HP消失

HP消失
サイバー攻撃に会いHPが炎上したことにしておけば多少体裁を保てるのかもしれないが、全くの凡ミス、野球で言えばアウトカウントを間違って易々1点取られてしまう国鉄時代のスワローズの様な体たらくであった。サーバー会社から期限切れの連絡が来ていたような気もするが、酔いながら迷惑メールを削除していたときに消してしまったのかもしれない。電話、電気、ガスが止まったときのように支払えばすぐ復活するものと思っていた。これが全くのゼロからのスタートになろうとは思わなかった。やっと新社屋を建てたものの来訪者がいない。ライブ情報が行き渡らない。今まで書き溜めた文章の一部も無くなってしまった。旧作をフオルダーの中で探しながら復活させている。これがまた私生活と一緒で何でもダンボールにつめて押入れにいれておく方式なのでどこに入っているのかよくわからない。ライブレポート、ブログ、ショートストーリーは一部復活しましたのでご覧下さい。
これを期に今までできなかったことも取り入れようと思っている。
アクセスの方よろしく御願いします。

我ら永遠の津村和彦

2015.7.16-18  我ら永遠の津村和彦
7月17日と18日の2日間、津村和彦、米木康志、本田珠也のトリオでライブが行われる予定であったが、その願い叶わず一月前に津村は帰らぬ人となってしまった。闘病明けから少しずつ演奏活動を軌道に乗せていたことを聞いていたので、あまりに突然の訃報だった。津村の復帰後のプレイは渾身の極みだったらしく、既に彼は最終メッセージを発する覚悟の中にいたのかも知れない。一流ミュージシャンの天国流出が後を絶たない中、ここ札幌では、津村がLBに残した数々の名演に報いる思いを込めて、米木・珠也に地元ミュージシャンを加えた追悼ライブが行われたのだった。
2015.7.16 田中朋子(p)米木康志(b)本田珠也(ds)
2015.7.17 佐々木伸彦(g)本山禎朗(p) 米木康志(b)本田珠也(ds)
2015.7.18 田中朋子(p)山田丈造(tp)米木康志(b)本田珠也(ds)
3日間のうち、初日と最終日に田中が起用されているが、理由は明白だ。レイジーバードのライブ史上“伝説”とまで言われているクインテット(津村、田中、臼庭、米木、セシル)の一員として彼女は究極の演奏を行っていたからだ。そうした経過があるため、筆者としても田中は今回のライブには不可欠だった。田中がこの日のために曲を厳選したことは容易に想像できる。紹介すると自作曲から「デイ・ドリーム」「カレイドスコープ」「ベガ」という当地ではスタンダードの地位を確立している曲。そして安息を意味する「レクイエム」、ピアノがテーマを奏でた途端、笑顔の津村が脳裏を駆け巡った。切なさがピークに達すると津村に誘われて自分が笑顔を催してしまった。田中は更に津村と縁の深い曲を採り上げていく。「アローン・トゥギャザー」「サークル」そして「ベラクルーズ」。津村が演奏しながらジャンプする姿の残影、目の前で繰り広げられている演奏、その素晴らしさは残酷ですらある。この追悼は明らかに早すぎるのだ。3日目にはボーカリストでもある津村夫人の典子さんが駆け付けてくれていた。傷心のあまり歌う自信が持てずにいると語っていた夫人の典子さんが駆け付けてくれていた。傷心のあまり歌う自信が持てずにいると語っていた夫人は万感の思いを込め2曲披露して下さった。歌が行き着くある地点に届いていた歌唱だと思った。最後は津村、米木、珠也のトリオが定番とする愛奏曲で締めくくられた。
ライブ中は相当しょんぼりしていたので、客観的な聴き方を一切できなかった。それで良いのだと思っている。何故なら、この3日間は。津村を偲ぶという私たち個々の胸中に収めておくべきことだけが課されていたのだから。我ら永遠の津村和彦、ありがとう。
(M・Flanagan)

ダイキリvol2

ピアニスト
一時過ぎに店を出た。小雨模様にもかかわらずまだ通りには人は溢れかえっている。今日はついていた。少なからずのチップをもらった。あの初老の社会人の人は誰だったのだろうか。チップをもらうことは時々あるが、だいたいピアニストをホステスと勘違いをしている成金趣味の偽社長といった人たちで「姉ちゃん、演奏終わったら焼肉食べに行こうや」などと誘われる。この業界に付き物の話なので対処もだいぶうまくなってきた。最初は「何言ってんだ、この禿親父」と思って笑顔一つ作れなかった。今は何とか近々どこそこでライブがありますので来てくださいくらいのことは言えるようになってきた。そうだ今日はちよっとだけ贅沢しよう。サラによってちょっとだけ飲んでいこう。各種の風俗の客引きが最後の稼ぎ時とばかり酔客を捕まえようとしている。この中に何人の人が音楽を真剣に聴いてくれるのだろうと思うと時々悲しくなるときがある。
サラのドアを開けた。案の定誰もいなかった。
「珍しいね、こんな時間に」と言ってマスターは焼酎のボトルを探し始めた。
「焼酎は後で飲むので,ダイキリ作れる」
「李乃、それはコルトレーンにmy favorite thingを吹けるかと聞いているようなものだぞ」
マスターは手際よくとはいいがたいがちゃんとシェイカーを振っているのを始めて見た。
「どうぞ、お疲れさま」
一口飲んだ、あれピアノバーで飲んだのとあまり差が無いと思った。
「マスター以外に美味しいよ」
「李乃、以外には余計だよ。その場合には三通りのケースが考えられるな、俺の腕が一流か、お宅のバーテンダーが二流か、お客さんの味覚が三流かだな」
「相変わらず口が悪いのね」
「でもどうしたんだい、カクテルなんか飲んだりして」
「今日お客さんにご馳走してもらったんだけど、曲名を知りたいと言って呼ばれたお客さんに・・・・でもスタンダードではなくて母が時々弾いていた曲。そういえばあの曲母の遺品整理していたときに出てきたカセットテープにも入っていたよ。ピアノは母親だと思う。いいサックスだったよ」
「ああ、あの曲ここでも時々やる曲だね」
「そのお客さん勘違いだと言っていたんだけど、何か隠している感じだったなー。あまり音楽についてしゃべりたがらなかったけれど詳しいぞオーラが出てたよ。有線の音楽に合わせてとるリズムが素人さんではない感じがした」

会社員
比呂美の娘が弾く比呂美の曲は美しかった。ピアノバーなのでテンポは落としてバラードにしていたがrainbow danceだ。40年近く前、比呂美と演奏した曲だ。私がテナーでテーマを取った。。そしてもう比呂美はいない。どこまで時計の針を戻していいのかわからず頭の中が混乱している。

ピアニスト
「マスター、今日つけも払っていくよ」と言って一万円をカウンターに叩きつけた。
「もってけ、泥棒」
「李乃、後でも良いんだぜ」
「大丈夫、今日たんまりご祝儀もらったから」
「ああ、そうじゃー7000円のおつり、もってけ税務署」

6月の年末調整

この月の前半は多く戻ってきたのに、ある日を境にいっぺんに持って行かれた。
2015.6.5 松島啓之 4
松島啓之(tp)南山雅樹(p)北垣響(b)横山和明(ds)
 松島は、輝けるバップ・スピリットを現代に注入する。そうかと思えば、ルパンJAZZに参加するなどレンジの広い活躍を続けている。彼は好感度高く受け入れられているが、その秘訣は鮮度溢れる実直な音と偉ぶらない人柄にあると言われている。一方、横山は出演回数こそ多くはないが、何といっても臼庭のLBライブ・レコーディングで存在感を決定づけた。彼はそこらで見かける水溜ですら細かい飛沫を付けながら太平洋に描き変えることができる異才の持ち主で、その大きなノリを生み出す固有の回路は脅威といえる。二人の楽しみ方を白鳳の相撲に例えてみると、スキのない盤石の取り口でその醍醐味に頷くことが一つ、結局勝つのだが白鳳の心技体が普段と違うバランスにはまってワクワクするのがもう一つ。松島の王道と横山の不思議道を言い当てるのには少々無理があるとして、いつもより攻撃的な北垣と自分に冷静な南山のコントラストも面白ろく、このライブは幾つかの角度から楽しむことができた。
演奏曲は、「ア・ロット・オブ・リビング・トゥ・ドゥ」(C・ストロウズ)「トレジャー」(松島)「スイート・パンプキンン」(B・ミッチェル)「エンブレイサブル・ユー」「ザ・キッカー」(J・ヘンダーソン)「テイク・ユア・ピック」(H・モブレー)「ブルース・ライク・ア・リスク」(松島)「レディー・ラック」(T・ジョーンズ)「ピース」「オーニソロジー」「ジャスト・フレンズ」など。
2015.6.12 鈴木央紹 4
鈴木央紹(ts、ss)若井優也(p)佐藤“ハチ”恭彦(b)原 大力(ds)
 1曲目に「バット・ビューティフル」。多くのライブで最初の曲はミディアムかそれ以上のテンポの曲が本日の腕慣らしとして採用されているように思う。鈴木のカデンツァから淀みなくバラード展開に持っていく流れは成熟したレギュラー・グループならではだ。振り返ると前回このグループを聴いてから2年くらい経つだろうか。時折客演している鈴木と若井のエイリアン2人とは異なり原には久し振り感が湧く。その原ワールドは相変わらず健在で、ドラムスが可能とする極限の繊細音が潮の満干のように変化しながら全体を包んでいく。たまらず我々ファンは北国のよろこび組と化してしまうのだ。演奏曲は、「ウイズ・ア・ソウル・イン・マイ・ハート」「ローラ」「ベリー・アーリー」「エローデル」「ザ・シャドウ・オブ・ユア・スマイル」など。アンコールの「モナ・リザ」は実に感動的だった。
このグループは誰もが思うとおり非常に完成度が高い。全く余計な心配だが、これを超えたら演奏側はやることが無くなり、聴く側は関心が薄れてしまう恐れがある。成熟し過ぎると無垢の領域が葬られそうになる。彼らの稀有なる個性は際どい地平に立たされつつあるのかも知れない。杞憂であって欲しいものだ。余計な心配の後は余計なひと言。鈴木のライブには結構足を運んできたが、来るのをためらう時がある。一群の固定客を“常連さん”と言うが、鈴木の日には大勢の“女連さん”がやって来てギュウギュウ詰めになるからだ。俗に“アマゾネス・どっと混む”と言われる現象だが、高齢者に酸欠は少々こたえる。
2015.6.16 津村和彦逝く
 レイジーバードに数々の名演を残してきた津村和彦が亡くなった。丁度、松島4と鈴木4のレポートを書き終える頃にそのことを知った。この7月に米木・珠也とのトリオでライブが行われる予定になっていて、そのことを随分前から楽しみにしていたので心の遣り場がない。知らせを受けた日の夜に自室で津村を聴いた。津村の唸り声とフレーズがシンクロしている。鍋から溢れるように涙がでた。伝え聞くところによると、亡くなる直前、米木さんが“札幌に行こう”と抱きしめながら勇気づけたという。今は只々ご冥福をお祈りする。
(M・Flanagan)

追悼

ギターリストの津村和彦が亡くなった。七月に米木、本田珠也との日本最高のギタートリオで来てもらう予定だった。
深いけれども重くなく、爽快であるけれども軽くないギターだった。
初めて津村を生で聴いたのは25年ほど前になるが故古沢良治朗バンドであった。ギターが三人いる編成であとの二人はギンギンに弾いていたが津村はバッキングに徹していた。そのカッテイングのすばらしさに眩暈がした。
すぐ米木に電話した。
「すばらしいギターリスト聴いたよ」
「俺ときどき、DUOでやっているよ」
すぐ二人で来てもらった。それが付き合いの始まりであった。
45年ほどjazzを聴き続けているが飽きたときが二度ほどある。それを救ってくれたのが一度目がジョージ・アダムスのライブで、二度目が津村だった。具体的に言えば津村の弾くベラ・クルーズであった。
津村の歌に感動し、音楽に感動できる自分を再発見した。
lazyで数々の楽しいライブ聴いてきたがやはり印象に残っているのが2010年8月9日の伝説のライブだ。
臼庭潤、津村和彦、田中朋子,米木康志、セシル・モンロー
もう三人もこの世にいない事実に愕然とする。昨日7月の津村トリオのプレゼンターになるはずであった牛さんとこの録音を聴き続けた。二人ともいい年をして半べそであった。
津村、ありがとう、愛してるよ。
臼庭とセシルによろしく言ってくれ
僕の世界で一番好きなギターリストは永久欠番になるかもしれない。

嘘みたいな本当の話

「嘘みたいな」本当に起こった話を高橋源一郎と内田樹が選者となって応募総数1500通の中から選りすぐった話をまとめた本がある。これはポール・オースターのnational story projectの日本版の企画だ。ポール・オースターの方にも面白い話は載っているが長い話が多いので「嘘みたいな本当の話」ほうから何話か紹介したい。
出戻りベッド
自分の知り合いは、彼女と別れる時にベッドを彼女にあげたそうです。それから一年後新しい彼女できて、その新しい彼女の部屋に行ったら、前の彼女にあげたはずのベッドがあった。「どうしたの、このベッド」ときいたら、「寿退社した先輩にもらった」。
当人は「彼女は変わったが、ベッドだけは変わらなかった・・・・・」と言っていました
解説
これが本当の回転ベッド

モガといわれた女
近所においしい洋食屋ができたと言い出したので「店の名は」と聞くと「オペン」と答えた。場所が近くなので言ってみると店の名は全く違っていた。ばあさんは「open]の札を店の看板だと思っていた。
解説
groovy時代「グルーピー」様という領収書がたくさんあった。

男は辛抱、女は美貌
二十年ほど前に銭湯にいたばあさんは客の刺青者が短い小指で鼻をほじっているとすっぽりこゆびが入って見えるからか「汚いね!そんな奥まで小指突っ込むんじゃないよ」と叱り刺青者が仲間の分まで買ってやろうと「コーヒー牛乳これだけちょうだい」と言って片手(パー)を出したら、コーヒー牛乳4本とヤクルト1本出しました。
解説
似たジャンルで思い出した話がある。
僕が大学生のときだ。夏休みの時、銭函の北晴合板という工場で深夜のバイトをしたことがある。大型の乾燥機のベルトに木を乗せていく単純作業だ。だが注意を怠るとローラーに手をはさまれる危険もある仕事だ。
主任と呼ばれる人がいた。作業の注意点など説明してくれた。最後に「学生さん注意しないとこうなるよ」と言って左手を見せてくれた。小指と薬指の半分が無かった。
僕がびびったの見て笑いながら「冗談だよ。俺はこうなってから、ここにお世話になっている」
その主任とは休憩時間に時々話をするようになった。
「学生さん、すすきので揉め事に巻き込まれたら『北海の龍』という名を出してみな」と言われた。
幸いその名を出すことも無くここまでやってこれた。

暗証番号
友人が銀行の窓口業務をしていた頃の話。
ある老人がキャシュカードを作りにやってきた。書類をおおかた書いて最後に暗証番号を書く段になって老人は尋ねた。
「これは暗号のようなものですか」
友人は一寸違和感を覚えたが答えた
「ええ、お客様だけがわかる暗号のようなものです。この四つの枠内に書いてください」
老人はしばらく考えた末に言った。
「生まれた年でもよろしいですか」
「ええ、結構です」
枠内に力強く「イノシシ」と書かれていた
暗証番号は訂正が聞かないのではじめからもう一度書き直しになった。

これも最近僕が経験したことなのだが、深夜西28丁目まで行く用事があって北大通りで流しのタクシーを拾った。
帰り二時間ほどしてからまた流しのタクシーを捕まえた。
「北24条でいいですか」と聞かれた。先ほどの運転手さんだった。
僕はこの経験はもう一度だけある。
中学生のとき夜中に高熱を出して18丁目にある救急病院にタクシーで行ったことがある。母親が捕まえてきたタクシーだ。点滴などの処置をしてもらって少しだけ楽になった。帰りも勿論タクシーだ。たまたま手を上げたタクシーは同じ運転手さんだった。この話を母親にしたら50年前のことなのに覚えていた。まだ呆けていないので安心した。

ダイキリ

案内されたカウンター席からは窓越しに夜景が広がっているのが見えた。先ほどから降り出した雨の水滴が窓ガスを滴り落ちてそこにネオンと照明が乱反射して人工的な色彩をかもし出していた。背後からはピアノの音が聞こえてくる。as time as go byだ。センチな恋愛映画カサブランカの中で重要なな役割を持たされた二流企業の係長のような曲だ。
「何になさいますか」
「ダイキリを」
あまり酒にこだわるほうではない。ダイキリもヘミングウエイが愛飲していたと何かの本で知って馬鹿の一つ覚えで頼んでいるに過ぎない。ただ柑橘系の酸味と癖のないラムの組み合わせはキューバの昼下がりに飲むにはもってこいなのだろうとは想像がつく。そしてたぶんこの時間帯から飲むカクテルでもないのだろうとも思った。
時計は11時をちょっと回ったところだ。仕事で宴席をひとつこなしやっと開放されたところだ。
ホテルのバーのいいところは余計な話しをしなくてもいいことだ。出身地を聞かれることないし「巨人勝ちましたよ」と知りたくもない情報を押し売りされることもない。そのために安くはない料金を払っているのだ。
店内には三組の客がいるだけで一人の客は私だけであった。皆一様に小声で話すだけの思慮は持ち合わせているようだ。そして一曲終わるたびに反射的に軽く拍手を送っている。それが返って空虚に店内に反響して音楽を虚しくしていた。グラスが空になるのを見計らってバーテンダーがオーダーを取りに来た。
「よろしければ何かお作りしますか」
「同じものを」
「かしこまりました」
バーテンが小気味よく振るシェイカーの音が一瞬ピアノとシンクロした。
「よろしければ、リクエストも承りますが」
「いえ、音楽はあまり詳しくありませんので」と断った。
今日の商談はまずまずであった。札幌へ進出する足がかりになる可能性は大きい。
バックには淡々とではあるが卑しくはない音色でスタンダード曲が流れている。完全には無視できないその端正さゆえに返って思考を妨げるのだ。
二杯目のダイキリが空になろうという時、その曲が流れてきた。
その曲はスタンダードではない。知っている人間は限られる。私の知人が作曲した曲だからだ。
振り返ってピアノのほうを見たが、一段低い所に置かれていて大きく開かれた蓋が邪魔をしてピアニストは見えなかった。
「演奏が終わったら、ピアニストの方に一杯ご馳走したいのですが呼んでいただくことは可能ですか」とバーテンダーに尋ねた。
「かしこまりました」と答えてまたグラスを丁寧に拭きはじめた。
ピアニストはそれから2曲弾き終わってこちらにやってきた。20代後半と思われる女性であった。黒いニットのアンサンブルに黒のタイトスカート、同色のショートブーツを履いている。髪はきりっとポニーテールに縛り上げシンプルな銀のネックレスをしていた。ほっそりとした体つきではあるが目元には意志の強さを感じさせるものがあった。
「お疲れ様でした。少しお話をさせてもらっても良いですか。何か飲まれますか」
「ありがとうございます、それでは同じものを」
「ダイキリですが、かまわないですか」
「はい」と答えて隣の席に腰を下ろした。
二人分のダイキリを頼んで話を切り出した。
「最後から三曲目の曲、mistyの前の曲ですが、聴いた様な気もするのですが思い出せなくて」
「あの曲ですか、私も知らないのです。と言うよりタイトルが決まっていなかったのかもしれません。母がよく弾いていたものですから」
タバコを取り出し火をつけようとした。三度目を失敗したとき横から細い腕が伸びてきた。
「ありがとう、お母様のお名前を訊いてもいいですか」
「高橋比呂美といいますが、お知り合いですか」
「いいえ、そういう方は知りません。曲も勘違いだったかもしれません。お母様は今でもその曲を弾いているのでしょうか」
「母は昨年なくなりました。癌であっという間でした」
「立ち入ったことをお聞きしました。そろそろ失礼します」
精算を済ましピアニストにチップをと言って少し多めの現金を置いて足早に店を出た。
外はまだ小雨が降っていたが傘はささなかった。タクシーのクラクションが喧騒の中にこだました。

「比呂美、音楽はアマチュアでもできるよ。せっかく俺は外資の一流企業に就職できたんだ。ついてきてくれよ。
「私いけるところまでやってみたいの」
「君の能力ではたどり着くところは近くのコンビにだよ」
比呂美は踵を返すと雨の中をすたすたと逆方向に歩き始めた。
私は呆然と後姿を見送ることしかできなかった。
単なる青春時代によくある口論だと思っていた。その数日後短い手紙が届いた。
それから比呂美に会ったことはない。

ビールvol2

コートに降り積もった粉雪を払ってドアを開けるとまたペンギンがいた。僕はまだペンギンの顔を見分けられないが、ペンギンは人の顔を識別できるらしくあちらから話しかけて来た。
「いつぞやアイス・バーでお会いした方ですかな」
「やはりあなたでしたか」
アイスバーで会ったのが半年前になる。
今は雪祭りの時期で中心街は中国人、韓国人、数人のフインランド人で溢れかえっている。この店はそういう観光産業の恩恵は受けることなくポール・ブレイのソロピアノのように静謐に営業している。
「よろしかったら、隣に座りませんか」
僕は隣に腰掛けた。
「マスター、とりあえずではなくて・・・スーパードライ」
「一寸待ってください、よろしければサントリーモルツを飲んでいただけないですか」
「ですが、ここにはアサヒしかないはずですが」
「今日は、キャンペーンで置いてもらっているのです。なおかつ百円安いのです」
「そうですか。それでは、モルツを下さい」
「そうこなくては」
「今日はお仕事ですか」
「そうです、この時期は北海道地区を重点的に営業しております。北海道地区は営業三課が担当しておりまして私も営業三課係長補佐特命主任という肩書きで活動しております。ここのお店もアサヒしか置いていないのは知っていました。その牙城を切り崩すのが私の使命なのです」
ペンギンの語りがまた熱くなってきた。皮膚から湯気が出ている。おしぼりを使って顔をぬぐっている。お店でだされるおしぼりは手以外拭いてはマナー違反と言うのが常識だがそれがペンギンにも通用するかは微妙なので黙っていた。
ペンギンは話を続けた。
「私はモルツを飲みながら、お客さんにモルツを勧める。すると次に来るお客さんもペンギンと人間が楽しそうにモルツを飲んでいたとすると一缶ぐらい飲んでみようかなと言う気になるのではないですか。それとこれは大事なことですがお店にとっては原価がかからないということなのです。何しろこれはキャンペーンなのですから。サントリーは大きな会社ですからそれぐらいの予算はあるのです。第三課にも営業経費はあるみたいですが、『君はそこまで知らなくていい』と部長に言われました。残念です。私は係長補佐特命主任の名に恥じない職責を果たしたいのですが」

ペンギンはモルツを一口飲んで一呼吸おいた。
「明日、旭川に行きます。旭山動物園のペンギンの行進とタイアップのキャンペーンがあるのです。子供たちにモルツ缶を配るのです。お酒は二十歳からということは知っています。でもその子供たちが10年後、15年後あの時ペンギンさんがくれたビールだと思い出してくれてらどんなに嬉しいでしょう。」
ペンギンはこのキャンペーンを成功裡に導かなくてはならないことを何度も強調した。失敗すると沖縄地区担当にまわされるらしい。
「あそこは、暑いですし、基地もあり危険です」
と言ってビールを飲み干した。

泡盛2

ここに来るのは十年ぶりかな。そうそうあの岩陰でやどかり探したんだっけ。穏やかな海だね。水平線まで比重の違うリキュールを静かに注いだように青の層が分かれている。思い切り深呼吸をした。空の浮かんでいるクロワッサンのような雲を吸い込んでやろうと思った。これが娑婆の空気か・・・・こんなこと女の子が言ったらおかしいかな?
私は羊田メイ。24歳
そうそう、色と紺のボーダーの水着を着てイルカの浮き輪に乗って引っ張ってもらっているのが私。
バーからプールを見ている人がいるでしょう。あの人が私のパパ。
ついつい昔に癖で手を振ってしまうのだけれどこっちの私は見えないんだ。
そう、もう私は死んでいるから。
誰かが思いだしてくれたら年に数回こっちに来ていい事になっているんだ。
バーの方に行ってみよぅと。パパまだ私の方を見ているね。もっと色々あったのにこんなこと思い出しているんだ。
人影が無いプールを見続けているパパに片足の無い女性が「どうかしました」と聞いた。
「いえ、一寸思い出したことがあって」
私も飲んで良いかな。615号室の部屋付けにしておくね。一杯ぐらい多くついていたってわからないよね。
泡盛のソーダ割りか。やっぱり土地のもの飲まないとね。一緒に来た新ちゃんとマー君元気かな。あまりあっちには出る機会が無くて。んーんー。何も怒っていないよ。少しずつ忘れてもらわないと駄目なんだって。
パパと呼んでいるけど実の親子ではないよ。家出同然で出てきた私を拾って使ってくれたと言う感じかな。あのお姉さんは片足が無かったけれど、パパも女の子を小さいとき無くしているので心のジグソーが一個足りなかったの。その、ジグソーの形に私が似ていたのかな・・・
もう行かないと・・・・・・。
本当は駄目なんだけど私が来た証拠残していくね。

テーブルのグラスを倒した。
「すいません」すぐにモップを持ったバーテンダーがやってきた。
テーブルと床を拭いたバーテンダーが「お客様のお品ですか」と床に落ちていたパーラメントのタバコをテーブルのに上に置いた。私はもう一度目を凝らしてプールを見たが、プールサイドにぶつかるかすかな波音だけしか聞こえなかった。

おいしい、ウサギ

ペットのウサギが死んだとそのブログに書いてあった。可愛がっていたペットが死ぬと悲しい。正直あまり近しくない人が亡くなるより悲しい。僕も鳥を飼っていたのでよくわかる。でもそれを差し引いても一寸可笑しかった。そのギターリストのブログを読むのは初めてであった。スケジュールをチェックするのに初めてHPに入った。トップページが南の島の水上コテージだ。全くイメージに合わないのですが・・・・・・・。僕はそのギターリストS木と二度石垣島に行ったことがある。その写真は石垣島ではないが亜熱帯地方のどこかの島だ。ということはあの旅行は僕が思ってたよりもSも楽しんでいたのかもしれない。そしてはじめて読むブログが「ウサギは死んだ」であったのだ。それは「ママが死んだ。太陽のせいだ」ではじまるカミュの異邦人並みに不条理であった。
S木とは長い付き合いだがペットを買っているという話など一度も訊いた事がない。それもウサギですよ。うさぎ・・・。おまけに水上コテージのあとですよ。僕でなくともS木を知っている人間はクスッとなるでしょう。ペットを飼っている人間はある程度の付き合いになればペットの話を一度や二度必ずするものだ。もし僕がウサギを飼っていたら絶対黙ってはおけない。まして女性のお客さんが来ようものなら「俺ウサギ飼っているんだよ。名前・・・ももちゃん。ももちゃんて呼ぶと、折れていた耳をぴんとたてて話し聴いてくれるんだ。かわいいよ」なんて話すに決まっている。「マスターって動物にもやさしいんだー・・・」ということになり好感度が上がるのが目に見えている。
それなのにS木は江戸時代の隠れキリシタンのように隠し通した。本人もちょっと恥ずかしかったのかもしれない。犬、猫おまけしてインコなら言ったのかも知れない。たとえば「トランペッターーは誰好き」と言う話題だったとする。
まず、マイルス、ガレスピー、皆うなずく。C・ブラウンも。そうそう、ハバードも忘れたらだめだよね。と言う流れになる。そこで誰かがクラーク・テリーをあげたら空気は微妙になる。ペット界におけるウサギの存在はクラークテリーに似てると言ったらウサギファンは怒るのだろうか。
このペット話をしているときにピアノのM山もいた。小さい頃「いもり」を飼っていたと言う。これは隠していてもいい。先のトランペッター話でいうとダスコ・ゴイコビッチが好きと言うレベルだからだ。あまり本人になつかなかったらしい。イモリのことは詳しくないが手乗りイモリとかお手をするイモリは訊いたことがないから本人の責任ではないと思う。
その時僕はウサギを飼っている東京の一流ミュージシャンを思い出した。
大石学だ。みんな「へえー」と感心した。
「ウサギ、大石、かの山ー・・・・・」と歌ったらS木が睨んだ。
偶然は続くものでこんな話をしていたら翌日幼稚園東京支部のS名からメールが来た。
「今日、大石さんのライブ聴きに行きます」ということだった。
ウサギを飼っていないかきいてほしかったがよろしく伝えてとだけお願いした。