泡盛

僕はうとうとし読んでいた本を落としその音で我に帰った。プールの向こうには水平線まで完璧な水色の海が広がり静かに波を運んできていた。北国生まれなのでこの海の色をなんと呼んで良いかわからなかった。完璧な水色。そうとしか言いようがなかった。プールサイドには甲羅干しをしている客が何人かいるだけであった。先ほどから水面をたたく規則正しいビートが聞こえていた。美しいクロールのフォームであった。その女性は泳ぐのをやめゴーグルをとった。知った顔であった。昨日オプションのマングローブツアーでバスの席が隣り合わせだった女性だった。彼女はいったんプールサイドに腰かけ呼吸を整えているかのようだった。それからプールから上がりこちらにケンケンでやってくる。花柄のワンピースで肌は程よく焼けていた。そして左足の膝から下がなかった。
僕は本に目を戻した。ビーチベッドは僕の隣であった。
「あのーちょっとお話しても良いですか」と彼女が話しかけてきた。
「ええ構いませんが」
「読んでいらっしゃる本はカーソン・マッカラーズの『心は悲しき狩人』ではありませんか」
「ええそうですが」
彼女はごそごそとビーチバックの中を探し一冊の本を取り出した。ペンギンブックの『the heart is a lonely hunter』であった。これが村上春樹の「1984」であったりしたらさほど珍しいことではなかったかもしれない。彼女は下半身に大判のバスタオルをかけた。「周りの人に気を使わせるので・・・・」と独り言のように言った。
「ずいぶん年季の入った洋書ですね」
「そうなんです。学生時代の教科書ですから」
この小説の中身をごくごく簡単に言うと口がきけない主人公のところに色々な人が悩みを話しにやってくる。口がきけないのでずっと話を聞き続けてくれる。だが誰も主人公の話を聞いてくれない。なぜなら彼は口がきけないからだ。彼の名前は象徴的だ。口がきけないのにSinger。要はリゾートホテルのプールサイドで読むような小説ではないと言うことだ。そしてこの小説を何度も読む人がいるとしたら「聞く」事の大事さを知っているような気がした。
僕は運命論者ではないが縁は大事にする。「よかったら。食事前に軽くバーで飲みませんか。」とさそった。

「そうですね、着替えてきますので30分後に・・・」手際よく義足をつけバスローブをはおり宿泊棟に歩いていった。プールサイドにこつこつと言う音が響いた。
シャワーを浴びドット柄のアロハにベージュの棉パン、素足にスリッポンを履いた。
彼女は時間どうりにやってきた。白のvネックのサマーセーターに黒のジョーゼットのパンツを穿いている。言われなければ片足半分ない事などわからないほど動作が優雅であった。
「何、飲みますか」と聞いた
「せっかくの石垣島ですから土地の泡盛を飲みましょう」と彼女は答えた。
たっぷりのレモンを絞って炭酸で割ってもらった。バーの窓はすべて空け放たれており海からの風がかすかに潮の香りを運んできていた。
僕は完璧なクロールができて、左足の半分がなくてプールサイドで『the heart is a lonely hunter』を原書で読む女性がどういう話題を話してくれるのか楽しみであった。
「暑い所では、塩なめながらきついお酒飲みますよね。テキーラみたいに・・・・・泡盛もそういう飲み方するようですね。地元の方は・・・でもこの時間帯は潮の香りを嗅ぎながら割って飲むのが良いかもしれませんね」と彼女が口を開いた。
「チャーチルのドライマティーニの飲み方の話で似たような話ありましたよね」
「ベルモットのにおいを嗅ぎながらジンをストレートで飲むのが究極のドライマティーニだと言う話ですか。それってうなぎ屋の排煙筒の下でご飯を食べるのと似ていますよね」彼女は自分で言って笑った。僕も笑った。出だしは悪くはない。彼女の声には何か人を落ち着かせるものがあった。
「綺麗なクロールのフオームでしたね」
「私中学生まで水泳習っていましたから。泳ぐとまだ左足のキックの感覚を思い出します」
「辛い話をさせてはいませんか」
「私が辛くなるときは私が存在していないかのように振舞われるときです。私がプールから出るときあなたは目をそらして本を読む振りをしました。読んでいる本があの本でなければ私は声をかけないで立ち去ったと思います。
私の水着姿いけてると思うのになあ・・・・・」
「正直、いけてると思いましたよ。でもあなたはなぜそんなに前向きで生きられるのですか」
「16歳で足をなくすと言うのは辛いことです。でも今の私はそのときの自分に会いに行って話しができるのです。そりゃ辛いよね・・・・わかるよ。あなたが私なのだから。17年後完璧なクロールで泳げる自分がいるし、たまたま同じ本を読んでいる人が隣にいてお酒の誘ってくれてSingerさんのように辛抱強く私の話を聞いてくれる。それって素敵じゃないって励ますの。それが一度できると何かあるたび未来の私が出てきて何年後もそんなに悪くないと教えてくれるの」
「いい話ですね」
「もし私に彼氏ができるとしますよね。私はお姫様抱っこしてとせがむの。私重いと聞くの。そんなことないよと言うでしょうね」
「たぶん」
「脚があったらもっと重いわよと言うの。微笑んで頷いてくれたらその人と一緒にやっていける気がするのです」
「その人なら大丈夫かもしれませんね」
プールを見ると娘を乗せたイルカの浮き輪を引っ張る10年前の自分がいた。