2017.9.8 LUNAのあきない

LUNA (Vo) with 菅原昇二(tb)南山雅樹(p)竹村一哲(ds)
 レイジー・バードと曖昧な専属契約を結んでいるLUNA9年目の定期公演である。彼女はこれまで、ジャズからロックまで野心的なライブを提供してきたが、今日は早々に出し物が南米中心と宣言してスタートした。
筆者は南米音楽に明るくなく、超有名曲以外は殆ど知らない。知っている曲を予定どおり楽しんで帰るというのはライブの大切な要素であるが、ミュージシャンが何を伝えようとし、聴衆には何が伝わって来るのかという尺度において楽しむことにライブ本来の醍醐味を見出そうではないか。緊張感と緩んだ感じと自分自身が上手く繋がれば、来て良かったということになるだろう。けれどもそこには個人的な難関が横たわっていた。ボーカルである。気に懸けてきたのは表現力に関する問題ではなく外国の言語の問題である。ボーカル人は、曲を紹介する下りから歌詞をよくよく読解する大変な基礎作業を行っているものと推測できるが、筆者は歌詞を意味としてよりも楽器的肉声として受け入れることにより、どのような言語の歌詞にも抵抗感がなくなっていった。これには、一つヒントになることがあった。米国生まれの香港系中国人でカンフー映画の英雄=ブルース・リーがあるインタビューでこんなことを言っていた。“あなたのアイデンティティーは米国人かそれとも中国人か”という問いかけに対し、“私はhuman beingでありたい”と答えていた。このことと言語問題を短絡的に結ぶことはできないが、気分のうえでは世界中の言語や風土の壁を低くすることができたようなのだ。今回の南米は英語より更に馴染みのないポルトガル語やスペイン語であるが、LUNAの情感たっぷりな歌唱によって、何度か胸に刺さりつつ一気に聴き進むことができたのだった。それでは、多くの知らない曲を紹介する。蝉のささやきという意味の「オ・ソープロ・ダ・シガーハ」、ブラジルの枯葉こと「フォーリャス・セカス」、9月だからという理由で採り上げられた「セプテンバー・ソング」、余りにも暗すぎる「オホーツク・ブルー」、軍事政権下のブラジル政府と庶民を比喩した「酔っ払いと綱渡り芸人」、一転して前向きな「ザッツ・オール」、その身を海に投じた女流詩人を歌ったフォルクローレ「アルフォンシーナと海」、切々と歌い上げる「ダニー・ボーイ」、ショーターのネイティブ・ダンサーでも聴かれるナシメントの「砂の岬」など、アンコールはLUNAの1丁目1番地「諸行無常」。まぁ、最近品数の多いLUNAの商いと聴衆の飽きないがシンクロしていたとでも纏めておこう。
ここで臨時ニュースが一つ。年末にLUNAと大物との共演が計画されているという噂を耳にした。JアラートはLUNAの新たな飛び道具を検知中。
(M・Flanagan)