演歌歌手

週初めにライブのない日が3日続く。優勝が決まったプロ野球の消化試合のように気合が入らない。早い時間に常連が来なければ完封も覚悟しなければならない。7時・・・・誰も来ない。半分諦めて池田聡太の棋譜を研究していた。曲がりなりにも客商売なのに志が低いのは自分でもわかる。そういうところに商売の女神は訪れない。
8時過ぎ、NとUが来た。Uは数年ぶりだ。二人で寿司を食べてきたらしい。直後ドアーが全開に開かれ「一杯飲ませてくれるかい」と男が入ってきた。深夜であれば「もう閉店です」と絶対店に入れないタイプの客である。男はNと親しげに話している。他のお客さんもいない。知り合いであれば仕方ないと思い頼まれるままにビールを出した。男は「歌わせてくれるかい」と言う。「うちはカラオケはないんです」「ピアノがアル・ジャロウ」まずい。Nはピアノが多少弾ける。素人同士のナマオケセッションほど辛いものはない。だがそうはならなかった。男はいきなりアカペラで「北の漁場」を歌い出した。バックはオスカーピーターソンとミルト・ジャクソンが勤めている。Uとここ数年の近況の話をしている間、男は演歌の名曲を次々と歌い続けている。「知り合い」とUに聞く「俺は知らないです。Nさんの知り合いじゃないんですか」Nは「うまい」とか言って調子を合わせている。30分もしないうちNは早い時間から飲んでいたのであろう、突然、「眠い、帰る」と言い出す。我儘なのには慣れているがカラオケおじさんも連れて帰ってくれるようお願いした。「知らない人だし・・・・」え!知り合いだと思って入れたのに・・・
その男と二人になってしまった。いや、他のお客さんが居なくてよかったともいえる。
「俺間違っているかい」唐突に聴かれても何を言っているのか全く分からない。答えに窮していると「どこが間違っている」と追い打ちをかけてくる。
「間違っていないと思いますよ」
「そうだよな、酒は楽しく飲まなきゃな・・・」
クレィジーケンバンドではないが典型的な「俺の話を聞け」タイプだ。そうゆう輩に限って話が全く面白くない。
同じ話を何回かするとまた歌い出す。瀬川瑛子だ。多分。歌うと前歯が一本抜けているのが見える。
そうこうしているうちにカウンターに突っ伏してしまった。被っていたキャップが脱げた。白髪頭で頭頂部分がシベリアのツンドラ地帯のように何もない。70歳ちょっと手前であろうか。
流石に寝られるのは困る。軽く揺する
「もう帰った方いいですよ」
むくっと起きて金払うという。財布の中身を全部カウンターにぶちまける。三分の一が切れてない千円札と後は小銭だった。小銭をかき集めて1600円頂く。
「お姉ちゃんのいるところに行きたいのだけれど、金がちょっと足りなくて・・・・」
だいぶ足りないかも知れない。
男はボソッと言った「俺、寂しくて」
情が移りそうになる。
「また来て良いか」
「いいですよ」帰る時は気持ちよく送るのが礼儀だ。