私の考えそこねたジャズ

2015.5.29 
加藤崇之(g) 佐々木信彦(g) 
 鬼才加藤と好調佐々木の2年ぶりのコラボだ。我々人間の世界には理屈では説明できぬ相性の良し悪しというものがある。初めて二人のDUOを聴いた時に佐々木にとってこの実力者は相性がいいと感じた。加藤の弁を借りれば“縁とは無理に動かなくても出会うものは出会う”と言うことだ。この二人、音のマイルド感を鉛筆に例えると加藤がB、佐々木がHなので、これが両者の掛けあいに濃淡のニュアンスを加える趣となっていた。
演奏曲は「サウダージ」「インナ・センチメンタル・ムード」「ボディー&ソウル」「星影のステラ」「ダーン・ザット・ドリーム」などのスタンダードとオリジナル曲の組み合わせとなっていた。後者は加藤の原体験が旋律へと駆り立てたもので、興味深く聴かせていただいた。「泣いて笑って」は失った女性との偶然の再会とひと時の会話、それが忘れ難たき人生の一瞬になってしまったこと。「歩こうよ」は活気を失いゆく商店街への応援歌、これはシリアス過ぎて筆者には商店街を直視した現実に聴こえるものだった。名曲「皇帝」は、プライドを捨てているように見せてプライドをまとう人々の大真面目と滑稽を大らかに歌い上げる裸の王様の物語だ。演奏が終わってから、この物語は加藤の音楽観と密接な関係があるように思った。例えば、その力量ゆえに的を外すことはないがそれ自体が歯車の狂いはじめになり得ること、演奏への情念がいつの間にかステイタスを得るための野心に変質してしまうこと、これらは割れない瀬戸物のように頑丈だが不自然な裸の王様に過ぎないのではないのか。加藤は人々が翻弄されるあり方に見切りをつけ、演奏において真実のみを採り出すことに賭けているのだ。筆者は考えることを目的にジャズを聴いている訳ではないが、加藤のように天才度が高い演奏家について突き詰めて考えると“嘘みたいな本当の怖い話”になりそうなので、思考のアップデイトは中止とする。ただ、聴いていて確認できたことは、加藤のフィルタを通すと、難しいこともこの日のライブのように心温まる音楽会として十分楽しめるものになるということだ。
ところで、いつも大真面目の側にいるギタリスト佐々木に普段とは違う雰囲気が漂っていた。人生の弦を張り替えたようなこの感じ、何かいいことアローン・トゥギャザー?
(M・Flanagan)