jazzと政治意識

先日二人の一流ミュージシャンから一度も選挙に行ったことがないという話を聞いて流石にショックであった。ライブ後の打ち上げの席で酒を飲んでの話なので文脈をよく覚えていないのだが楽曲の印税の管理と著作権法の話の流れであったと思う。好むと好まざるにかかわらず作られた法律に縛られていく。ライヴハウスの店主だろうが一流から自己流まですべての音楽家に関わっていく。例えば著作権法だって嘗て国会でで審議されたはずである。その時は関係ないと思っていても突然牙をむいてくることだってある。音楽教室における著作権の問題だってそうだ。誰かが誰かの利益を守るため、あるいは誰かが不利益を被らないように提案され法律として成立していく。そのすべてが国民を幸せにするものではないのも事実である。その成立過程は民主的である場合もあるが強行的に採択されていくこともある。
その現場は音楽が作られていく現場とあまりにも違いすぎる。地球外生命体のやっている作業としか思えないのかもしれない。
かつて70年代、jazzが社会運動とリンクしている時期があった。jazz喫茶ではセシル・テイラーや山下洋輔トリオが大音量で流れ吉本隆明やレーニンの本を抱えた青年が難しい顔をして音楽を聴いていた。交際反戦デーの夜はテーブルの上には色とりどりのヘルメットがあふれていることもあった。安い伊酒を飲みながら安保問題やらヴェトナム問題を青臭い理論で議論していた。僕が引き継いだgrooovyと言う店もそういう人たちも来る店であった。先代のマスターも店をやる前は北大の学生であり図書館をバリ封鎖した張本人なので普通に卒業できるはずもなく生きるすべでjazz飲み屋を選んだのであった。そういう人たちは政治意識は高いが選挙でえらばれる既成政党にはまるで興味がないのであった。
ある音楽がはやり、ある音楽ははやらない。消費者の経済行動に任される。一見合理的に見える。だがはやらない音楽を切り捨てていいのかと考えだした途端それは音楽談義ではなくて政治の話に一歩足を突っ込んでいる。