2016.7.22-23 クレイジー・バード/愛と平和と音楽の2日間

LUNA with 一哲Loud three LUNA(vo)竹村一哲(ds)碓井佑治(g)秋田祐二(b)
 これはどう考えても憲法違反な企画である。自らをjazzに縛ることを信条としてきたLBマスターだが、若き日に浴びたロックのDNAが暴発、戒律をその手に掛けてしまったのだ。この深刻な成り行きが本当の話になってしまったのは、共犯の申し入れをLUNAが快諾したことによる。ここには音楽と熱狂の関係を問い直すための明確な意図があるのだろう。
いよいよロック・シンガーLUNAの誕生だ。のっけからツェッペリンの「ホール・ロッタ・ラブ」、「ロイヤル・オルレアン」、「シンス・アイブ・ビーン・ラビン・ユー」、ジミヘンの「ファイアー」、「リトル・ウィング」、ストーンズの「ペイント・イット・ブラック」。これらのリアルタイム世代としては恥も外聞もあったものではない。ハートに火をつけられ、“イェー”の声が裏返ってもお構いなし。この日だけは行儀の良さにHellow-good-by。次のエアロスミス「ママ・キン」やレッド・ホット・チリ・ペッパーズのFワード連発「サック・マイ・キス」そして人気曲「バイ・ザ・ウェイ」は、筆者より少しあとの青春の人々のものである。若き日に誰を好んで聴いていたかによってその人にとってのロックはほぼ決定されるように思う。しかし、年齢と時代の出会いは本人には選択できない偶然にすぎず、ビートルズ世代であろうとその後のどの世代であろうとロックと個人の関係に優劣は全くない。ロック的な感受性が繋がっていれば世代という垣根は取り払われてしまう。場内の性別・年齢を問わない一体的興奮がそのよい証拠となっていた。LUNAの言を借りれば、そこにいた一群の女性達を“ロック喜び組”と言うのだそうである。そして再び我が世代がやって来た。3、40年ぶりに聴いたのに咄嗟に思い出すジャニス・ジョップリン「メルセデス・ベンツ」、「ムーブ・オーバー」、更にはツェペリンの古典「ステア・ウェイ・トゥ・ヘブン」、トドメはディランのやるせない「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」。あぁ、過去と現在が日本語の時制のように節操なく行き来する。ロックのボーカルは単に主要パートと言うより武器に近い。メッセージの発信という役割を担ったLUNAの闘争心に歓喜のうるうるは仕方あるまい。
 躊躇なく2日目も聴く。「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」、「アイ・シャル・ビー・リリーストゥ」、先ごろ伝説になったプリンスへの追悼「パープル・レイン」など前日にない曲に再び泣きが入ってしまった。Loud3はと云うと、碓井がオリジナル・フレーズ多用する我らが望み通りの展開に持ち込み、応戦する一哲渾身のドラムスには久々に鼓膜がヘトヘトとなるも、長老秋田のグルーブ感は抜群の効果をあげていた。何時しかLUNAに潜むナチュラルなロック魂がエクスプロージョン、ついにLoud4へと変貌した。その時“サッポロ・シティー・ジャズ”は視界から消えてしまい、店主の願いどおりドラッグにまみれない「愛と平和と音楽の2日間」Woodstockな夜が終了したのだった。もはや憲法違反は撤回され、新たに第北24条として“Love&peaceに対する音楽的罰則については永久にこれを放棄する”が追加された。放心状態のさ中、筆者に宿る家政婦は見ていた。帰り際とらえた最高のロック・シンガーLUNAの目は、『またやるわよ』。
(M・Flanagan)