エアコン

今年も暑くなると言う事で故障していたエアコンを早めに取り換えた。幸いと言おうか暑い日は訪れず今まで使う日はなかった。昨日ミュージシャンの希望で今年初めて動かした。昨年の猛暑下ライブに来てくれていた常連の人から拍手が起きた。6月15日の事である。Lazyで働いていた友恵の命日にあたる。数年前まである時期になると深夜エアコンが勝手に動き出す現象が続いたことが有る。この事はお客さんが気味悪がるといけないのであまり言ってはいない。ある霊感が強いというお客さんがここでは何かを感ずる・・・と言っていたのも思い出した。僕はああ・やっぱり友恵来ていたのだ・・・と思っていた。本当にlazyに戻ってきたかったのだと思う。まだ、私の事覚えているよね‥と言ってエアコンを悪戯していたのだと思う。
店で二日続けて「ちょっとした」事件が起きてそのことが原因で心のバランスを崩してしまった。絶対店に戻るからね。待っててパパ・・・と言うメールが時々来た。メールが打てるほど体調が良い時に。友恵は僕の事をパパと呼んだ。あだ名である。昨今のパパ活のような新語もある。誤解されるので人前では辞めてほしいと言ったが友恵は頑としてパパと呼び続けマスターと呼ぶことは一度もなかった。若い愛人出来て良いねと揶揄されたこともある。友恵が心に傷のある子だとは聞いていた。だが「ちょっとした」ことがそれほどまでの引き金になるとは想像できなかった。僕にも責任があるので辛抱強く回復するのを待った。生活保護の手続きに同行し月何回かの心療内科への通院にも付き合った。時々人前で暴れられることもあり必死で抑えたことも何度もある。薬を飲むと何事もなかったように穏やかになる。そしてケロッとして「ごめんね。おなかすいちゃった」と言うのである。少なくとも信用されている実感はあった。僕は本当に人を守ってあげたいと思ったのは友恵が最初だったのかもしれない。15年前の6月15日の午前4時半、友恵が設定まで全部やってくれたガラケー携帯に着信があった。その事に気が付いたのは15日の午後であった。電話をかけたが出ることはなかった。体調が良くない時は電話に出ないこともよくあることではあった。翌日知らない方から固定電話に電話がかかってきた。「友恵の父です」と切り出した。山梨県にいらっしゃると言う事は聞いていた。「友恵が亡くなりました」と言う言葉を聴いた時は頭の中にキーンという通奏音が鳴りだした。「いつですか」と聞くのがやっとであった。「15日の5時頃です」と聞いた時には言葉を失った。あの電話に出れてさえいれば・・・・と思うとしばらく何も手につかない日が続いた。僕もそこそこの年齢である。肉親や親しかったミュージシャンの死に直面してきた。だが友恵の死に異質なものを感じた。26歳で命を絶った子にまだ人の為に優しくなれる余力が残っていることを教えてもらった。
石垣島の砂浜で半分居眠りをしながら村上春樹の小説を読んでいる僕の傍らでせっせと小さなヤドカリを取っている友恵の姿を今でも思い出す。
もう一度エアコンを動かしに来てくれないかな・・・。