farewell my lovely

6月15日はT恵の命日にあたる。T恵はlazyで二年ほど働いて24歳で亡くなった。11年前のことだ。心に小さな傷のある子であった。その当時は傷の大きさが分からなかった。時々ぷっと膨れる事もあったが、人なつこく頑張り屋であった。店である事件が二日続けて起きた。一件は酒を出すところでは時々ある話で次に起きた事件はそんなにあることでないが普通の経営者なら99%怒る事柄である。当然僕も怒った。数日無断欠勤が続いた。電話にも出ない。数日してやっとメールが来た。心のバランスを崩したようである。「迷惑かけてごめんなさい。絶対戻るから少し待ってくださいと」あった。その頃僕はもう一軒の店groovyの方にいて急遽週何日かだけでもできるバイトを入れて回復するのを待ったが思ったより長引きとうとう二度と店のカウンターに立つことはなかった。彼女はままごとの様ではあったが家庭持ちではあった。だが療養中に体よく家を出されてしまった。僕は彼女が戻るまでは生活を支えながら待つ覚悟でいたのでアパートを借りる手続きやら生活保護の申請やら通院の時の付き添いなど地味にこなしていた。彼女は僕のことをずっと「パパ」と呼んでいた。彼女がつけた僕のあだ名であったが店に入るようになってもマスターと呼ぶことはなく「パパ」で通した。お客さんの中には親子と勘違いする人もいたし若い愛人と誤解されることもあった。
彼女は僕のことを信用しているのが分かったし、もしちょっと危なげな娘がいたらこんなに頑張れるのだと言う幻想を抱かせてくれた唯一の人間だから可愛いのだ。
たしか6月16日だ。知らない方から電話があった。T恵のお父さんであった。「T恵が亡くなりました」お父さんの苗字とT恵が全く結びつかず混乱してしまった。翌日直接会って色々な話を聞かせてもらった。lazyで働けることを喜んでいたこと、僕のことを「札幌のパパ」みたいな人と言っていたこと、母親とはあまりうまくいっていなかったこと。どうして僕の連絡先が分かったか聞いた。タンスの中から一枚の紙が出てきたという。「私に何かあったら連絡してください」とあって4人の名前が書いてあった。一人は別れた旦那さん、二人三人目は高校の同級生らしい。4人目が僕で家の固定電話の番号が書いてあった。「あれ、これ何時書いたのだ」と思った。と言うのは僕の携帯は購入の手続きやら設定やら基本的な使い方など彼女に全部教えてもらったから彼女と知り合う時期と固定電話しかなかった時期が食い違うからだ。
亡くなる30分前くらいにT恵からの最後の着信履歴がある。当時は寝るときは近くに携帯は置かなかった。今は第二のT恵を出さないように枕元に置いてある。彼女と知り合って少しだけ優しくなったような気がする。
「タフでなければ生きられない、優しくなければ生きている資格がない」
Farewell my lovelyの中ではないが同じくプイリップ・マーロウのセリフである。