言語と音楽の関係 再び

ドイツ語の語学番組にクラシック界では有名なオーボエ奏者の宮本文昭が出演していた。ドイツに留学していた経験もある。ドイツ語を習ってよかったと思ったことは有るかとの質問にそれは計り知れないと言う。それは日常生活レベルで助かったと言う意味ではない。バッハの音楽を理解しようとした時、あるフレーズの塊が次のフレーズに発展するとき、あるいはある音が次の音の装飾音符になっているとき、ドイツ語の構文と同じに感じたと言う。僕もパーカーのフレーズを聴くとき同じような感覚に陥る。黒人の英語を聞いているような・・・・。あるプロのsax奏者も同様なことを言っていたのを思い出す。独特の抑揚で何を言っているのか理解できないないというのだ。その当時のバップの流れを汲むjazzを演奏しようと言うことは、黒人訛りの英語を覚えようと言う行為に似ているかもしれない。いまやjazzは世界中で演奏されている。それは英語がグローバルな言語になりつつあって、インド人はインド訛りでスペイン人はスペイン訛りで意思を伝えようとする行為と同じだ。Jazzだけではなくシャンソンはフランス語の柔らかい語感、ストレスのない発音体系と無関係ではないし、フラメンコもジェットコースターのような激しい抑揚と有機的に結びついている。
嘗て細野清臣、松本隆らがはっぴーえんどで試みた日本語をロックビートに乗せようとした試行錯誤が市民権を得るまでにはサザンオールスターズの登場まで待たなければならなかったし、日本歌謡が西条八十の七五調の歌詞の呪縛から逃れることができたのはグループサウンズが日本中を席捲してからだと作詞家の中西礼は分析する。
僕は日本語の歌詞のイントネーションの話になると三善英史の「雨」を思い出す。「雨にぬれながら、たたずむ人が居た」という歌詞で始まる曲だ。出だしの「雨」の部分のイントネーションが実に日本語らしくて好きだった。日本語の曲は一音、一音に音符が対応しているがjazzのスタンダードだと二部音符のなかに二語も三語も入っている。これは英語の発音と不可分に結びついている。
それにしても、二十年も歌ったことがない歌詞はすぐ出てくるのに、「コンファメーション」のコードはなかなか出てこないのは何故だろう。まあ、五十年以上日本人やっているからと自分を慰めるしかないないのだが、ジェロがあんなに演歌が上手い説明がつかなくなる。
「私の耳は貝の殻、海の響きを懐かしむ」上田敏が訳したベルレーヌの詩の一節だが、日本語の情感を残しながら、フランス語の響きをも感じさせる名訳だ。サザンもいいがこういう日本語も残したいものだ。
本日駄洒落
宮本文昭に捧ぐ
負け犬のオーボエ
付記
ブログの上にも20年になる。駄文も1000作品に上るが読んでもらえるのは各ジャンル直近の10作くらいに絞っている。ある文章を探していたら別の面白いものが見つかった。推察するに20年前のものだ。良いことを言っているように思うので再録しておく。