腹立ち日記vol28 小道具

東京都発着を除きGoToキャンペーンをクランクインさせようとしている。ある事柄を分類すると映画で言う大部屋に入れられる。例えば僕がやっているライブバーは行政にとっては遊興施設でストリップ劇場、覗き劇場と同じ類で所謂「夜の街」の名札をつけて歩かされる。「クラスターを発生させた人たちよ」という国民のひそひそ話が背後で聞こえる。
では今回の観光業界の分類はどうか。「旅行代理店業界」と観光地の「旅館や飲食店」が同じ大部屋に入れられている。感染者が増加傾向にある中「密」にならない高級施設に旅行に行けるのは限られた富裕層である。その旅行商品を扱っているのは大手旅行代理店である。今回の政策は「旅行代理店業界」を設けさせるためであって観光地の「旅館や飲食店」と観光客は小道具に過ぎない。
百歩譲ってGo Toキャンペーンが実施されたとする。東京都が除外されたままだ。小池都知事は怒るべきである。都民ファーストを掲げていたはずである。税金を使って施行される政策である。国民全員人に公平でなくてはならない。「都民を排除するなら全面撤回」と言わなければならない。だがやっていることは「夜の街」パンチを繰り出すだけで現政権と裏で政争を繰り返すだけである。都民も「小道具」である。
7月10日5000人規模のイベントが解禁になった。早速行われたのは麻生副総理のパーティーで3000人集まっている。白玉団子のような関係者が所狭しと押しかけ会場は餡蜜状態である。目的は政治資金の調達である。選挙が近いかもしれない。
国民も「小道具」と思っている人がいる。

日本映画探訪記その4 黒いドレスの女

角川映画である。僕が見る原田知世主演作3本目になる。これを見ると原田知世とのお別れになる予感がしていた。原作は北方謙三。今は歴史ものとか中国物を書いているがデビュー当時はハードボイルド小説の旗手であった。このタイトルは推測であるが「白いドレスの女」を意識している。キャサリン・ターナーの主演で映画化されている。キャサリン・ターナーが謎めいてエロくて、本当に悪である。相手役のウィリアム・ハートは手玉に取られてしまう。
ドレスの色が変わる。黒い方である。映画の冒頭黒いドレスを着た女がバーに入ってくる。
「座っていいかしら」
「どうぞ」女は煙草に火を着け、マルガリータを頼む。煙草を一服してマルガリータを一口飲む。
「このペンダント貰ったの」
まあ、こんな感じで映画が始まる。原田知世がミステリアスな女を演じているつもりだ。髪型も肩までの長さで軽くウエーブが掛かっている。はっきり言って髪型も服もまるで似合っていない。勿論謎めいた女には全く見えない。たばこの吸い方も育ちの良いお嬢様がちょっといたずらしてみましたという感じだ。それにショートカクテルは両手で飲むものではない。
普通の映画会社ならミスキャストだ。ところが角川映画である。角川春樹が原田知世に大人の女を演じさせてほしいという意向だったのだと思う。監督は崔洋一だ。日本映画は50年代が黄金期で60年からは衰退期に入っていた。新人にはなかなかメガフォンを握る機会はやってこなかった。角川映画の功罪の功を上げればそういう若い映画人にメガフォンを取らせたことだ。崔監督もその一人である。
冒頭のシーン。僕には中学の学芸会にしか見えないのだが崔監督はどうしてああいう演出にしたのであろうかと考えるのである。崔監督も原田知世の演技力の無さはすぐにわかるはずだ。
指導してどうにかなるレベルではない。そこを逆手に取ったのではないか。どう見てもヤクザ者と渡り合うタイプには見えないようにして周りの人間そして観客もだます。
アイドルでデビューした人間は必ず演技派に脱皮していく時に壁にぶつかる。フアンであればそこまで付き合うのであろうが僕にはそこまでの時間の余裕がない。さようなら原田知世。
付記
ビデオには特典映像が付いていて映画のパンフレットが見られる。映画はタイトルが流れる前原田知世が高速道路を歩くシーンから始まる。パンフレットには原田知世が裸足で高速道路を歩くシーンから始まるとあるがちゃんと靴を履いている。

日本映画探訪記その3 聖の青春

薬師丸ひろこと原田知世には今回休んでもらう。
藤井聡太がとうとう棋聖位を獲得した。まだ17歳である。藤井聡太の人気で将棋に興味を持つ人が増えた。一将棋フアンとしてはうれしい限りである。藤井聡太の前にも何人かの天才棋士がいた。村山聖もその一人である。村山は羽生善治との勝負に命を懸けていた。羽生との将棋1局はほかの人と指す20局分に相当すると公言してはばからない人であった。小さい頃かネフローゼの持病もちで将棋を指すことは相手との戦いでもあり体力勝負の自分との戦いでもあった。29歳で名人にも挑戦できる順位戦のA級に上り詰めていた。だが羽生との名人戦を戦う前に夭折した。そんな棋士村山聖の伝記、大崎善生「聖の青春」の映画化である。実在の棋士が多数出てくるがキャラクターなどもちゃんと研究して作られている。特に羽生善治は表情、対局姿勢、物言い、服装までかなり似ている。村山と羽生の駒あしらいと言ったらいいのだろうか・・・指先の表情まで気配りが行き届いている。
実際の村山聖は変人タイプであったがその終盤力には定評があってプロ棋士の間でも「終盤は村山に聞け」と言うセリフが流行っていた。将棋が強いと言う事は終盤が強いと言う事であると思っている。藤井聡太もそうであるが相手王に積み筋がある時は消して見逃さない。そして終盤の局面を想像しながら序盤から駒組をする。積んでいるエンジンが違うのである。
僕の棋力はアマ2段くらいだと思うがこのクラスの人の指し手は意味が分からないことが多い。米木のソロのようだと言えばjazzフアンにはわかりやすいかもしれない。
将棋はパソコンでやるゲームの何倍も深いと思っているのでこの映画を見て将棋フアンが増えてくれると嬉しい。
だがその前にjazzファンが増えてくれないと困る。
付記
大崎善生は札幌出身の作家で切ない恋愛小説が多い。「別れの後の静かな午後」は札幌オリンピックの時代の札幌を舞台にした小説で当時の事が懐かしく思い出される。将棋が好きになる小説も一冊紹介しておきたい「サラの柔らかな香車」橋本長道著。勝負の世界を生きる三人の少女をめぐり「才能とは何か」を問う

腹立ち日記vol27 強盗

腹立ち日記vol27 強盗
Go Toが強盗にしか聞こえない。何を奪うのか。国民の平穏に暮らす権利である。
Go Toキャンペーンの見直しがされた。東京都発着の場合だけ除外すると言う限定的なものである。全面撤回し1.7兆円は医療施設充実化今後来るであろう二波、三波対策に回すべきと考える。大体なぜ今の時期なのか。感染者はまた増加傾向にある。何もなければオリンピックが開催されていた。莫大な金額が動く。その利ザヤがなくなって困るところがある。電通であったり竹中平蔵のパソナだったりする。全国旅行業協会に加盟する大手の代理店から購入する旅行商品に関して税金で補助をする。それがGo Toキャンペーンである。その一般社団法人 全国旅行業協会の会長は二階俊博自民党幹事長である。持続化給付金の中抜き構造の裏コードである。

日本映画探訪記その2 天国に一番近い島

角川映画で薬師丸ひろ子を出せば原田知世を出さないわけにはいかない。原田知世はプロデューサー角川春樹の秘蔵っ子である。あるオーディションで次点になったが返すには惜しいと言う事で角川春樹がデビューの機会をうかがっていた。デビュー作は「時をかける少女」監督はこの映画と同じ大林宣彦である。プロデューサーがデビュー作で原田知世が輝く様に取ってほしいお願いした。この時点で原田知世は何物でもない。チョット可愛い素直なド素人にすぎない。いい意味でも悪い意味でも原田知世は「お人形さん」である。でも輝いているのである。大林監督は本当にやさしい人なのだと判る。
二作目がこの「天国に一番近い島」である。森村桂原作でニューカレドニアの事である。原作があるのだが少女原田知世がニューカレドニアを旅して感じたことをカメラに収めると言う半分ドキュメンタリーにもなっている。監督は演技指導もほとんどしていない。原田知世も伸び伸び演じている。と言うより28日間のロケを楽しんでいると言ったほうが良い。監督は一点だけ条件を付けた。眼鏡をかけさせたのである。時代は80年半ばバブル期に入っている。情報時代でもある。眼鏡をはずせば見えるものも見えなくなる。だが世界は見えるものだけなのか・・・・。その分心で感じて旅をしてごらんと言ったのである。するとロケが一週間程経過すると原田知世が「監督コロコロという音が聞こえてきました」報告をしに来たと言うのである。それは風が貝殻を転がす音なのだそうだ。サンゴ礁でできた島では起こる自然現象である。
この話を聞いた時僕は「時をかけるオヤジ」になっていた。15年前、石垣島に従業員慰安旅行に行ったことが有る。僕は海岸で本を読んだり、ぼーっと水平線を眺めていた。さわやかな風が吹き抜けていた。近くではTがヤドカリを捜していた。そういえば「コロコロ」と言う音がしていた。偶然なのだがTは「ともえ」という名であった。
この時期ニューカレドニアは独立運動でもめていた。大林監督はその痕跡は一切映さずひたすら美しい自然と原田知世と現地の人との交流をカメラに収めていく。
そして問うのである。自然とは人間とは、幸せとは

日本映画探訪記その1 ねらわれた学園

とうとう手を出してしまった。薬物でも女子大生でもない。角川映画である。40年前角川映画を1本だけ見たことが有る。「キャバレー」というタイトルで多少jazzに関わりがある内容だったので見に行ったのである。あまりのリアリティの無さに唖然とした。それ以後どんなにTVスポットが流れようが角川映画は見にはいかないと決めたのである。角川書店の売れ筋原作を大物俳優とオーディションで発掘した新人の組み合わせでプロモーションしていく自己顕示欲の強い角川春樹の手法に辟易していた。そこで発掘された新人も何人かは大きく羽ばたき、メガホンを取った監督も何人かは鬼籍に入った。大林宣彦監督もその一人である。亡くなってから何本か見直した。だが角川映画を排除すると仕事の全貌がわからない。片手落ちになる。それに年金をもらう年齢になってから初めて見る原田知世や薬師丸ひろ子に自分がどういう印象を持つかに興味があった。
制作されたのは80年初期、時代はしらけ世代に入っている。そこに一昔前善の善との戦いと言った価値観を高校の中に持ってくる。不埒な同級生を取り締まる今でいう自粛警察みたいなものが生徒たちの中から自発的に組織される。驚くほど今の時代に似ている。余談。数日前実際に富山県の小学校での「密」を取り締まるパトロール隊の写真を見た。小学生にこんなことをやらせては絶対にダメである。
映画の中ではこの動きが生徒の中から自発的に起こる。ここに敢然と立ちふさがるのが薬師丸ひろ子扮する学級委員長なのである。頭が良くてかわいくて性格もいいと言う三拍子そろった高校生、いつの時代も学年に数人いる。僕の時代にも勿論いた。
薬師丸ひろ子はある種の超能力を持っている。それを使って悪と戦うのであるが映像的に表現されると陳腐さを感じる。当時の映画的な技術では最先端を行っていたとのことであるがCGが当たり前の時代になるとそういうところから古くなる。でもそこにスタッフ全員の心意気も感じるのである。新宿の高層ビル街に花火を打ち上げるカット。花火が手書きなのである。フイルムにサインペンで一コマ一コマ書いていくのである。映画は1秒に静止画24コマを動かすことによって時間が流れていく。だから花火のシーンが一分であっても作業が膨大になる。ハリウッドであれば半年かかるところを大林組は徹夜で一日で仕上げたという。そして薬師丸ひろ子にはスタッフにそういう気にさせる何かを秘めていると大林監督自身が述べている。一部分ミュージカル仕立てになっている部分がある。どう見ても全員踊りに関しては素人だと判る。薬師丸ひろ子もセーラ服で踊っている。手に汗握る。全員一生懸命なのが伝わってくる。Jazz研一年生の学祭の演奏と一緒である。僕はどの芸も下手なものは基本的に嫌いである。
だが条件によってそれが感動に代わることが有りえる。
大林監督曰く映画は映っているものでしか表現できない。
薬師丸ひろ子が図書館で読む本、同級生がはいているパンツ、剣道部の男子が家で木刀の代わりに振る金属バット、空き地に倒れている自転車、その意味は見る側のイマジネーションに委ねられる。正解のない入試問題。
40年前の、ある意味青春学園物の映画を60歳過ぎて見ても面白かった。見させるだけの可愛らしさが薬師丸ひろ子には有った。セーラー服で学校に通う薬師丸ひろ子が家では着物を着ているのである。「おうー」と思うのである。僕が高校生だった70年代にもいた。新年会に着物を着てきた子がいた。勿論「おうー」と思った。この歳になって薬師丸ひろ子のフアンになってしまった。どうしてくれるのだ大林監督

アウトブレイク

爆裂音と共にジャングルのから這い出てきた一匹の猿がアップで映る。映画アウトブレイクの出だしだ。ある感染症と戦う軍医が主役でダスティ・ホフマンが演じている。設定は確かコンゴだと思ったが内戦で生活の場を追われた猿を媒介に感染症が拡大する。これは内戦であったが農地獲得のための開発であったり、宅地造成であったりリゾート開発であったりするかもしれないが野生の動物にとってこちらの事情など小島よしおではないがそんなの関係ない。生活の場を失えば人間の生活圏にも顔を出すことになる。ウィルスを背負って・・・・。たまたま今のコロナ禍を予感させるような設定になっている。ウィルスも生き物である。寄生するものが蚊であったり、鼠だったり蝙蝠であったり猿であったりするだけだ。そこに人間と言う最高の住み心地の物件が向こうからやって来た。そしてそれは世界中移動してくれる豪華客船のようなものだ。こっちに住み替えようと言う事になるはずだ。ウィルスは人間の何倍、何百倍桁が判らないほど進化が早い。完全に封じ込められたのは天然痘だけではなかったか。(バイトのK子、医学的に間違っていたらこっそり教えてください)強力な抗生物質を開発すればそれを上回る新型のウィルスが出現する。永遠の追いかけっこ。ウィルスにも軒先貸すような棲み分けはできないのであろうか。
おりしも西日本は何十年に一度の豪雨に見舞われ避難を余儀なくされている。ラジオでは頻繁に「命を守る行動をしてください」と流れる。でもその裏に」決めるのはあなたです。と言うニュアンスが感じ取れる。何十年に一度と言うが去年もあった。最近よく何十年に一度の自然現象が起こる。
過度の開発で地中に吸収できる水分が空気中に拡散し巨大な積乱雲になって雨をもたらす。土木工学の積算で作られた護岸には自然の怒りを鎮めるだけの力はない。
砲撃で歯をむいた猿と濁流と化した雨は出どころは同じではないのか

あずさ2号

8時ちょうどあずさ2号に乗って都知事選の選挙速報がNHKで流れた。小池都知事の当確である。こんなことを報道の速さと勘違いしてもらっては困る。のど自慢ではないのである。1小節歌う前に鐘一つで次の方どうぞである。選挙期間中は何の報道もなく、結果だけを光速で知らせる。もうマスコミの機能は果たしていない。45%棄権。60%現職支持。政治が変わっても生活は変わらないとマスコミで徹底的に刷り込まれた結果と考える。
それにしてもこんなに票の開きが出るとは思わなかった。次の国政選挙が本当に心配である。
別件バウアー
先週末,道のある機関から電話が入った。休業補償の件である。書類が一部足りないと言うのである。提出して一月半ほどになる。こちらは何度も確認して同封した自信がある。電通の下請けではないと思うがバイトに目くじら立ててもしょうがない。鈴木知事を出せと言いたいところを引きさがり書類を再送した。振り込みは最速で7月17日になるという。カンパがなかったら潰れていた。今度振り込みがなかったら道庁のドアーを蹴破りにH田.T也送り込むからな。

厚化粧

都知事選が始まる前、小池都知事はコロナ対策をやっている感を出すためステイホーム、ソーシャルデスタンス、東京アラートだの広告代理店が考えそうなキャッチコピー連発しながらテレビに出まくっていた。その事をあるコラムニストが「小池show」であると表現した。ところがどう間違って伝わったかは良く判らないが「濃い化粧」と誤解されたらしい。小池都知事は痣が有ってそれを隠すために化粧がちょっと濃いだけなのにそれをツイッターで広めるとは何事だと知事のシンパの人から噛みつかれたそうである。
大阪のおばちゃんではないが「濃い化粧」など知らんわと言いたい。
あれほどテレビに出まくっていたのに選挙が始まるとテレビ討論も拒否し公共の場に出てこない。マスコミが特定の候補だけを報道できないことを知った上での先行逃げ切り策である。選挙戦が盛り上がらず投票率が下がれば小池都知事の圧勝であろう。野党も山本太郎都知事、宇都宮健児副都知事で戦えば十分に勝算があったはずなのに残念である。
6月29日現在東京都ではまた感染者が増加している。
次のやり取りは小池都知事のものである。
「第二波ではない」
「なぜだ」
「第一波が収束していない」
「では、なぜ緊急事態宣言を解除したのか」
「第一波は沈静化していた」
「さきほど収束していないと言ったが」
「沈静化はしたが収束はしておらず、再活性化しはじめている」
「すなわち第二波ではないのか」
この論法どこかで聞いたことがないだろうか。
そう安倍総理のご飯論法である。小池都知事が圧勝するようなことが有ればこの方が補正予算の予備費をバラまきながら一か八かの選挙に打って出るかもしれない。
良識ある都民の方々、ミュージシャンの方々も7月5日選挙に行ってください。
jazzシーンも含めての日本の将来が掛かっています。

あん

指運に任せて借りた映画のタイトルである。「赤毛のアン」ではない。念のため。河瀨直美監督作品である。この監督の作品は忘れていた日本の美しさ、あるいは日本人の心の美しさをじわっつと気づかせてくれる。
樹木希林扮する老女がどら焼き屋のアルバイト募集の張り紙を見て雇ってほしいと言う。永瀬正敏扮する店長は年齢を理由に断る。老女は帰りにどら焼きをもらい帰る。後日老女は食べてほしいと自分で作った餡を持つて来る。店長は食べて余りの美味しさに感動し老女を採用し餡の作り方を指南してもらう。その時の老女の生き生きとしている姿をカメラが追う。節くれだった手のカットが挟まれる。あることの伏線になっている。
おいしい餡が評判になりどら焼き屋は繁盛する。だが老女がハンセン病だったとの風評で客足は遠のきオーナーから解雇するように店長は命令される。その日店長は深酒する。
しばらくして店長は常連の中学生と老女がいる施設を訪ねる。老女は少し弱っているようだ。だがどら焼き屋で働いた日々の事を語ると本当に楽しそうな表情になる。店長はこみあげてくるものを堪えて居る。次に施設を訪ねた時は老女はなくなっており形見として餡を作る時のすりこ木やらボウルやらを渡される。ラストシーンは独立した店長が満開の桜の下で「どら焼きいかがですか」と声を出すカットだ。顔が輝いている。
ざっとストーリーを話すとこんなところだ。「あん」が「餡」でないほうが良いとわかる。
樹木希林が素晴らしい。
この老女を見て僕は二人の老女を思い出した。一人は母親、一人は新聞の集金人のお母さんである。
母親は91歳。週に一度風呂に入りに僕の所へ来る。足が弱っているので高い湯舟だと跨げないからである。時々大きな洗濯物も持ってくる。自分で干せないからだ。夕食を食べて一泊し朝食を食べて帰る。毎回朝ごとごと音がする。拭き掃除をしているのである。利き手も骨折しているので不自由なはずだが何かできることを捜してやっていくのである。いくらいいと言っても聞かない。好きにやってもらって一言「ありがとう」と言うほうが本人も満足げである。
集金のお母さんは確か86歳だ。冬でも自転車で回っている。今年で30年目のはずである。6月の集金が最後になるとのことである。僕はそのお母さんが元気に集金に来るのを楽しみに自動引き落としにしていないのである。その旨お母さんに言ったら「旦那さん、うれしいわー」と顔をほころばせて帰っていった。ささやかな記念品を用意して最後の集金を待っているのである。
過日高校球児が「感動させるゲームをしたいです」と言っていた。いつからか感動が安売りさせるようになっていった。