった女の半生のようにニガ目のスパイスが効いていた。2曲目は「ダブル・ムーン・フォー」、いくつもの月が天体を舞うが、その動きは引き締まったものだ。3曲目は「マグノリア」、田中の内面を静かに描写していく審美的バラード。4曲目は「ダイヤモンド・ダスト」、出だしは遠い昔に引き連れて行くわらべ歌のような感じだったが、中澤と菅原のタイトなソロによって渦を巻くように現代に連れ戻される。2nd1曲目は、唯一割って入った菅原のオリジナル「散歩・ツー」、老人のようなスロー散歩だが足元はしっかりしていた。2曲目は万雷の拍手とともに封印していたあの「SAKURARAN」、後半の山場に差しかかると混然一体、狂喜乱舞、天衣無縫、焼肉定食、美味しいとこ取りの取っ組み合いが展開された。これだけで来た甲斐があるというものだ。場内も快哉が飛び交っていた。3曲目は「ヴェガ」、ピアニカの巧みな効果音がこの曲の新たな一面を引き出しており、アコースティックとの使い分けが見事。最終曲は、このところ田中の座右に位置する「ジャックと豆の木」。スミマセン、大熱演のさ中に“ジャックとディジョネット”と呟いてしまいました。アンコールは「インナ・センチメンタル・ムード」。改めてこのバンドは実に面白い。菅原の参加が田中の楽曲に新たな花を添えているのは間違いないが、ツワモノ揃いなので聴きどころに不自由しない。夏が終わったらまたやるそうなので、未だの方にはお聴き逃しのないようチェックされたい。その時は彰太さんのハモニカをが聴けるかも。
 オリジナル中心のライブは、正直、一杯一杯になることがある。だがそうではないケースもあるのだ。虹のタナカに讃辞のあなた。
(M・Flanagan)

2019.7.13 鈴木央紹 Favouritesの頭金

鈴木央紹(ts、ss)宮川純(org)原大力(ds)
 ごく最近リリースされたこのトリオによる「Favourites」。まさにスタジオからここに直行のようなものだ。タイトル名からお気に入りを選曲したと想像できる。それよりも何よりも、今回の目玉は、オルガン入りということに尽きる。オルガンと言えば、突出してジミー・スミスが有名なように思う。これは彼の功績のほかにオルガニストが少数ないということの裏返しでもある。よもやま話は程々に会場の中に入ってみよう。音だしは鈴木の独奏によるイントロからだ。オルガンが何処からどう絡んでくるのか。固唾を呑む間が続く。本当はこの楽器、ソウルフルかつダイナミックなグルーヴが魅力なのだが、多分、ナマでは初めて聴く人が多いだろうから、この雰囲気もやむを得ない。テーマに入る段でオルガンとドラムが静かに寄り添ってきた。「ウィッチ・クラフト」、魔術の始まりだ。この演奏は後の演奏と通底する。例によって聴きどころである鈴木独壇場の高難度フレーズのスムーズなまとめと、鈴木ソロの後に回って来る宮川のベースとメロディーが合成されたアドリブに間髪入れず原が乗っかって来る。オルガンとドラムの並奏は何度も提示されたが、これが誠にスリリングだ。全編をまとめると、鈴木の圧倒的演奏力と宮川の時に地を這い時に中空を駆け回る表情豊かなプレイ、そして原の真骨頂である丁々発止に巻き込むノリが少人数編成においてひと際要求される連帯バランスを見事に体現していた。スローな演奏においてもこれは何ら揺るぎなく、目の離せないトリオの出現、新たな発見サックだ。他の曲は、「ザ・デューク」、「ユーヴ・チェンジド」、「リメンバー」、「ホエア・オア・ホエン」、「アイ・シュッド・ケア」、「エヴリータイム・ウイ・セイ・グッバイ」、「(スタンダード)」、アンコールは「ムーン・リバー」。CDと外の曲が半々ぐらい。
 このライブを「Favouritesの頭金」と名付けた。サウンドに未来的なものを感じてしまったので、今後もそれなりの負担を覚悟することになりそうなのだ。いずれにせよSomething Elseなトリオのオルガンナイザー鈴木に感服する。
(M・Flanagan)

2019.6.21-22 大石極上のスピリット

6.21 松原衣里(vo.)With大石学(p)・米木康志(b)
 松原3度目の登場となるが、関西をホームにしている彼女は2年ほど札幌に住んでいたことがある。思いでの横浜(6.17ブログ)の札幌バージョンといえようか。冒頭彼女は、1週間くらい前からそわそわしていたと正直に打ち明けてくれた。わが国屈指のバック大石・米木、言わずもがなである。ヴォーカルには色々な人がいて、色々な聴かせ方をしてくれる。なので、それぞれに聴きどころがある。松原はと云えば、その選曲やふんだんにスキャットを駆使するなど所謂正統派に属していると思う。歴史に名を残す大物を相当研究したのではないかと想像できる。そしてその持ち味である奥行を感じさせるアルト・ヴォイスとここぞの瞬発力によって彼女の資質が十分引き出されているのだ。加えて最高のバック。“大満足”、終わってからの松原の一言だ。
曲は、ピアノ・ベースDuo「オール・ザ・シングス・ユー・アー」、以下松原が入り「アワ・ラブ・イズ・ヒア・トゥ・ステイ」、「イット・ネヴァー・エンタードゥ・マイ・マインド」、「デイ・バイ・デイ」、「ファースト・ソング」、「ムーン・レイ」、「バット・ノット・フォー・ミー」、2回目も最初はDuo「ビューティフル・ラブ」、以下「It don’t mean a thing」、「ア・タイム・フォー・ラブ」、「サムタイム・アイム・ハッピー」、「ワン・ノート・サンバ」、「ジョージア・オン・マイ・マインド」、「ジス・キャント・ビー・ラブ」、「ホワット・ア・ワンダフル・ワールド」。アメリカでは各地にBig・Mamaと呼ばれるシンガーがいそうな気がする。極東アジアにもその一人がいるのだった。なお、どうして「It doesn’t mean・・・」ではなくて「It don’t mean・・・」なのかを調べて見たところ、「doesn’t」で歌うとスイングしないから文法を無視したのだそうだ。確かに。
6.22 大石学(p)・米木康志(b)
一夜明けると、札幌は松原のシャウトに刺激されたかのような強烈な雷雨に見舞われ、それは勢いを弱めながら夜まで続いた。大石が最初に採り上げたのは自作の「コンティニュアス・レイン」という曲だった。大石は時間があればいつもピアノに向き合い作曲しているらしい。今回もオリジナルの合間にスタンダードを添える形で進行した。順に「ジェミニ」、「クワイエット・ラヴァーズ」、「雨音」、「チェンジ」、「シリウス」(米木オリジナル)、「メモリーズ」、「ザ・ウエイ・ユー・ルック・トゥナイト」、「ピース」、「ビューティフル・ラブ」。一言つけ加えると大石の代表曲「ピース」は何度聴いても胸を打たれる。大石を初めて聴いてから15年くらい経つ。ソロ、デュオ、トリオ、カルテットと折に触れ耳を傾けてきた。大石の一種叙情に溢れた演奏が彼の音楽性だとしよう。するとその音楽性の陰にある精神性を覗き込んでみたくなる。おそらく大石学とは、音が彼から逃れなくなるまで研鑽を重ね、そこに揺らぐことなくプライドを注ぎ込む信念の塊のような演奏家なのである。これを「大石極上のスピリット」と言わずに何と言う。少し力が入ってしまったので方向転換しよう。大石は作曲魔という主旨のことを先に述べた。“いも美”という曲を作ってみようかと呟いたようである。空耳でなければ、いつか大石さまが。アルコールついでの話だが、終演後、『大石』という熊本の米焼酎が振る舞われた。この春、常連さんが持ち込んだもので、3カ月間この日のために開封せずに我慢したという。一口よばれたが、『大石』極上のスピリッツであった。
臨時ニュースを一つ。HPのライヴ・スケジュールには「米木康志多忙のため今年最後の固め聴きチャンス」と付記されていたが、12月下旬に空きが出たため、急きょ日程が組まれたのでお知らせしておく。
(M・Flanagan)