Jazz紳士交遊録vol24 本田珠也

珠也と初めて会ったのは15歳か16歳の時・・Native Sonのライブの打ち上げの席であった。先輩ミュージシャンに対する口の利き方など流石にびっくりした記憶がある。米木に聞いた「あの態度は拙いんじゃないの」米木曰く「いいんだよ。まだガキなんだから・・・」巨匠米木はこの頃から懐が深かった。二度目にあったのが故辛島文雄さんのライブ後。20歳そこそこの頃だった。この時には先輩ミュージシャンを「さん付け」で呼ぶ礼儀は身に着けていた。後から聞いた話だが礼儀指導は故臼庭潤が指導教官だったらしい。この翌日オフなので市内の中古レコード屋を案内してほしいと言われた。希望通り主要な店は全店回った。リズム社という最古参の店に行った時の事だ。本田竹曠さんのアルバム「this is Honda」があった。このLPの定価1500円である。消費税なしである。抜きではない・・・消費税が導入される前の値段である。このLPに5000円の値がついていた。国内版の価格としては高い。珠也が店主に聞いた「なんでこんなに高いんだ」店主曰く「トリオ盤はこの先一生、再発されることがないはずだからだ」珠也は「俺、息子なんだけど」と言った。店主はほう・・・という表情を浮かべ「じゃー500円引いてあげるわ」と言った。いい話のような気もするし、せこい話のような気もする。夜酒を飲みながら僕は珠也に聞いた「なんでレコードに拘って集めるの」
「引退したらJazz喫茶やりたいんだよ」という答えであった。おいおい何言っているんだ・・・これから何十年も日本のJazzシーンを引っ張って行ってもらわなければならない存在なのだからそんなことは好事家の爺に任せておけばいいと意見した。珠也によく来てもらうようになったのはギターの津村と知り合ってからの事だ。津村、米木、珠也。最高のギタートリオだった。僕は津村トリオとして来てもらっていたが珠也が最初に結成した自分のグループも同じメンバーであったと知るのはだいぶ先の事となる。この時珠也に自分のドラムセットでないと叩けないと言われて絶句ZEKした。仕方ないのでドラムセットを空輸した。
Lazyは弱小店ではあるが東京の一部のミュージシャン筋では有名店である。それは珠也の恩恵によるところである。店に来たことが有る人は知っている事だが入口のドァーのガラスの部分にひびが入っている。珠也が蹴破った痕跡だ。その頃のlazyは最高の演奏をすると反語的表現で「帰れ、帰れ」と言われる風習になっていた。珠也もその洗礼を受けた。只真面目な珠也は真に受け本当にドアを蹴破り帰ってしまった。心配は御無用である。ちゃんと和解している。徴用工問題で揺れる日韓関係よりもすっきりしている。翌日臼庭潤から連絡が入った。面白いネタを掴んだという口ぶりであった。半分笑っている「ダメだよ。ハハハ。日本で一番冗談通じない奴だよ。帰れ帰れと言ったんだ。ハハハ」多分臼庭経由でこの話が面白おかしく東京で広まったのだと思う。初めてLazyに来たミュージシャンにも「これが珠也さんが蹴破ったところですか」と言われる。人によっては写メを取る人間もいる。一大観光スポットだ。というわけで珠也に帰れコールをした店主としてミュージシャンから舐められないで済んでいる。
見かけは近寄り難いが本当にやさしい奴である。臼庭の追悼ライブも珠也に仕切ってもらった。臼庭が亡くなってからの事だが臼庭が自分のグループを結成するとき珠也に白羽の矢をたてた。その時は進む方向が違っていたので珠也は断ったがこんなことになるのなら受けてやれば良かったというセリフを聴いた時にはほろりとした。今年は3年ぶりになる。連絡を取った時最近呼ばれないから嫌われたと思ったよ・・・というセリフを聞いた。多少冗談も通じるようになってきた。
珠也の演奏には一瞬の隙もない。生半可な気持ちで共演しようものなら一刀両断にされる。
そんな一週間になれば良いと考えている。17周年乞うご期待。