折しもウクライナ戦争が勃発中にこの本と出合った。作者スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチはウクライナ生まれ国立ベラルーシ大学を卒業している。我々がロシア文学について語る時、例えばドストエフスキー、トルストイ、ゴーゴリ、ソルジェニーツィン・・・国籍はと聞かれると口ごもってしまう。正直に言うと何か関係あるの・・と言う事である。因みにゴーゴリはウクライナ生まれである。日本の北海道の住人にとってウクライナとベラルーシの違いは栃木と群馬の違い程度であった。そういう意味でマイノリティーである。第2次世界大戦では両国民ともソビエト軍として戦っている。この本は女性の作者がソ連軍の兵士として従軍した女性のインタビューを元に書かれている。ここでまず驚くのがその軍務が多岐にわたっている事である。衛生兵や兵站の補給係りなら想像に難くないが狙撃兵、機関銃討手、攻撃砲隊長、戦車隊員となると日本的発想では追い付かない。日本で戦争は男性が行いは女性は銃後の支えが仕事である。ここでこの本のタイトルが重要性を帯びてくる。「戦争は女の顔をしていない」・・・・戦争文学で女性が主役になることはほとんどない。そういう意味で女性もマイノリティーに属する。マイノリティーであるウクライナ人が戦争文学ではマイノリティーである女性の性別を背負ってマイノリティーである女性兵士の事を書いているという構図になっている。そうすると戦争の違った側面があぶり出されるのである。延べ500人以上の女性の回答だけが墓地に並ぶ無数の墓名碑の様に佇んでいる。著者がどう質問したかは書かれていない。ここに掲載されている話に至るまでのイントロが有ったはずである。すべてカットされてテーマから入る。500ページのボリュームであるが一気に読む必要はない。一日2.3人の無名戦士の話を聴くだけで良い。戦争文学の傑作・・・例えば大岡昇平の「野火」等を読むと「もうわかりましたから、勘弁してください」という気持ちになることが有る。この本を読んでもそうゆう感情は湧いてこない。戦争期であっても日常や楽しいことだってあるという事実が散りばめられている。
カテゴリー: ブックレビュー
平野啓一郎著「三島由紀夫論」
ブックレビューのコーナーなのに読んでもいないしまだ買ってもいない。月に二度とジュンク堂を舐めまわすように徘徊している。半日がかりである。勿論購入予定の本が何冊かは有るのであるが新しい本との出会いを求めて歩き回るのである。それは顔見せで客を牽く吉原の赤線地帯を歩くようなものだ。本が私を買って・・・と呟いているのが聞こえてくる時が有る。それが楽しみで本屋に出向くのだ。ネットで買って届けてもらうようなことはしない。その日は上記の「三島由紀夫論」他数冊購入するつもりであった。だが漬物石にもなろうかというそのボリュームに圧倒されてしまった。そして帯に書かれていたそして著者23年にもわたる渾身の力作・・・という推薦文に二の足を踏んでしまう事となる。もう一度三島の主要作品を読み直してから読もうと思った。平野啓一郎は三島の再来と呼ばれた作家である。処女作「日蝕」はこんな文章大学生が書けるの・・・と驚いた記憶が有る。三島の「金閣寺」は暗い吃音を持つ若い修行僧の生活を華麗な文体で表現している。その文体は遺作豊饒の海4部作まで引き継がれている。だが三島は純文学の読者以外の層を意識した中間小説的なものも多く書いている。70年代、10歳年下の大江健三郎が鬱屈した時代に性的なものでしか対抗できない若者の生態を書いて大学生に圧倒的な支持を受けた。その頃には押しも押されもしない文学会の重鎮になっていた三島が嫉妬していたと言う話を聞く。スランプ期にはテレビに出演し演劇や映画に手を染める一方ボディビルで体を鍛え薔薇族というゲイの雑誌の表紙を飾っていた。そして森田必勝という右翼青年と出合う事になる。1970年市ヶ谷自衛隊駐屯地でクーデターを呼びかけ三島と一緒に自決した人物である。この事件は三島事件と呼ばれ昭和の10大事件の一つに数えられている。だが思想的には森田事件と呼ばれるべき事件であった。三島が有名人であったからに過ぎない。「ライトハウスのリー・モーガン」というアルバムが実はベースのラリー・リドレーのリーダー作であったという事実に似ている。戦後三島は一貫して「自分はノンポリである」と言い続けていた。それが森田との出会いによって楯の会に繋がる政治活動として結実していく。森田は三島と初めて会った時「君は私の作品を読んだことが有るかね」と聞かれた。森田は「先生の作品は1冊も読んでおりません」と答えた。三島は下手にフアン的は人物が入会してくるようでは困ると言って森田を褒めたという。だが森田は全作品読破していたのである。1969年三島と東大全共闘の討論の事は以前映画のコーナーで述べたことが有る。その時森田も三島に何かあってはならないと会場に詰めていた。講演で学生に向かって天皇について述べてくれるなら行動を共にしても良いとまで発言している。天皇との近さにおいては三島はエリート意識が有る。何せ学習院を首席で卒業した際天皇から直々銀時計を賜わったことを誇りにしている。11月25日市ヶ谷駐屯地に向かう前「天人五衰」の最終原稿を編集者に渡している。そんな三島の人となりを含め全作品、そして三島の読んだ文献をも読み込み論を展開している。・・・・らしい。何せまだ読んでいない。だがとんでもない労作であることは分かる。平野啓一郎は信頼できる作家である。
話は少し飛ぶ。あるjazz研OBが高校の国語の授業の時村上春樹が三島由紀夫の影響を受けていると教わったと言った。村上春樹はSF.ジエラルド、Tカポーティ、Rチャンドラーの影響下にあり好きな作家はレイモンド・カーバやポール・オースターであることを知っている。僕は以上の事実をもって否定したが妙に引っかかる部分が有った。三島の影響かは分からなかったが日本的な香りがするところが有ったのだ。いつか三島を読み直さなくてはと思っていた。その後「村上春樹隣には三島由紀夫いつもいる」佐藤幹夫著を見つけた。2006年第一版である。その先生はこの本を読んでいたのだろうか。
付記
「みしま」と入力すると最初に「三嶋大輝」と出てきてしまう。それ程三島由紀夫とは遠ざかっていたと言う事である。
「セブンティーン」大江健三郎著
2023年3月3日大江健三郎が亡くなった。高校から大学にかけて僕は熱心な大江の読者であった。だがここ15年くらいは大江の本を開いていない。もう何年前になるだろう。大江の新刊が出た時、手には取ったが結局買わなかった。決別する時が来たように感じていたのだ。亡くなったと聞いた時代表作を一冊読んで追悼文書きたいと思っていたが中々手が伸びなかった。高校の時鮮烈な印象を持った作品を冒涜してしまいそうな思いに駆られるからだ。
まだ小学校に行く前の事である。親の言いつけを勘違いして自宅で一人かなり夜遅くまで留守番をしていたことが有る。電気くらい付けられたはずであったが何故か真っ暗闇の中で帰りを待っていた事を今でも覚えている。だんだん暗くなりこの世界に自分一人しかいなくなりその時間が無限とも思われるほど長かった。これが死の概念と繋がると知るのはだいぶ後の事となる。
次の文章は大江健三郎の「セブンティーン」の一節である。
「死ぬ瞬間の苦しみよりも、死を死に続ける時間の長さが途方もないことが恐ろしい、という感覚。
俺が怖い死はこの短い生の後、何億年も俺がずっと無意識でゼロで耐えなければならない・・・・」
この文章を読んだとき子供の時あの暗闇の中一人で膝を抱えて待っていた時の恐怖感の意味を分かったのだと思う。死と言う得体のしれないものを文章で示してもらった。少しだけ気が楽になった。だがそれを受け入れのにはその後半世紀掛かることになる。
そんなことを教えてもらった小説である。
合掌
戦争の作り方
この国が戦争に近づいているのではと危惧した有志によって製作された絵本である。
このブログを読んでいる方でお子様をお持ちの方は1100円の投資で次世代を救えるかもしれない。
クラウゼビッツは「戦争論」で戦争をできる3条件について述べている。
1. 政府の能力
2. 軍事力
3. 国民の理解と熱狂
この3要素が揃わなければ戦争は出来ないし、やっても必ず負ける。1は全くない。2は去年から慌てて準備している。3も主にテレビを通じて危機感を煽り植え付けようとしている。
戦争前夜の状況を次世代に引き継ぐことも必要かと思うのでおすすめ本とした。
コンプレックス文化論 武田砂鉄著
今日買ってきた本なので読み切ったわけではない。前書きを読んで目次を眺めていた。コンプレックからどのような文化が生まれてきたかを考察した本である。章別に色々なコンプレックスが列挙されている。天然パーマ、下戸、一重、親が金持ち、遅刻、背が低い、ハゲ等々。遅刻の章をぱらぱらめくってみた。ひよっとしたら日本jazz界の大御所Oさんの事が考察されているかと思ったが名前はなかった。この章は後でゆっくり読むとする。やはり気になるのはハゲの章である。僕はハゲに関しては新主流派jazzに関してくらいうるさい。僕の頭髪事情に関して説明しておく。20代の時から若白髪でアンドレ・プレビンのピアノくらい白かった。ぺいぺいの会社員だった頃上司と銀行周りをしていた時の事だ。融資課長が僕に向かって預貸の話をするのである。「あの、課長はこちらです」と言った時の融資課長の驚きの顔を今でも覚えている。会社の戻ってから上司に「お前髪染めてこい」と言われた。白髪は禿げないという言い伝えがある。ガセネタである。30代の半ばで円朝の怪談噺の様にバサバサ抜ける時期があった。いちおう会社員なので今の様にバリカンで五分刈にするわけにもいかず中途半端な髪型にしている時期があった。それでもハゲに悩んだことは全くない。僕みたい感覚を持っているのを「ポジティブハゲ」という事をこの本を読んで知った。こういう事を研究している人がいるのだ。「禿を生きる 外見の男らしさの社会学」須長史生著の中で「ポジティブハゲ」の問題点を3点指摘している。一点だけ紹介しておく。禿げた男性に特定のイメージが付着した男性像(明るい、精神的に強い、外見を気にしない)を要請しているとある。自分の事を言われていると思った。このような「ポジティブハゲ」によって救われるのはごく僅かであり有害ですらある。ええ・・・と思ったが思い当たる節がある。自分はある分野は気を使って話すがある分野は雑になる。相手の立場で考えることの大事さを思い出した。勉強になる。
禿げはありがたがられる抜け道がある。例えば「デブ」「ブス」と公式の場で発言したとしたら一発レッドカードである。ドリフターズのコントで加藤茶がハゲカツラを被って「あんたも好きね」と言ってもセーフなのである。それは坊さんの世界では毛が生えている人より剃髪している人の方が徳が高い気がするからである。この本でも述べている。瀬戸内寂聴が剃髪してるからこそありがたく話を聞くわけでサザエさんみたいにチリチリパーマだとしたらありがたくないでしょう。そうかもしれないと思う。
気持ち良く禿げているストーンズのキース・リチャーズがミック・ジャガーがナイトに叙勲された時のセリフがいかしている。知りたい方は本を読んでください。
付記
本の紹介と言うよりハゲ談義になったしまった。ついでなのでハゲネタを紹介しておく。今バンクーバーにいるマークが言っていた。カナダは髪の量で散髪代が違うらしい。
「俺ならいくら」
「マスターはほとんどタダだな」
臼庭と例によって駄洒落を言っている時の事だ。ミュージシャンにあだ名をつけていた。小樽の素晴らしいサックスプレーヤーOは時々フルートを吹く。「ハーゲーマン」でどうだというところで話は落ち着いた。回りまわって本人に伝わってしまいむっとしていたという話を聞いた。その時僕は「ポジティブハゲ」と言う用語は知らなかった。
点字からはじまるメッセージ 吉田重子著
著者の重子さんは月一回のlazyのセッションにはほとんど出席する。時々ライブにも来てくれる。ホストの本山にピアノを習っている方だ。著作のタイトルから推察できる通り視覚障碍者である。最初に来た日にはスティビー・ワンダーみたいな凄い人が来たらどうしようと思っていたが一緒に楽しんでくれるレベルで安心した。その事を重子さんに言うとちょっと悔しそうではあったが笑ってくれた。来ているお客さんはみな親切な方なので店内の誘導や、帰りも地下鉄駅まで送ってくれたりする。僕も時々迎えに行ったり送ったりする。すると今まであまり気にならなかった点字ブロックや地下鉄の転落防止柵の事が気になるのである。重子さんは僕のブログを読んでくれておりコメントをくれることもある。まずどうやって読んでどうやってコメントを書くのだろう。そして見送った後はどうやって帰宅するのだろう。食事は・・・買い物は・・・旅行は・・点字の楽譜はあるのだろうか・・・とかいろいろな疑問が湧いてくる。だがどこまで聞いていいのやら根掘り葉掘り聞くのも失礼かと思案していると良い本を紹介してくれた。それがこの本である。視覚障害に限らず一枚皮をめくると世の中色々な問題が山積している。勿論音楽界にもある。だがこの本では政治的側面にはふれていない。健常者の理屈で回っている現実を違った視点から見ることは非常に有意義である。そこには想像力が働く。想像力はどの分野にも役立つ。
重子さんは社会意識の高い方である。それはブログ「右往左往日記」を読むとわかる。一度覗いてみていただきたい。
最近は呆れる政治社会問題が多すぎる。重子さんと緩く話し合う場を持てないかと相談している。上記の本読みたい方はレンタルします。
付記
8月末からの一大イベントに暗雲が垂れ込めている。トピック欄をご覧の上ご支援を賜りたい
言語が違えば世界も違って見えるわけ ガイ・ドイッチャー著
前奏曲
英語では「あなた」に相当する言葉は相手が大統領だろうがjazz barのマスターだろうがyou
である。Thyというシェークスピア時代の古語はあるが置いておく。汝は・・・とかそなたは・・・というニュアンスだと思う。ところが日本語は「あなた」「あなた様」「君」「お前」「お前さん」「貴様」「てめえ」「おんどりゃ」「おぬし」など相手との関係性によって使い分けている。
話は変わる。欧米人には「肩こり」がない。という議論がある。以前カナダ人のマークに聞いたことが有る。肩こりは英語でなんという・・・答えは「shoulderache」であった。これは明らかにニュアンスが違う。コリは痛みとは違う。Stiff shoulderという近い単語はある。だがその時のマークは肩こりを知らないと言う事になる。
話は中国に飛ぶ。「中国には従妹はいない」と言うと全員そんなことはないと言うはずだ。だが中国語には従妹という普通名詞はないという。父方、母方、父母より年が上か下か・・・などですべて名称が違う。儒教の影響で親族に関する語彙が豊富だ。
日本は四季がはっきりしている。それで草木の色に関する語彙は豊富だ。例えば赤。赤、朱、臙脂、深紅、茜色、薄紅色、珊瑚色、薔薇色・・・言葉を聞いただけで色合いが思い浮かぶ。
この感覚はシベリアに住むロシア人にはわかってもらえない話だ。
英語では牛はオスとメスで違う名詞になる。それは牧畜文化による。こっちにすれば焼肉にすればどうでも良いのでは・・・と思うがローハイドに出演していたクリント・イーストウッドの前では言いにくいセリフだ
第一楽章
この長いタイトルの本は言語学の学術書である。長いが難解ではなく色々な例が豊富で本当に面白い。チョムスキーの有名な主張から始まる。火星人の科学者から地球を観察したら地球上のすべての人間は単一言語の諸方言を話している。この状況は映画「ET」を思い浮かべると何となく想像できる
第二楽章
海は葡萄色だ・・・と言われたら、おいおいちょっと待てよと言いたくなる。ホメロスの「ホメロス」と「オデッセィア」に出てくる。ホメロスの色彩感覚がおかしいと言う事でグラッドストーンという学者が全著作「色」に焦点をあてて調べた。「青」という表現は1回も出てこなかったという。海中の藻と海の色で葡萄色に見える瞬間がある・・・とかホメロスは色弱だったとかいろいろな仮説を立てた。どれも整合性がないのでギリシャ時代には青色のワインがあったはずだという仮説を立てワインに色々な物質を混ぜ青色にしようとしたが納得できる結果が得られなかった。学問というものはある種の狂気を含んでいる。感覚的にはシンデレラの物語で王子様のお妃になりたくてガラスの靴に無理やり足を入れようとする女性の心理に似ている。因みに一番多く出てくる色は白と黒である。
第三楽章
weという単語がある。私たちと訳される。英語でも日本語でも私が入っていれば全て私たちである。彼女と二人でいたとする。「私たち幸せになろうね」と彼女が言ったとする。僕と彼女の問題で隣の部屋のおばちゃんは関係ない。ところがあなたと私の二人だけの場合ジフト語では「キタ」という。何人か部員のいるJazz研の部室で「私たち明日lazyにライブ聴きに行きましょう」といった「私とあなたとほかの誰か」を意味する場合「タヨ」という。あなたと私以外の誰かの場合の私たちは「カミ」という。その全部を「we」いう一語で間に合わせるのはお前たちの言語は大雑把だと笑われたという。
第三楽章
左右の概念がない言語もある。ソースの左側にある醤油を取ってもらおうとする。
「ソースの北側にある醤油をとって」と言わなければならない。自分の家でなら東西南北は分かるかもしれない。他の家、ほかの街、ほかの国に行ったらまさに右も左もわからなくなるのではと思うかもしれない。それが素人の赤坂というものだ。その民族はどこに行っても東西南北が分かるらしい。こういうのを絶対位置感というのだろうか。
エピローグ
何せ厚い本なので全部はまだ読み終えていないがこの種の固定観念をぶち壊されるエピソード満載である。そして話を膨らませる。「言語が違えば音楽も違って聴こえる」と言う仮説を立ててみよう。この事は日本人のミュージシャンと付き合っている時にも感じていたがフランス人のマキシムのピアノを聴いた時確信した。リエゾンやアンシェルマンした時のフランス語に聴こえるのである。
ピアニストから社長になった僕の雑記帳 荒武裕一朗著
17周年記念ライブの最終日、荒武本人から頂いた。え!本も出しているのか・・・が最初に思ったことである。荒武との付き合いは5年ほどでそんなに長いとは言えない。ピアノは勿論素晴らしいのだがその誠実な人柄に惚れたのである。文章にもその人柄が溢れている。「多くの人と出逢いセッションを重ねてきた著書が感謝を込めて贈る珠玉の言葉」とキャッチコピーにある。こんなことを書かれたら僕ならちょっと照れくさ・テンになるがこの本を読むと素直にそう思う。売れなかった頃の思い出から本田竹廣さんとの出会い、珠也、臼庭との交流・・荒武がどう人と付き合いその関係を大事にしてきたのかが分かる。どうしてOwr Wing Record
を立ち上げるに至ったのか・・・。どの分野でもある話だが販売枚数優先の商業主義に対するアンチテーゼである。札幌出身の山田丈造や本山禎朗のアルバムも制作してくれた。そこにポリシーを感ずる。本の方はブログに書いてあったものがある出版社の方の目に留まって出版の運びになったと言う事だ。僕はその編集者を紹介しろと迫ったがけむに巻かれた。まあ、いい勝利はじぶんで勝ち取るものだ。タイトル今決めた「課長から店主になった僕の雑記帳」販売部数では負けないぞ。いかん、本性が出てきた。人格では荒武には敵わない。
社長は忙しい。だが毎日張りがあると言う。今も事務作業に追われているはずである。これは全くの偶然であるが本山のCDジャケットと同じデザインのCDを僕がYoutubeで見つけてしまったからだ。現在真相を調査中であるがジャケット作り直す考えを漏らしていた。そうなると今のジャケットの物はプレミアムが付くはずである。まだ購入されていない方はトピック欄をご覧の上お申し込みいただきたい。そしてその顛末は将来出版されるであろう「課長から店主になった僕の雑記帳」詳しく掲載されるはずである。
飛ぶ教室
タイトルは本の名前ではない。作家の高橋源一郎が司会のラジオ番組である。その中で毎週一冊本を紹介してくれる。先週紹介された本のタイトルは覚えきれなかった。内容は興味深く覚えているので紹介したい。第二次大戦下、戦地の兵士に本を贈る活動について記した本であった。当時ドイツではナチスの思想に反する書籍は焼き払う焚書運動が活発化しつつあった。宣伝相ゲッペルスの指導による。それに対しアメリカはどのような対策を取ったか・・・・
「我が闘争」や優勢思想を賛美する書籍を排除することもできたがそうはならなかった。敵が焼くならこちらは読まそう・・と言う事になった。一大キャンペーンの元全国から膨大な数の本が集められた。そしてそれらが戦地の若い兵士に届けられた。マーク・トウェインが人気だったという。退却あるいは脱出際、武器雑嚢を廃棄しても良いという命令が出た時も本だけをポケットにねじ込んだ兵士が多かったと聞く。死んでもラッパは放しませんという日本の軍隊では想像だにできない。当時はルーズベルトの民主党政権下であった。共和党から自党に不利になるような本は送らないようにしてほしいと要望が出た。それに対しジャーナリズムが「そんな細かいことに拘っている時か、敵はほかにいる」と論陣を張り政党を押し切った。当時のアメリカマスコミは健全に機能している。今の日本の忖度報道を見るにつけ隔世の感がある。
戦争は連合国軍の勝利で終わった。復員兵は優先的に大学に入学できる制度があり驚くべきことに在籍していた学生より押しなべて成績が良かったと言う。若い兵士はリタ・ヘイワースやジョー・スタッフオードのノスタルジックボイスで故郷に思いをはせてもいたが読書で知的好奇心も失わなかった。当時の政府が戦後の在り方まで熟慮したうえでの政策であった。知識は国を支える共通資本である。そして読書はその入り口になり得る。
タイトルは本の名前ではない。作家の高橋源一郎が司会のラジオ番組である。その中で毎週一冊本を紹介してくれる。先週紹介された本のタイトルは覚えきれなかった。内容は興味深く覚えているので紹介したい。第二次大戦下、戦地の兵士に本を贈る活動について記した本であった。当時ドイツではナチスの思想に反する書籍は焼き払う焚書運動が活発化しつつあった。宣伝相ゲッペルスの指導による。それに対しアメリカはどのような対策を取ったか・・・・
「我が闘争」や優勢思想を賛美する書籍を排除することもできたがそうはならなかった。敵が焼くならこちらは読まそう・・と言う事になった。一大キャンペーンの元全国から膨大な数の本が集められた。そしてそれらが戦地の若い兵士に届けられた。マーク・トウェインが人気だったという。退却あるいは脱出際、武器雑嚢を廃棄しても良いという命令が出た時も本だけをポケットにねじ込んだ兵士が多かったと聞く。死んでもラッパは放しませんという日本の軍隊では想像だにできない。当時はルーズベルトの民主党政権下であった。共和党から自党に不利になるような本は送らないようにしてほしいと要望が出た。それに対しジャーナリズムが「そんな細かいことに拘っている時か、敵はほかにいる」と論陣を張り政党を押し切った。当時のアメリカマスコミは健全に機能している。今の日本の忖度報道を見るにつけ隔世の感がある。
戦争は連合国軍の勝利で終わった。復員兵は優先的に大学に入学できる制度があり驚くべきことに在籍していた学生より押しなべて成績が良かったと言う。若い兵士はリタ・ヘイワースやジョー・スタッフオードのノスタルジックボイスで故郷に思いをはせてもいたが読書で知的好奇心も失わなかった。当時の政府が戦後の在り方まで熟慮したうえでの政策であった。知識は国を支える共通資本である。そして読書はその入り口になり得る。
原節子の真実 石井妙子著
まず原節子が最近まで生きていたと言う事実に驚く。42歳で銀幕を去ってそれから50年、ほとんど人前に出ることなく鎌倉の自宅で隠遁生活を送っていた。一線から身を引いた時期と小津監督が亡くなった時期が近いのでその事を関連付けた噂が流布され僕もそう信じていた。原節子は112本の映画に出演しているらしいが僕が見た原節子はほとんど小津監督の作品の中だけである。演じている役回りは献身的な母親だったり娘であったりする。最近「シネマレビュー」の「秋日和」でも書いたが主題と原節子の役回りが似通っていたりするので混乱することが有る。原節子自身も「同じ役回り」について不満を持っていたことを知った。僕にとっては驚愕の事実だ。強い師弟愛で結ばれていると思っていた。原節子の自薦の映画の中に小津の映画は入ってこない。その事を知っただけでもこの本を読んでよかったと思う。原節子には熊谷久虎という映画監督の義理の兄がいる。作風は黒澤明の様であるが才能は向こうの方が二枚も三枚も上だ。だが原節子はこの監督を評価し身内としても助けようとする。原節子は内面からにじみ出る演技を極めそれにふさわしい代表作を求め続けた女優であったことが分かる。だがこの業界に在りがちなことであるが看板スターになるとそのイメージを崩す役はやらせがらない。原節子は勿論美人であるけれどもそれだけではない聖母的な慈愛に満ちた美しさを秘めている。それを最初に見抜いたのはドイツのアーノルド・ファンク監督だ。昭和12年日独の合作映画「新しき土」でスター女優になる。当時のナチ宣伝相のゲッペルスとの記念写真もある。ファンク監督は言う「私が美人だと思った女優は二人だけだ」一人は原節子、もう一人はレニ・リーフェンシュタールだ。レニは女優から監督に転身しヒットラーの庇護下でベルリンオリンピックの記録映画を撮った人物である。原節子の目指す女優はイングリット・バーグマンである。I・バーグマンは単なる美人女優ではなくロマンスから活劇、コメディまでこなせる。原節子はそういうところに憧れていたのだ。そういえば二人は美しさの質が同じだ。
人は見かけによらないと言う事が良くあるが原節子の場合、見かけ通りだ。清楚なイメージ通り私生活も質素、人の輪の中に積極的に入っていくタイプではなかったが後輩の女優からは一番信頼されていた。あれくらいのスター女優になれば撮影所に会社の車で送り迎えもあったろうにいつも一人で電車で通っていた。以前テレビに日活のスター女優浅丘ルリ子が対談番組に出ていた。いつも撮影所には車で通っていたので国電の切符の買い方が分からなかった話を披露していた。人間の深みの違いを感じた。本田珠也というスタードラマーがいる。札幌に来てもらう時に後で清算するので航空券を自分で手配してほしいと言うと恥ずかしそうに「買い方が分からない」と言った。またドアを蹴破られると困るので「浅丘ルリ子か・・!」とは突っ込まなかった。話がアウトしてしまった。調性をB♭に戻す。
色々なエピソード満載で全部紹介すると原本より厚くなりそうな予感がするので辞めにするが原節子を語ることによって女優の在り方、映画産業の盛衰過程、日本の歴史まで取り込んでいるノンフィクションで実に読みごたえがある。最後に一つだけエピソードを紹介する。
引退してから生涯一度だけマスコミの取材を受けたことが有る。昭和20年米軍少佐が中国で一枚の日の丸を拾った。そこには家族、知人の寄せ書きがあり、持ち主は「正久君」と言う事だけしか分からない。ただそこには原節子のサインがあった。少佐はその日の丸を持ち主の家族に返すべく調査を報知新聞依頼した。新聞社は原節子に知人に正久と言う人物がいないか尋ねた。原節子の答えはそういうサインは何百枚としているので記憶がないと言う事であった。なぜ取材に応じたのか・・・。自分のブロマイドをポケットに入れ戦地に赴きそこで命を落としたかもしれない兵士たちへの最低の礼儀を通したのだと思う。