記憶の行方

今国会で「記憶にありません」と言うセリフが流行っている。総務省とNTT、東北新社との接待に関する質疑の時である。ロッキード事件の時小佐野賢治や児玉誉志夫が多用していた。
注意を払う必要がないもの」は「記憶にありません」が許されるが「注意を払う必要が絶対的にあるもの」では許されない。彼女の誕生日のデートの日「ちょっと変えてみたんだけど、どう」と聞かれたとする。髪型なのか、口紅の色なのか服装の趣味なのか・・・細心の注意をもって答えなくてはならない。「記憶にありません」では執行猶予なしの実刑判決を食らう。僕は50年以上前の学祭の時に着てきたブラウスの色を間違っただけで今でも咎められる。
話は全くそれてしまった。今国会で問題になっていることは例えば踏切を渡る時「警報機は点滅していましたか」と「手前にあったコンビニのポスターは見ましたか」の違いである。
不正疑惑は前者で「記憶にありません」は許される返答ではない。だが皆安々と追及の網を潜り抜けてしまう。論理矛盾を突く質問がないかと考えていたら戦史研究家の山崎雅弘氏が鋭い指摘をしてくれた。問うべきは「特定の話をしたか、しなかったか」ではなく「そのような話をしてはいけないと注意を払う努力をしたか否か」であると言う。公務員は倫理規定で利害が絡む話はしてはいけないことになっている。だから宴席であっても細心の注意を払っていることになる。「記憶にありません」という返事は国家公務員失格を意味するからである。だから「その努力をした」と答えたとしたら「努力したのなら『その話はしていない』と明言できるはずですね」と追及の手を緩めない質疑ができる
総理や大臣、官僚が記憶力の悪さを競い平気でうそをつき通す。拙い詭弁で居直る態度の下劣さに辟易するが諦めてはいけない。こんな国の状態で次の世代には渡したくはない。