パラリンピック

現在もパラリンピックの報道がかまびすしく行われている。オリンピックだろうがパラリンピックだろうが医療資源をそちらに割かれると言う意味で開催反対である。人流を抑えることが感染拡大には有効と信じているのでその意味でも反対である。教育的見地から学校観戦が一部行われているが教育的意義があるとして感染リスクと秤に欠けりゃ~義理が重たいこの世の世界~と言う事でやはり反対である。ところがパラリンピック反対と声を上げるとある種の居心地の悪さを感ずるのはどうしてだろうか。その疑問にヒントを与えてくれる知人のブログがある。全文掲載する。まずは読んでいただきたい。
以下Sさんの文章
障害者はチャレンジャー?
「パラリンピックの報道で障害者のことがわかるようになった」という声が聞こえてくることがある。これには苦笑する障害者も少なくないだろう。たしかに、障害・障害者に関する話題が、一般の話題に混ざって、メディアで取り上げられるようになってきたのはここ数年のこと。パラリンピックの関連報道によって、一般の人たちにとって、障害者がそれほど遠い存在でないと感じるきっかけになったことは確かである。しかし、これをもって「障害者への理解が進んだ」と考えるのは、拙速すぎるというものだ。
「障害者」というこの表現をめぐって、日本では「害」という字を問題視してひらがなで表記するなどの動きがある。英語圏でも以前は「disabled」=「~~ができない人」という表現だったものを「challenged」=「挑戦する人」と{前向きに}表現するようになってきている。ある時、この話題をめぐって「障害者は、そんなにいつでも何かに挑戦していなければダメなの?そんなにいつもいつも頑張ってられないよ。」と知人が言った。まったくその通り!すぐに手を抜きたがる私も、両手を挙げて同意する!しかし、パラリンピックの報道で、障害者のことがわかってきた」という人たちの多くは、まさに、このチャレンジのすがたをとらえて言っているのだろう。
パラリンピックで活躍しているアスリートたちは、障害者の中でも、卓越した運動能力を有する極限られた人たちである。病気や事故などによって障害者となり、失意のうちにあった人の中には、障害者スポーツとの出会いによって再び元気を取り戻し、さらにパラリンピックによって目標を得ることができた人経ちがいる。また、先天性の障害を持ちながらもスポーツが好きで、努力を重ねて力を伸ばしてきた人たちもいる。しかし、障害者の誰もがスポーツ好きとは限らず、まして、「メダル」ともなると脚光を浴びることができるのは実に稀有なことである。考えてみれば、これは一般社会も同様なはずである。にもかかわらず、この障害者スポーツの祭典では、オリンピックとはまた少し違った「感動」「チャレンジ→障害克服物語」がメディアの力によって用意され、どんどん膨らまされていく。そして、大半の障害者は、この辺りに違和感を感じている。これはもちろん、アスリートたち自身に責任があるというものではない。いや、むしろ、アスリートの中にも、メディアの一連の報道には、複雑な思いを抱いている人がいるかもしれない。
アスリート一人一人の、この日までの努力は、はかり知れないものがある。私はやはり、各自、これまでの力を存分に発揮してほしいと願っている。それでもなおこの問題にこだわるのは、アスリートたちのチャレンジ→障害克服物語に光を当て、突き詰めていくと、その先に見えてくるものは何か。2016年に起きた相模原事件はその一つである。「役に立つ⇔役に立たない」という物差し、「障害者は不幸を作るだけ」という主張…。この事件には、まだまだ計り知れないところがある。パラリンピックとこの事件を並べることは、あまりにも論理の飛躍があると思われるかもしれない。しかし、各人が持つ「障害者観」の在り方として、これを切り離すことはできないと思う。今はまず、このことを、各自意識の一角においてほしいと思う。
以上
この文章を書いたSさんは目が不自由である。Lazyにも時々来てくれる。その時は24条の改札まで送り迎えをする。たかだか10分の送り迎えで普段は気にもならない横断歩道の段差が気になったりする。そんなことで身障者の気持ちが分かったなどとは思わない。人は誰であれ例外的な存在だ。障害者であれ健常者であれ善人もいるし悪人もいる。努力家もいるし怠け者もいる。禿げもいるしふさふさもいる。パラリンピックの報道のされ方を見ていると『共生社会』をうたい文句にはしているがその向こうに違う枠組みが見えてくる。あることに共感できる集団だけが優遇される社会だ。少数者のうちの特別な少数者、ここではパラアスリートを持ち上げることによって結果的に少数者を排除することを覆い隠しているのではないのか。例外的な少数者を排除することでその集団の統一性を高めることが社会の進歩だと考える集団がいる。