Thelonious Monk『Plays Duke Ellington』

名盤・迷盤・想い出盤 
 それはジャズを聴き始めた頃のことだ。”モンクの最高傑作”の呼び名に釣られて購入したのは「Brilliant Corners」だった。最初にタイトル曲が来ている。これは無理だと思った記憶がある。何だか大量の片栗粉を混ぜ込んだ色の濃い料理を出されて、「えっ、これ、最高級なの!」と面食らったような感じだったと思う。それから暫くモンクの空白期間が続くことになって行った。そのブランクの間、他の色々なものを聴いていたのだが幸いしてか、多少は懐が深くなったのだろうか、次第にモンクに対する抵抗感が薄れ、面白味を以て向き合うことができるようになったのである。従って、今でもモンク初聴きで夢中になれる人には一目も二目も置くのだ。ここまでは筆者の体験的モンクのあらましである。さて、モンクが作曲したのは五十数曲らしいのだが、それが本当だとすると、名曲創作率が異常に高いように思う。そしてその個性ゆえ曲名を思い出せなくてもモンクの曲だと察しがつく。これは至って稀なことである。そんなモンクの曲は異例の頻度でライブでも演奏されている。それはコール・ポーターやジェローム・カーンなどの巨匠を凌ぐものがある。そうした巨匠たちの楽曲が演奏されるのとモンクのそれとは、異なる印象があると感じている。ある演奏家においてモンクの曲を演るとモンク風に聴こえ、他の作者の曲を演るとモンク色が一掃される場合があり、何故そう言うことが起こるのかと考え込むことがある。曲の個性を引き出しているから当然とも言えるし、曲に屈しているとも言えるからだ。また、それとは別に一群の演奏家においてはモンクの曲であるか否かに関わらず、一貫して自己表現として咀嚼されていることが確かめられる場合もある。筆者がモンクを聴いていて思うのは、彼は管楽器奏者の息継ぎを鍵盤に乗り移らせるかのように、彼自身の呼吸を音に変換しているように聴こえることだ。そこに異様な時間感覚の下地がありそうだ。呼吸というのは意識しなくても自然に繰り返されるとはいえ、絶えず詰まったり荒くなったり安定したり不規則の連鎖となるのが普通だ。そういう不規則な身体世界を音楽という精神世界に反映させたのが”モンクス・ミュージック”の核心なのではないか。幻聴と言われると元も子もないが、彼の音から人の気配が感じられるのだ。モンクのことを考えると袋小路への切符を持たされてしまう。だから困り果てる前に、ちゃっかり人の手を借りることにする。ジャズに限らず音楽に深い造詣のある村上春樹氏は、作家になる条件は自分のボイスが見つけられるかどうかに懸かっていて、それが見つけられれば後は何とでもなるというような主旨のことを確か述べていた。このことは今回のアルバム「Plays Duke Ellington」を選定したことと無関係ではない。何故ならこのアルバムは文字通りエリントン楽曲集であるが、余すことなくモンクス・ボイスの演奏集になっているからだ。なお、自曲を含まないモンクのアルバムはこれだけらしいので、貴重盤としての価値を備えている1枚だ。”ふぅ~う”という呼吸音に包まれつつFine。
(JAZZ放談員)

master’s comment notice
僕も同じような「Brilliant Corners」体験が有る。限られた小遣いでレコードを買うとなると厳選せざるを得ない。かと言って知識はない。有名な批評家先生のアドバイスに従わざるを得ない。どの批評家もモンクと言えば最初に「Brilliant Corners」を挙げる。まだjazz聴き始めの頃にこれを聴いた。秋刀魚の塩焼きしか食べたことがない人間がくさやを食べた時の印象に近い。暫く封印火山にした。初心者にモンクを勧めるとしたら僕も「Plays Duke Ellington」を選択する。モンクは自分の文体でエリントンという主題を表現している。牛さんが村上春樹の言葉を紹介している。村上春樹の発言は「文体」を探す道のりであったと思う。村上春樹は処女作「風の歌を聴け」を英語で書きそれを日本語に訳して作品にしている。翻訳小説特有の乾いた感触が有るのはそのためである。そうして徐々に文体を獲得していった。モンクもミントンズハウスでC・クリスチャンとセッションしている時期は音数の多くないバド・パウエルのようである。その後音数を減らしリズムを顕著にし固有の文体を獲得していった。