日本映画探訪記その1 ねらわれた学園

とうとう手を出してしまった。薬物でも女子大生でもない。角川映画である。40年前角川映画を1本だけ見たことが有る。「キャバレー」というタイトルで多少jazzに関わりがある内容だったので見に行ったのである。あまりのリアリティの無さに唖然とした。それ以後どんなにTVスポットが流れようが角川映画は見にはいかないと決めたのである。角川書店の売れ筋原作を大物俳優とオーディションで発掘した新人の組み合わせでプロモーションしていく自己顕示欲の強い角川春樹の手法に辟易していた。そこで発掘された新人も何人かは大きく羽ばたき、メガホンを取った監督も何人かは鬼籍に入った。大林宣彦監督もその一人である。亡くなってから何本か見直した。だが角川映画を排除すると仕事の全貌がわからない。片手落ちになる。それに年金をもらう年齢になってから初めて見る原田知世や薬師丸ひろ子に自分がどういう印象を持つかに興味があった。
制作されたのは80年初期、時代はしらけ世代に入っている。そこに一昔前善の善との戦いと言った価値観を高校の中に持ってくる。不埒な同級生を取り締まる今でいう自粛警察みたいなものが生徒たちの中から自発的に組織される。驚くほど今の時代に似ている。余談。数日前実際に富山県の小学校での「密」を取り締まるパトロール隊の写真を見た。小学生にこんなことをやらせては絶対にダメである。
映画の中ではこの動きが生徒の中から自発的に起こる。ここに敢然と立ちふさがるのが薬師丸ひろ子扮する学級委員長なのである。頭が良くてかわいくて性格もいいと言う三拍子そろった高校生、いつの時代も学年に数人いる。僕の時代にも勿論いた。
薬師丸ひろ子はある種の超能力を持っている。それを使って悪と戦うのであるが映像的に表現されると陳腐さを感じる。当時の映画的な技術では最先端を行っていたとのことであるがCGが当たり前の時代になるとそういうところから古くなる。でもそこにスタッフ全員の心意気も感じるのである。新宿の高層ビル街に花火を打ち上げるカット。花火が手書きなのである。フイルムにサインペンで一コマ一コマ書いていくのである。映画は1秒に静止画24コマを動かすことによって時間が流れていく。だから花火のシーンが一分であっても作業が膨大になる。ハリウッドであれば半年かかるところを大林組は徹夜で一日で仕上げたという。そして薬師丸ひろ子にはスタッフにそういう気にさせる何かを秘めていると大林監督自身が述べている。一部分ミュージカル仕立てになっている部分がある。どう見ても全員踊りに関しては素人だと判る。薬師丸ひろ子もセーラ服で踊っている。手に汗握る。全員一生懸命なのが伝わってくる。Jazz研一年生の学祭の演奏と一緒である。僕はどの芸も下手なものは基本的に嫌いである。
だが条件によってそれが感動に代わることが有りえる。
大林監督曰く映画は映っているものでしか表現できない。
薬師丸ひろ子が図書館で読む本、同級生がはいているパンツ、剣道部の男子が家で木刀の代わりに振る金属バット、空き地に倒れている自転車、その意味は見る側のイマジネーションに委ねられる。正解のない入試問題。
40年前の、ある意味青春学園物の映画を60歳過ぎて見ても面白かった。見させるだけの可愛らしさが薬師丸ひろ子には有った。セーラー服で学校に通う薬師丸ひろ子が家では着物を着ているのである。「おうー」と思うのである。僕が高校生だった70年代にもいた。新年会に着物を着てきた子がいた。勿論「おうー」と思った。この歳になって薬師丸ひろ子のフアンになってしまった。どうしてくれるのだ大林監督