反省の弁

反省の弁
一月も終わろうとしているのにこんなせりふも恥ずかしいのだが「あけましておめでとうございます」おお、恥ずかし。今年は年賀状も出さず、HP上の年始の挨拶もできずに終わってしまった。年末にかけて原因不明の水漏れ事故に悩まされレコードを避難させたり、溢れる水をかき出す日々でありました。カウンターにバケツを置いてライブをこなしたこともあった。解決したのが大晦日のことであり何とか正月は寂しいながらも雑煮を食べ、水難事故以外の初夢を見ることができた。そんなことにかまけているうち通信関係のトラブルでまたHPが更新できなくなり一部のお客さんからはとうとうlazyも終わったらしいという噂も流れた。ご安心ください。こちとらjazz界のゾンビなので死ぬことはありません。舞い戻ってくるぜ。ゾンビがくるりと輪を描いた。
閑話休題
トンビで思い出したのだが村上春樹の「ダンス、ダンス、ダンス、」でイルカホテルの窓から外を眺めていると鳶が飛んでいる描写があった。英語版ではただbird、フランス版では鳶を意味するmilanになっていた。ということはアメリカでは鳶は一般的な鳥ではなくフランスでは一般的だということになる。それとmilanはイタリアのミラノのスペルでもある。鳶と関係あるのだろうかという疑問もわくがこういうことを調べると時間がどんどんなくなる。知っている人がいたら教えてください。
本題に戻る。
昨年も親しいミュージシャンが何人かなくなり、その代償ではないがめったに合えない友人と常連の人も交えて再会を果たせた。長くやっていることへのご褒美なのだと思う。
今年もやりたい音楽をやれる環境を整えそれを聴きたい人に、あるいはまだ聴いたことのない人に届ける触媒為らんと努力したいと思っている。多少体力も落ちて、髪も白くなってきたがまだまだ誰かのため何かをする気概だけは残っている。ご指導、ご鞭撻、ご贈収賄よろしくお願いいたします。

HP消失

HP消失
サイバー攻撃に会いHPが炎上したことにしておけば多少体裁を保てるのかもしれないが、全くの凡ミス、野球で言えばアウトカウントを間違って易々1点取られてしまう国鉄時代のスワローズの様な体たらくであった。サーバー会社から期限切れの連絡が来ていたような気もするが、酔いながら迷惑メールを削除していたときに消してしまったのかもしれない。電話、電気、ガスが止まったときのように支払えばすぐ復活するものと思っていた。これが全くのゼロからのスタートになろうとは思わなかった。やっと新社屋を建てたものの来訪者がいない。ライブ情報が行き渡らない。今まで書き溜めた文章の一部も無くなってしまった。旧作をフオルダーの中で探しながら復活させている。これがまた私生活と一緒で何でもダンボールにつめて押入れにいれておく方式なのでどこに入っているのかよくわからない。ライブレポート、ブログ、ショートストーリーは一部復活しましたのでご覧下さい。
これを期に今までできなかったことも取り入れようと思っている。
アクセスの方よろしく御願いします。

追悼

ギターリストの津村和彦が亡くなった。七月に米木、本田珠也との日本最高のギタートリオで来てもらう予定だった。
深いけれども重くなく、爽快であるけれども軽くないギターだった。
初めて津村を生で聴いたのは25年ほど前になるが故古沢良治朗バンドであった。ギターが三人いる編成であとの二人はギンギンに弾いていたが津村はバッキングに徹していた。そのカッテイングのすばらしさに眩暈がした。
すぐ米木に電話した。
「すばらしいギターリスト聴いたよ」
「俺ときどき、DUOでやっているよ」
すぐ二人で来てもらった。それが付き合いの始まりであった。
45年ほどjazzを聴き続けているが飽きたときが二度ほどある。それを救ってくれたのが一度目がジョージ・アダムスのライブで、二度目が津村だった。具体的に言えば津村の弾くベラ・クルーズであった。
津村の歌に感動し、音楽に感動できる自分を再発見した。
lazyで数々の楽しいライブ聴いてきたがやはり印象に残っているのが2010年8月9日の伝説のライブだ。
臼庭潤、津村和彦、田中朋子,米木康志、セシル・モンロー
もう三人もこの世にいない事実に愕然とする。昨日7月の津村トリオのプレゼンターになるはずであった牛さんとこの録音を聴き続けた。二人ともいい年をして半べそであった。
津村、ありがとう、愛してるよ。
臼庭とセシルによろしく言ってくれ
僕の世界で一番好きなギターリストは永久欠番になるかもしれない。

嘘みたいな本当の話

「嘘みたいな」本当に起こった話を高橋源一郎と内田樹が選者となって応募総数1500通の中から選りすぐった話をまとめた本がある。これはポール・オースターのnational story projectの日本版の企画だ。ポール・オースターの方にも面白い話は載っているが長い話が多いので「嘘みたいな本当の話」ほうから何話か紹介したい。
出戻りベッド
自分の知り合いは、彼女と別れる時にベッドを彼女にあげたそうです。それから一年後新しい彼女できて、その新しい彼女の部屋に行ったら、前の彼女にあげたはずのベッドがあった。「どうしたの、このベッド」ときいたら、「寿退社した先輩にもらった」。
当人は「彼女は変わったが、ベッドだけは変わらなかった・・・・・」と言っていました
解説
これが本当の回転ベッド

モガといわれた女
近所においしい洋食屋ができたと言い出したので「店の名は」と聞くと「オペン」と答えた。場所が近くなので言ってみると店の名は全く違っていた。ばあさんは「open]の札を店の看板だと思っていた。
解説
groovy時代「グルーピー」様という領収書がたくさんあった。

男は辛抱、女は美貌
二十年ほど前に銭湯にいたばあさんは客の刺青者が短い小指で鼻をほじっているとすっぽりこゆびが入って見えるからか「汚いね!そんな奥まで小指突っ込むんじゃないよ」と叱り刺青者が仲間の分まで買ってやろうと「コーヒー牛乳これだけちょうだい」と言って片手(パー)を出したら、コーヒー牛乳4本とヤクルト1本出しました。
解説
似たジャンルで思い出した話がある。
僕が大学生のときだ。夏休みの時、銭函の北晴合板という工場で深夜のバイトをしたことがある。大型の乾燥機のベルトに木を乗せていく単純作業だ。だが注意を怠るとローラーに手をはさまれる危険もある仕事だ。
主任と呼ばれる人がいた。作業の注意点など説明してくれた。最後に「学生さん注意しないとこうなるよ」と言って左手を見せてくれた。小指と薬指の半分が無かった。
僕がびびったの見て笑いながら「冗談だよ。俺はこうなってから、ここにお世話になっている」
その主任とは休憩時間に時々話をするようになった。
「学生さん、すすきので揉め事に巻き込まれたら『北海の龍』という名を出してみな」と言われた。
幸いその名を出すことも無くここまでやってこれた。

暗証番号
友人が銀行の窓口業務をしていた頃の話。
ある老人がキャシュカードを作りにやってきた。書類をおおかた書いて最後に暗証番号を書く段になって老人は尋ねた。
「これは暗号のようなものですか」
友人は一寸違和感を覚えたが答えた
「ええ、お客様だけがわかる暗号のようなものです。この四つの枠内に書いてください」
老人はしばらく考えた末に言った。
「生まれた年でもよろしいですか」
「ええ、結構です」
枠内に力強く「イノシシ」と書かれていた
暗証番号は訂正が聞かないのではじめからもう一度書き直しになった。

これも最近僕が経験したことなのだが、深夜西28丁目まで行く用事があって北大通りで流しのタクシーを拾った。
帰り二時間ほどしてからまた流しのタクシーを捕まえた。
「北24条でいいですか」と聞かれた。先ほどの運転手さんだった。
僕はこの経験はもう一度だけある。
中学生のとき夜中に高熱を出して18丁目にある救急病院にタクシーで行ったことがある。母親が捕まえてきたタクシーだ。点滴などの処置をしてもらって少しだけ楽になった。帰りも勿論タクシーだ。たまたま手を上げたタクシーは同じ運転手さんだった。この話を母親にしたら50年前のことなのに覚えていた。まだ呆けていないので安心した。

おいしい、ウサギ

ペットのウサギが死んだとそのブログに書いてあった。可愛がっていたペットが死ぬと悲しい。正直あまり近しくない人が亡くなるより悲しい。僕も鳥を飼っていたのでよくわかる。でもそれを差し引いても一寸可笑しかった。そのギターリストのブログを読むのは初めてであった。スケジュールをチェックするのに初めてHPに入った。トップページが南の島の水上コテージだ。全くイメージに合わないのですが・・・・・・・。僕はそのギターリストS木と二度石垣島に行ったことがある。その写真は石垣島ではないが亜熱帯地方のどこかの島だ。ということはあの旅行は僕が思ってたよりもSも楽しんでいたのかもしれない。そしてはじめて読むブログが「ウサギは死んだ」であったのだ。それは「ママが死んだ。太陽のせいだ」ではじまるカミュの異邦人並みに不条理であった。
S木とは長い付き合いだがペットを買っているという話など一度も訊いた事がない。それもウサギですよ。うさぎ・・・。おまけに水上コテージのあとですよ。僕でなくともS木を知っている人間はクスッとなるでしょう。ペットを飼っている人間はある程度の付き合いになればペットの話を一度や二度必ずするものだ。もし僕がウサギを飼っていたら絶対黙ってはおけない。まして女性のお客さんが来ようものなら「俺ウサギ飼っているんだよ。名前・・・ももちゃん。ももちゃんて呼ぶと、折れていた耳をぴんとたてて話し聴いてくれるんだ。かわいいよ」なんて話すに決まっている。「マスターって動物にもやさしいんだー・・・」ということになり好感度が上がるのが目に見えている。
それなのにS木は江戸時代の隠れキリシタンのように隠し通した。本人もちょっと恥ずかしかったのかもしれない。犬、猫おまけしてインコなら言ったのかも知れない。たとえば「トランペッターーは誰好き」と言う話題だったとする。
まず、マイルス、ガレスピー、皆うなずく。C・ブラウンも。そうそう、ハバードも忘れたらだめだよね。と言う流れになる。そこで誰かがクラーク・テリーをあげたら空気は微妙になる。ペット界におけるウサギの存在はクラークテリーに似てると言ったらウサギファンは怒るのだろうか。
このペット話をしているときにピアノのM山もいた。小さい頃「いもり」を飼っていたと言う。これは隠していてもいい。先のトランペッター話でいうとダスコ・ゴイコビッチが好きと言うレベルだからだ。あまり本人になつかなかったらしい。イモリのことは詳しくないが手乗りイモリとかお手をするイモリは訊いたことがないから本人の責任ではないと思う。
その時僕はウサギを飼っている東京の一流ミュージシャンを思い出した。
大石学だ。みんな「へえー」と感心した。
「ウサギ、大石、かの山ー・・・・・」と歌ったらS木が睨んだ。
偶然は続くものでこんな話をしていたら翌日幼稚園東京支部のS名からメールが来た。
「今日、大石さんのライブ聴きに行きます」ということだった。
ウサギを飼っていないかきいてほしかったがよろしく伝えてとだけお願いした。

カレーライスの偶然

朝起きると無性にカレーが食べたくなった。たぶん今年に入って一度も食べていない。芋と人参はあるがカレー用の肉はない。スーパーに行けばいいのだがそれほどまめではない。今食べたいのはカレールーであって肉ではないと言い聞かせ芋の皮をむき始めた。料理をしているときにラジオは欠かせない。「あまちゃん」の作曲で有名になった大友良英の番組に「カレーライスの歌」でデビューした遠藤賢二が偶然でていた。45周年らしい。僕もこの頃フォークソングをやっていたがこの頃デビューした吉田拓郎、高田渉、加川良そして、遠藤賢二も好きではなかった。だから「カレーライスの歌」を歌ったことはない。もともと本家本元のボブ・ディランが当時は好きでなかったのでその影響を強く受けている人は苦手であった。まだ自分の言葉で歌いたい何かはなかったのでアメリカのフオークを真似ているだけで十分だった。遠藤賢二は「昔のロックグループなんかさ英語がいいか日本語がいいかなんかって不毛な議論してさ。日本語のほうが言いに決まっているジャン。英語の発音気にして歌って何が伝わるの」という。半分はあっていると思う。この日の選曲は四人囃子やヒカシューなど、遠藤本人の曲はかからなかったが今は下手なjazzより好きな自信がある。
カレーも少量作ればいいのだが面倒なのでどうしても何皿分かを作ってしまう。何日かかけてやっと平らげて母の日、一応カネーションなぞ持って実家に行ったらプーンとスパイスの香りがしてくる。カレーだ。
「しばらく作っていなかったから」
僕は朝も食べたがおいしいねと言ってお代わりをした。
「そうかい、いっぱい作ったから帰り持っていきな」と言われた。
もう手が黄土色です。

3days

ゴールデンウイーク恒例となりつつあるT造の3daysのライブが終わった。今年でもう三年目になる。初日は本人の弁ではもう少しで脂が乗る中堅の先輩たちとスターンダード中心に疾風のごとく、二日目は頭の悪いマブダチと8ビートとフアンク系をのりのりに、最終日は札幌の大御所とオリジナルも交えてシリアスにといったところだろうか。初日のMCの「もう少しで脂が乗る」発言には笑ったが最終日の大御所連には『脂が出きった」とは未だ言えないらしい。今年のコンセプトはワンホーンで吹ききると言うことであったが、どのセットでもそれが出ていて気持ちがよかった。三日間トランペットでリーダーでバンドを引っ張ると言うのはさぞかし疲れるのだろうと思うが、
体力的は意味合いだけではなくて気も使うという。せっかくやるからにはお客さんもたくさん来てほしいと言うことで集客にも気を使ってくれていた。演奏する側と場を提供する側が共生していることが再確認できてうれしかった。数年前は楽器はそれなりにうまいがチャライ若者と言った感が否めなかったが、I哲といい、T造といい
大御所に教えてもらうべきことはまだまだあるが確実に成長していてそれを時系列的に見続けていられるのは幸せなことだ。最終日は例によって居酒屋で軽く打ちあがる。
店があって僕がまだ生きていたら来年もやることを確認して3daysの棺桶の蓋を閉めた。
なんまいだ、なんまいだ。
『お愛想お願いします、いくらですか」
『・・・千295円です」
『千円札でなんまいだ」

旦那芸

内田樹の文章に『旦那芸について』と言うのが在った。内田樹はもともと仏文学者で、もと大学教授でもあり自分で合気道の道場も運営している文武両道の方だ。趣味で能を習っている。その能の立場を旦那芸といっている。
自分がそもそもどういう技能を習っていて自分はこの芸能の「地図」のどのあたりに位置しているか、構えて言えば芸能史に於ける己の歴史的役割はなにかと言うことがわかってきたあたりという。こういう自己認知のしかたを「マッピング」と呼び自分自身を含む風景を上空から見下ろしてみるという事である。そうやってみてわかったことがある。それは自分がしているのは「旦那芸」だということらしい。
一人のまともな玄人を育てるためにはその数十倍の『半玄人」が必要でそれは必ずしも弱肉強食ということではない。「自分はその専門家にはなれなかったが、その知識や技芸がどれほど習得に困難でありどれほどの価値があるものかを身をもって知っている人々」が集団的に存在していることが一人の専門家を生かしその専門知を深め、広め、次世代につなげるために不可欠だと言うことだ。
これは僕が普段jazz業界に感じていることと一致する。
『旦那」は『裾野』として芸に関与する人のことである。年に数回」演奏するときの僕はまさに『旦那芸」である。
僕はjazz聴いてる歴は45年、jazzの店もやっている。風貌もラリー・カールトンやマイケル・ブレッカーに似ていないこともない。そうするとさぞかし楽器もうまいのだろうと思われがちだ。ほんとうに困ったことだ。
誰しも10周年にlazyで演奏してもらった演奏家のレベルにはなれない。全員が玄人である必要はない。すばらしい芸を見たときには感服する余裕は持ちたい。
締めの言葉はそのまま引用させてもらう。
私たちの社会は「身の程を知る」という徳目が評価されなくなって久しい。「身のほどを知る」というのは自分が帰属する集団の中で自分が果たす役割を自得するすることである。「身の程を知る人間」は己の存在の意味や重要性を、個人としての達成によってではなく自分が属する集団が成し遂げたことを通じて考慮する。
それができるのが「大人」である。
私たちは「大人」になる仕方を「旦那芸」を研鑽することによって学ぶことができる。
僕もそう思う。
性別に関係なくそういう「半玄人」を店で増やしたいと思って早10年。まだ道遠し。

communication breakdown

思わずツェペリンの曲を思い出してしまった。
その日はライブで定時を10分ほど過ぎた時にはお客さんはいなかった。僕は演奏を始めてもらうようにお願いした。その時「お客はいないが、俺のために演奏してくれ」と冗談交じりで言った。あらかじめ言っておくが会話はすべて英語でされている。演奏は始まったが明らかにリハーサルモードだ。
演奏が終わったとき『僕はライブが聴きたかったのであって、リハは聴きたくないと言った」ここから会話の雲行きが怪しくなった。まず僕の思い込みがある。演奏家と言うのは三度も飯より演奏が好きな人種でライブバーに来て真剣に音を出さないで帰ったらさぞ辛かろうと考えてしまう。
『自分は店の人間ではあるが、リスナーの一人である、真剣に聴いているつもりだ。演奏がぬるいのではないか」
『お前は自分の家にいるのか、お前は客ではない。私はお客がいないところで吹いたことはない。私は昼も働いて疲れている。何でお前のために演奏しなくてはならないのか。お前は利己的だ」話がここまで行くと誤解を解くのは難しい。ましてや遠慮のない英語だ。こちらは防戦一方になった。
僕はその人間のことを悪く言っているわけでも、自分の意見に同意してほしいわけでもない。
意思疎通は難しい。暗澹たる気持ちになってしまった。

一般的な人

橋本治の小説「渦巻き」に次のようなくだりがある。らしい。僕が今読んでいるのは高橋源一郎の『「あの戦争」から「この戦争」』と言う評論でそこからの孫引きで失礼!
<昌子は特徴のない女だった。結婚してからは専業主婦で、結婚前はOLだった。結婚を夢見るOLではなく。仕事に生きがいを見出すOLでもなく結婚と仕事の両立を目指すOLでもなかった。短大を出て就職しいずれ結婚も寿退社をするものと思っていた。未来を疑うでもなく、信じるでもなく、「未来」と言う言葉自体が「社会」にかかるもので、自分とは関係ないもの思っていた。信じるも信じないもなく、明日と言うものは順当にやってくる。 中略・・・・・・・・ しばらく待てば手に入るかどうかは別として、望む物は向こうからやってきた。そんな時代だった。昌子が特徴がない女だとしても、それで咎められるようなことはなかった。>
これを読んだ時、高校時代のある同級生Xを思い出してしまった。時代背景もたぶん僕らが高校生だった頃の様な気がする。Xは掛け値なくいい人間だ。僕が保障する。ただ若い頃は話していてもつまらなかった。NHK的な発言しかしなかったからだ。一般的な人は「考えない」のだ。僕が言っているのではなく、橋本治がそう言っている。けっして「一般的な人」を馬鹿にしているわけではなく、そもそも人間は考えるものなのだろうかと問いかけている。特に小説や映画の中では深遠なことを考えている場面にでくわす。僕も考えている振りをすることがある。だから考えていない人はすぐわかる。同じ匂いがするからだ。僕の今の職業はある程度まで考えても日常生活に齟齬をきたさない。jazzの将来についていくら考えても半分仕事だから問題ない。僕が北洋銀行の審査部課長だったらかなり難しい作業だ。適当にしないとあちら側の世界に行ってしまうからだ。
それで僕も適当に慣れて店でもあまり怒らなくなった。
Xは大学生の娘に「お母さん青春あったの」と訊かれたらしい。娘から見ても特徴のない女性に見えるらしい。
「そうよね・・・・」と口ごもってしまったと言う。
「何でちゃんと在ったって言わなかったんだい。xxxxとxxxしたことだって、いちどだけxxxもしたじゃない。子供三人成人させて孫ができて還暦にしては若々しいよ。普通で何が悪いのといってやれよ」
Xは自分に言い聞かせるように「あった、あった」といいながらにこにこしながら店を後にした。

僕も時々はいい仕事をする。
よいしょっと!