2022.10.6-7 LUNAの回帰現象

LUNA(Vo) 若井俊也(b) 田中菜緒子(p)
 「芸のためなら女房も捨てる~」という演歌の一節がある。これに倣うと「Liveのためならジャンルも捨てる~」というのが、LUNAによる局地的な戦略である。このまま行くとシルク・ハットから鳩を出すくらいのことをやってしまうのではないかと恐れている。今のところどれを採っても本流と支流の区別がつかない一級河川の景観を呈していて、興覚めを寄せ付けない。今回は、一念発起、JAZZに徹するというのだ。しかも、二日間、一曲も被ることなくやり抜くと豪語する意気込みようだ。そっちもそうなら、こっちもこう。「一丁聴いてやろうじゃないか!」。演目は後で並べるが、よく知られた曲にオリジナルを交えるという構成だ。標題の”回帰”というのはJAZZ一本でいくという以上の含みを持っている。「失ったものを数えるな、残ったものを数えよ」と謎の名言を発したのは、かのB・グッドマンだが、今回のLiveでLUNAが言うには、古の自分が歌っていたド・スタンダードを現在の思いをこめて数曲取り上げたということだった。それが彼女の中で「残ったもの」なのだろう。このことが”回帰”の本当の意味合いである。成るほど、聴いているとエモーショナルに歌い上げながらも、月日の故に度が過ぎぬよう抑制されている。ここはLUNAボーカルの大きな聴きどころになっていたと言っていい。唐突だが、たまたま最近、中島みゆきの”糸”という曲を聴いたので、それになぞらえて言うと、”糸”と言えば仕上がりは別としてタテとヨコの関係から編まれるものを想起しがちであるし、非を唱えようとは思わない。ただ一方で、人は”糸”を使えば必ずついて回る”糸くず”と無縁に生を営んでいる訳ではない。このLiveを聴いていて、その”糸くず”をLUNAはどのように胸中に納めているのだろうか、そんな余計な思いに駆られてしまった。少々湿りがちになったところで、演奏曲をズラッと並べる。初日は「Body& Soul」、「I didn’t Know What Time It Was」、「My One &Only Love」、「Save Your Love For Me」、「 My Foolish Heart 」、「All The things You Are」、「残滓」、「Porgy&Bess」、「愛の語らい(Speaking Of Love)」、「Ellen David」、「Good By」、「Chega de Saudade」、「Here’s To Life」、「Autumn Leives」。そして翌日は「The Man I Love」、「It’s Only A Paper Moon」、「Nearness Of You」、「Tow For The Road」、「Lush Life」、「Loads Of Lovely Love」、「Peshawar」、「Se Todos Fosse Iguais A Vose」、「Re: Requiem」、「We Will Meet Again」、「Who Can I Turn To」、「Lawns」、「Fly Me To The Moon」、「Everything Must Change」。歌いも歌ったり、聴くも聴いたりの二夜に渡る「回帰現象」であった。次回登場は師走、ウルトラ・ウーマン吠える、シワッス!
 なお、リズム・セクションを務めた若井の厚みと田中の清新なバッキングにより、スキを見つけようにも見つけられないLiveとなったことを報告しておかなければならない。次の日にこの両者によるDUOがあり、PM2:00スタートで白昼・白眉の演奏となっていたことを付け加えておきたい。
(M・Flanagan)

jazz研定期戦

jazz研定期戦
先週の土日北大と小樽商大のjazz研一年生の定期戦を開催した。コロナ禍で3年ぶりの開催になる。10年くらい前からの行事になる。当時の北大の部長と話していた時の事だ。6月の学祭が終わると新入部員が大量に辞めると聞いた。一部の部員は学祭でやりきった感を持ち、一部の部員は次の目標がないので続かないと聞いた。次の行事は12月の定期演奏会で半年先になる。夏の合宿が終わる9月終わりに一年生だけの発表会をやったらと提案してみた。それが何とか継続している形だ。今回の出場バンドは5バンド。商大は一年生部員1名の為2年生がバックアップする方法で1バンドだけだったが先輩の温かいまなざしが感じられた。学祭はお祭りである。ライブハウスで演奏するのとは空気感が違う。一年生は緊張しているのが手に取るようにわかった。演奏中は先輩たちと気難しそうなjazz barの親父が腕組して聴いているのである。心中お察し申し上げます・・・と言ってあげたい。こういう時、僕はノーコメントにしている。まず演奏することを楽しんでほしい。そしてまたライブがやりたくなったら戻ってきてほしいと思っている。願わくば良いリスナーに育ってほしいというのが最終目標だ。昼のライブの為打ち上げはないが店の前で先輩たちから色々なアドバイスを受けているようであった。何曲かはハリケーンに襲われた木造住宅の様に崩壊しかかっていたが生き別れにならない様手をつなぎ合って持ちこたえていたのが微笑ましかった。演奏が終わると犯人探しが始まった。反省はしなければならないが粛清は辞めたほうが良い。この2日間僕は感謝されまくった。「こういう貴重な機会を頂きありがとうございます」とバンドが変わるたびに言われるのである。誰か先輩の入知恵であろうが何度も続くと居心地が悪い。MCは緊張するのであらかじめ考えているようであるが官僚が書いた作文を読み上げる大臣の国会答弁の様にはならなかったので良かったと思っている。学生たちからエネルギーを貰った2日間であった。

2022.9.2 無条件の降伏と幸福 

松島啓之(tp)鈴木央紹(ts)加藤友彦(p)三嶋大輝(b)柳沼祐育(ds)
 4番バッターの次が4番なのは明らかにルール違反である。ところがLIVEというのは演奏家によるその時限りの営為なので、ルールはメンバーの掌中にある。従って、彼らが一般的社会規範の干渉を受けることはない。そこに率先して巻き込まれれば、私たちも普段の縛りを忘れてステージを見つめることができる。しかも4番以外もソロありバッキングありの機会均等で嘘がない。何とも羨ましいことだ。今回のような若手と経験を積んだ演奏家の組み合わせはごく普通のことであるが、このメンバーなら私たちをどう説き伏せてくれるのだろうかという思いが胸中を往来する。若手陣の聴きどころは枠をハミ出さんばかりに前に向かって突き進む俗受け関係なしの清々しさにあるし、一方の熟練者は若手であった時を水に流すことなく今日に反映させ、過去と現在を同一過程のものとして自身を研磨している。そうした違いが原動力となってバンド総体としてどのように調和するのかに興味が湧くのである。いま目の前で何が起ころうとしているのか。予想に違わぬことと予想をこえることの両方を期待しているのだ。先発する松島の躍動感は身震いさせるに十分であることは予想どおりであったが、この音色には良心が宿っているのではないかと感じたことは予想外であった。盟友の鈴木については、最早どう綴ってよいか分からないので、イメージを掻き立てたままに言うと、例えば、Mt.富士を描けと云われれば、多くの者がほぼ左右対称の典型的アレを描くのだが、彼は上空から俯瞰して如何ようにも描くのである。既定の視点にない処から放たれる演奏に終わりのない物語を感ずる。少し力を抜いて若手について触れよう。今どきの用語を使えば、彼らは一様に「持続可能な発展目標」を地で行っている。3人揃っているのを聴くのは確か3度目になるが、回を追うごとに進化している。出荷されない規格外の野菜には思いがけない味わいがあるのだ。そうでなければ選定厳しいLBの座敷に上げてもらえない筈だ。筆者はブッキングに関与する権利はないが、「また来るよ」と語りかける権利はある。彼らの日々の研鑽と奮闘とが音に滲んでいるのが伝わってくるのである。終演直後にヘトヘトになっていた加藤がふとフロントに向けてこぼした賛辞を以て結びとしたい。「あの人たちバケモノだ」。演奏曲は「Ugetsu」,「Serenity」,「Skylark」,「Craziology」,「Panjab」,「Ceora」,「La Mesha」、「Fun」,「All The Things You Are」。この日の興奮をCD-Rでお届けできるようなので、迷いなくLAZYBIRDのブログでご確認されたい。
 先月の8月15日は、「終戦記念日」になっている。ところが世界標準では正式に調印行為のあった9月2日が戦争終結の日とされている。日本国は「無条件降伏の日」を意図的に不採用にしたと思われる。LIVEにはそのようなスリ替えはない。重苦しいことを持ち出してしまったが、このLIVEのあった9月2日を「無条件幸福の日」として調印しておきたい。昨今賑やかな事件簿を引いて今年は最後となる2管に申し上げる。「LIVEには行くが、松島の印鑑と鈴木の壺を買うつもりはないよ。」
 なお、前日9月1日はリズム・セクションを務めた加藤友彦トリオのLIVEがあった。バンマスの加藤はリハした曲をやらなかったらしく、三嶋はこのルール違反に苦笑していたが柳沼のアグレッシブなドラミングもあってスリリングな出来栄えになっていた。彼らの白熱ライブもCD-Rの提供があるようなので、演奏曲を紹介しておく。「Simply Bop」,「Boplicity」,「Bolivia」,「This Autumn」,「Alone Together」,「Dolphin」,「Time After Time」,「Just Friends」,「Fogtown Blues 」。
(M・Flanagan)

2022.7.15 鈴木央紹Meets The Rhythm Section

 ここのところ生きのいい若手と支配人クラスの演奏家をジグザグに味わっている。そうしたことを抵抗なく受け入れており、パソコン使った上書きのように前の記録を消失させてしまうようなことはない。誰しもそうであると思うが、所持しているレコード・CDの類で、アレを聴いてみようかと思うものと余り気が進まないものとがある。勿論、これは一個人に付き纏うカタヨリなので、そうではないという人が否定される謂れはない。筆者は凡庸にこれは聴き逃せないなと思う一群の演奏家を中心に繰り返し聴きして来ているにすぎない。それがライブに対する自然体での測量感覚だ。もう薄々答えを言っているようなものだ。鈴木央紹はスルーできない演奏家なのである。縦横、奥行、深さ、重量感、つまり音の容積のようなものを一発で体感できるのだ。ハズれのないクジはクジとは言わないかもしれないが、これまでハズレたことはない。今回は札幌のシーンを背負っている本山のトリオに参加しているのだが、例えば演奏曲の中にO・ネルソンの「Butch&Butch」という曲があった。後に鈴木に初演かどうかを尋ねてみると、初演だと言った。曲読みの深さとそれが平然と音として化けて出る様は普通でなさすぎる。バド・パウエルの作品を借りて言うならば、アメイジングでありジャイアントである。あっという間に時が過ぎてしまのも仕方がない。唐突にあることを思い出した。吉田茂が占領軍たるGHQとの協議中に、連中の頭文字をなぞってGo Home Quiclyと脳裏で呟いたらしい。論理の場に感性が割って入って両義成立している様子が窺われる。鈴木によれば演奏中途切れることなく原曲の旋律が流れているという。表の一枚が実は二重構造になっていることの実例として吉田を思い出だしたのかもしれない。ここまで来ると気分は頂上付近だ。余計なことを言って滑落せぬよう、肝心のリズム・セクションについて語ることは容赦願いたい。演奏曲は「Embraceable You」、「Pensativa」、「Guess I’ll Hung My Tears Out To Dry」、「Butch&Butch」、「Midnight Mood」、「Blessing」、「Worm Valley」、「I Remember April」、「In Love In Vain」。
 ところで、私立ちは“本日限り”“残りわずか”“というチラシが踊ると黙っていられない主婦心理が働く。鈴木央紹、その名を見ると、吾輩は主婦であるになるのである。厄介なことに9月早々鈴木がまたまた来演するとのことだ。立派な主婦としてちょっといい前掛け締めて行かねばならないな。
(M・Flanagan)

2022.7.15 Kejime Collective

広瀬未来(tp)高橋知道(ts)渡辺彰汰(p)古木佳祐(b)山田 玲(ds)
 過去にも記述したが、6、7年くらい前から東京で芽吹く若手ミュージシャンのライブが継続的に企画されて来た。若井(b)という慧眼の持主をエージェントとして多数のまだ見ぬ若手が送り込まれて来たのである。今回のバンド・リーダー山田玲(以下「アキラ」という)もその内の一人だ。それまでは名のある演奏家を聴きに来るという手堅い基準に寄り掛かりがちであったが、その頃から寸尺掴めぬ危うくも新鮮な環境に触れることが出来るようになった。LBでは東京でも実現されていない組み合わせはよくあることだが、今回はレギュラー・バンドである。レギュラー・バンドには、是非は別として割と台本どおり纏めてしまう場合と意図を共有する者同士が自由度を高めながら纏まっていく場合いがあるように思う。さて、このバンド(Kejime Collective)の針はどちらに振れるだろうか。今回のライブは彼らの新作『Counter Attack』のリリース記念を兼ねているということで、選曲はオリジナルで占められるそのアルバムからのものである。実はこれまでアキラ以外のメンバーを聴いたことがない。なので何度も目を開閉し、観察したり聴き入ったりを繰り返した。夫々について感想を並べてみよう。冒頭から唸らされたのはtp広瀬である。抜群の切れ味・フラつきのなさは、気分を引っ張ってくれるのに十分と言ったところだ。Ts高橋は黒光りする艶やかなトーンからアイディアに満ちた展開力が聴きどころ。しかも玉切れしないのは見事である。P渡辺はスキを見せないフロント2管に対し、強く割って入るようなことはなく、あえて隠し味を添えることでバンドを引き立てることに徹していたように思う。だがソロを執った時の腕前は並ではない。B古木はウッドとエレベを使い分けでいたが、古きをたずね・・・などと言っている場合ではない、生粋のグルーブ野郎であることが分かった。個人評からバンド評にいこう。まずそこにレギュラー・バンドならではの総合力があるのを感じた。互いの持っているものを最大限に引き出し合おうとする信念のようなものが、会場を席巻していたと思えてならない。時に、笑いを誘う器用なひと幕もあったが、取り組みが大真面目なので、単なる余興とは明らかに一線を画するものだったと言えよう。総じて何か新しいものへの追求心のようなものが、台本にない熱いステージ・ワークへと導いて行ったに違いない。その熱気を冷まして締めくくろう、私たちはドラマーそしてバンド・リーダーとしてのアキラの底力を見せつけられたのである。演奏曲は「African Skies」、「It’s A Hustle」、「Mr. K」、「Counter Attack」、「Kejime Island」、「A I」、「Mouth Drum Battle」など。
 その昔、学研のグリップ・アタックという参考書があった。後日、アルバム『Counter Attack』を聴いてみた。今のいま、表紙に“kejime Collective”と題された会心の参考書を手にすることが出来たわい。
(M・Flanagan)

2022.7.9  奥村和彦tio +1+α

奥村和彦(p)安藤 昇(b)伊藤宏樹(ds)  西田千穂(vo)
 奥村の来演は相当久し振りのことになるが、ドラムスの伊藤が九州で共演を重ねているので、時折話題になる。思い起こせば、奥村には豪腕系のピアノだというのが初聴きの印象としてある。私たちは演奏家に対するイメージを何となく定着させてしまうのが普通にあるが、耳というのは規律正しくあろうとしない面があって厄介だ。熱演に喝采することもあれば少しやり過ぎと訝ることもあるし、圧倒的な技量に持っていかれることもあれば卓越の度が過ぎて心に響かないと感ずることもある。こうした我儘な感覚を整理するのは鬱陶しいので、演奏家のオリジナリティーに拠りどころを見出すのである。「ああ、あの人の音だ」いうように。奥村の音は以前聴いた印象の延長上にあり、一言では難しいが逞しさを基調にしているように思う。今回の構成は、前・後半ともトリオで2曲のあとにヴォーカルが入るというものである。そのトリオを聴いていると、ヴォーカルが押し込まれてしまうのでは、と思ったりもしていた。ところが西田(鹿児島出身で九州を舞台に活躍の場にしている)の堂々たる歌唱は、何ら後ろに引けを取らない堂々たるものであった。そして少しハスキーな声質は、Trio+1に+αの役割を提供していたように思う。演奏曲はTrioがオリジナル3曲に「「There will never be another you」、歌が入って「Lousiana Sunday Afternoon」、「For All I Know」、「Gee Baby,Ain’t I Good To You」、「That’s Life」、「Here’s To Life」、「My Favorite Things」、「What A Wonderful World」。
 失礼ながら、予想外の素晴らしさに「帰れ、帰れ!」のシュプレヒコールが沸き起こり、薩摩の芋味はレイジーのいも美を凌ぐほどであったことを付け加えて置かなければなりもはん。
(M・Flanagan)

2020.6.25 新生DUOの生電ネットワーク紀行

大石学(p)米木康志(eb)
本年上半期を締めくくる米木週間で聴いた三夜の中からDUOの日に焦点を当てたい。実はこの前日(6/24)にセットされていたのは大石と“そして神戸”の実力派松原絵里(vo)とのデュオであったが、折からの暴風雨により鉄路北上中の大石が函館で足止めを食らうことになってしまったのだ。運良くこの日オフの米木と実力・ユーティリティー兼備の本山によりボーカル・トリオのライブとなった次第である。詳細は割愛させていただくが、ジャズ・ボーカルの王道を行く松原に緊急リリーフ陣が抜群のサポートを見せ、トラトラの奇襲は惚れ惚れするものになったことを伝えておく。さて、本編の主題である大石・米木のDUOについて語って行こう。特筆すべきは米木がエレベで臨んだことである。エレベにはウッドと違った粘着性や浮遊感があり、そこから発出されるグルーヴはこの楽器独自のものである。そうは言っても、アコースティック・ピアノとの組み合わせはどうなんだろうかと訝る思いも無いわけではなかった。なのでかつてのネイティヴ・サンやZEKでしか米木のエレベを聴いたことがない筆者のなかでは期待と躊躇が交錯していたのだった。ところが聴き進むにつれ、エレベは奇を衒ったものではなく、新たな試みとして大石の音楽的意図を拡張したものだという思いが強まっていく。そのことはベースがふんだんにメロディー・ラインを執る構成に見て取ることができる。なんかハマっちゃったなと思った時には、既にこの“生電ネットワーク”紀行は終盤を迎えていた。その終盤を飾ったのが、何度も聴いてきた大石の名曲「peace」だ。この曲に新たな表情を吹き込んだこの新生DUOの象徴をなす演奏だ。私たちは書き損じたときに、紙をクシャっと丸める経験をしている。だが一回二回几帳面に角を合わせて折り畳んでから丸める、そんな大石の人物像が頭をかすめた。彼はひと手間かけることを厭わない演奏家なのだと思うのである。演奏曲はオリジナルで占められていた。何が言いたいのかを問われれば、ピアノは持ち運びの効かないゆえ、マイ楽器による演奏家とは異なる立場を強いられる。従って1台のピアノを巡って演者の個性が露わになってしまうのだ。僅か数音で誰の音か分かることもあれば、そうでない場合もある。大石は分かる側の筆頭株だと思う。ピアノから何か一言もらいたい気分にもなるというものだ。文脈が雑多になってしまったが、かねがね一度負け惜しみを言っておきたいと思っていた。因みに筆者は演奏曲を音楽理論的に解説したりすることはないし、そうする能力もない。それは専門家の役割である。旨い小料理を伝えるのに、高名な産地を並べても旨さを伝えることができないと思っているので安心している。大切なのは舌包鼓の感触を伝えられれば良いと思うのである。ライブとは音の振動をそのように味わうことなのである。軌道をもとに戻してかなり不確かだが演奏曲を紹介する。「今できること」「ロンサム」「カラー」「シリウス」「アンダー・ザ・ムーン」「キリッグ」「7777酔いマン」「ニュー・ライフ」「花曇りのち雨」「目覚め」「ルック・アップ・ワーズ」そしてトドメの「ピース」。
このライブを以て今年もはや半分経過する。ミュージカルの聖地ブロード・ウェイの関係者によれば、上演の75%は失敗に終わるとのことである。上半期の24ナロウ・ウェイはそれに該当していないな。この分だと7月以降も視界良好に違いない。
(M・Flanagan)

2022.5.20 オール目玉、3人Side Up

壺阪健登(p)三嶋大輝(b)西村匠平(ds) 
  西村8Days、連勝街道を行けば、中日で勝ち越しである。そうなれば良いが、これは先ごろ開校した「レイジー生き残り塾」の第一弾だという噂を耳にする。聞くところによると、及第点は落第という抜き差しならぬ基準があるそうだ。親しき仲の礼儀なにするものぞということか。つかみはこのくらいにして進めよう。最近、今回のメンバーのような演奏を聴いていると、つくづく思わされることがある。気鋭の若手登場!という触れ込みに釣られて初聴きしてから僅か数年しか数えていないにも拘らず「前とちがうな」と印象づけられるのだ。ここで個人的かつショボイでストンプな話をさせていただきたい。サラリーマン稼業を卒業すると、長年つづけてきた仕事って一体何だったんだという問いかけに襲われ、立ちつくしてしまったことがあった。結局、仕事という仕事は「対処力」を養い続けることに過ぎなかったのではないかと思わされる。これは誰しも共通していることなのであろうが、しかし、音楽を含む文化活動を生業にしている人々はそれだけでは済まされないと感ずる。それは突出して固有性が突きつけられるということだ。気の進まない言い方だが。会社人が会社の法規に従い続けるのに対し、文化の人々は独自の文法を作らねばならない宿命にある。筆者にも青春というひと時があって、今時の人には馴染みがないと思うが小田実という作家(活動家)がいて、彼の講演会を聞いたことがある。彼の思想を必ずしも受け入れようとは思わないが、一つ印象深いことがあった。それは彼が聖書を大阪弁に翻訳して、それを読み込んでやろうと大真面目に言っていたことだ。滑稽な話にも思えるが、一笑に付すことが出来ない含みがあるかも知れないと振り返って思う。ここには人がどう思おうと自分的なる展開に持ち込もうとする意思が見て取れる。このトリオのメンバー個々にも小田とは別の仕様で為そうとする意思があると思わざるを得ない。であれば、演奏から受け取る高揚の一方で、彼らののっぴきならない深層に付き合わされていることになる。聴いている私たちは「感ずる」だけで良いが、彼らは絶えず「感じ直す」という次元で勝負しているに違いないというのがこのライブの感想だ。本文に目を通した各位にはカビ臭い話に許しを請うが、ライブの寸評として、壺阪が従前以上に弾き切っていたこと、サウナ汗に匹敵する三嶋の完全燃焼、西村のと切れることのない繊細かつ逞しいプレイ、そこにはこの日の目玉の3人とも「対処力」たる守りの白身に依存しない自立する黄身を輝かせていたと言っておこう。我が家にはライブの余韻割というカクテルがある。小林幸子ではないが帰宅後、無理して飲んでしまった。演奏曲は「The Days Of Wine & Roses」、「Little Girl Blue」、「SubconsciousLee」、「Turn Out The Stars」、「Bye-Ya」、「Isolation」(壺阪)、「暮らす歓び」(壺阪)、「All The Things You Are」、「It’s Easy To Remember」、「Moments Notice」、「I Wish I Knew How It Would Feel To Be Free」。
なお、壺阪のオリジナルは、大変“お世話になっている”レイジーに捧げるとのことであった。売れっ子にスキは見当たらない。
(M・Flanagan)

2022  17周年のApril in バリバリ

これはLB17周年記念として企画された規格外の本田珠也6日連続ライブである。今回はそのうち編成メンバーの異なる4日ほど足を運んだ。久しぶりに頭の中はてんこ盛り状態になっている。これ全部を捌くのは至難と思い、東京ミュージシャンが結集した二日分に限定するのが賢明と判断した。この組み合わせは率直にファースト・ラスト的な感じがする。予感的中ならば、後から振り返ったとき私たちは大変貴重な場に居合わせたことになる。未来はどのような悪戯を選択するかは分からないが、今これを聴き逃すことにならないという焦りが襲いかかるというものだ。当然ながら、主賓の本田珠也についてレポートしなくてはならないのだが気が重い。その理由は彼についての月並みな賛辞は許されないということではなく、祖父や父親の楽曲を演奏するというということ自体が稀有なことであるうえ、それを突き詰めていくと、子は親を選べないという人の鉄則に反し、彼に限って子が親を選んでしまったのではないかと思わせるような幾分怖い特異性に行き着いてしまので、それに太刀打ちできそうにないからだ。幸い演奏中はそういうことを考えずに済んでいるが、書いている今はライブ中ではないので揺ら揺らしている。なので卑怯にもリスク・マネジメントとして、モザイク効果を期して少々脇道に逃げることにする。40数年前になろうか、B・エヴァンス・トリオを聴いた時に、ドラムのP・モチアンがうるさくて取り返しのつかないことをしているように思えていた。それから何千もの昼と夜が費やされていくにつれ、モチアンがいなければワン・ランク下の名盤に留まっていたかも知れないと思い始めだしたのである。こうした思いの核心は共感を得られるかどうかではなく、時と個人の感覚の関係として見た場合に、感覚は定点に留まることなく結構うろうろ歩き回っていることが確かめられることにある。時つまり歳を重ねるとはそのようなことだという極く平凡な結論に至るだけのことに過ぎないかも知れないのだが。すると珠也を初めて聴いた時と今とでは感じ方がどこか違っていると感じても不思議なことではない。それは彼の側ではなくこちら側の問題なのだから。誰もが認めるようにあの伝説的“蹴り”同様に破壊力のある豪快なドラミングが珠也の最大の聴きどころであることを受け入れた上で、今回耳を凝らしながら強烈に思いを強めたのは、珠也が驚異的に歌い続けていることであった。ここには表層の興奮を通り越した世界がある。アンタ今ごろ気付いたの?と言われてしまうと身を隠したくなるが、ここのところを正直に告白しておかなければ、彼が標榜するDown To Earthや“和ジャズ”の達成に近づける気がしないのである。ここらでモザイクを解除し二日間のライブ話に持ちこんで行こう。なお、今回の珠也Weekで彼はバンマスを務めておらず、ピアニストがその役割を担っていたので、予め申し添えておく。
2022.4.7 荒武雄一朗(p)米木康志(b)本田珠也(ds) 
 荒武は三年ぶりくらいの登場になろう。その間、彼は自ら立ち上げたレーベルOwl-Wing-Recordにおいて精力的に制作活動を行っていたらしい。蓋を開けてみると制作活動が演奏行為の妨げになるどころか矛盾することなく連結していたように思う。そこにはピアニストの枠を越えた音楽者としての荒武の素晴らしい演奏があった。それを周囲の様子からお伝えしよう。筆者から少し離れたところにある女性の背中があった。肩を震わせていた。後で聞くと、荒武のプレイに号泣、珠也の打撃に嗚咽、米木さんによって辛うじて我に返えらせて貰ったということである。筆者も終演後の余韻に縛られ、しばらくは人と話をする気になれなかったのだった。荒武のレーベル名になぞらえると、三者All・WINと言ったところだ。演奏曲は「Golden Earirngs」、「I Should Care」、「Water Under The Bridge」、「Influencia De Jazz」、「Dialogue In A Day Of Spring」、「Beautiful Love」、「閉伊川」、「Sea Road」、「Dear Friends」。
2022.4.8 荒武雄一朗(p)後藤篤(tb)米木康志(b)本田珠也(ds) 
 昨日のトリオに後藤が参加したカルテットである。後藤は2度目の来演だ。何と言っても彼はこころ温まるトロンボーンの一般イメージとは違う位置にいる。音がデカい。従って我々は救急車が来たときの一般車のように一旦道路脇に寄せなければならない感じになる。ではあるが、だんだん救急車に引っ張られて行くハメになっていく。そんなプレーヤーが後藤である。荒武、後藤、珠也そして米木さん、それぞれ固有の黄金比をもっているミュージシャン同士の融合は聴き応え十分であり、それ以上付け足すことはない。演奏曲は「That Old Feeling」、「All Blues」、「Be My Love」、「No More Blues」、「I Should Care」、「Riplling」、「Little Abi」、「夕やけ」、「Isn’t She Lovely」。Here’s To This Quartet。
レイジーバードのApril、17周年記念ライブは、うっとりするようなパリではなくバリバリだった。嗚呼“Live is over”とオーヤン・フィフィーなら言うだろう。ひと言付け加えさせて頂く。「米木さん、今回も心に沁みました」。
(M・Flanagan)

2022.3.15 鈴木・西村の週間春分砲

鈴木央紹(ts)本山禎朗(p)柳 真也(b)西村匠平(ds) 
弥生三月の第2週は鈴木央紹、西村匠平週間だ。多様な取り合わせが組まれていので、迷いつつこのカルテットに出向くことにした。鈴木については、何度も聴き何度もレポートして来たのでおおよそ書き尽くした。このことは聴き尽くしたこととは全く違う。次も聴きたいという動機が働いてしまうのがその理由である。ファン心理とはそんなものだ。高速でねじ伏せ、低速で息をのませる、しかも大人の粋さがある。私たちが目撃しているのは、どんな風向きも自分の味方につけてしまうような並外れたクリエイターである。おっと、またダラダラ書きしそうなので、ページをめくることにしよう。西村は昨秋久しぶりに顔を出したが、それから程なくの登場でペースが上がってきたようだ。前回と今回から思うのは、初めて聴いた多分5年くらい前との微妙な違いである。かつて、勢いあるプレイと繊細なプレイが区分されていたように思えていた(それはそれで非難されるべきではない)が、今はその区分が簡単に見分けられない。繊細さが繊細に聴こえているうちは未だ本当の繊細さに至っていない、彼の数年間はそういう歩みと共にあったのではないか、そのように想像してみた。鈴木も西村も年内にまた聴けそうなので楽しみだ。ライブは既に始まっているのである。この日は聴こうと思えば何時でも聴ける堅実なプレイで定評のある柳と秀逸な作品を連発している本山が申し分のないサポートをしていていたことを付け加えておく。演奏曲は「Airegin」、「Introspection」、「Little Girl Blue」、「Long Ago & Far Away」、「Vely Early」、「317East32」、「Worm Valley〜Little Willy Leaves」そして「I’ll Be Seeing You」。
この冬の札幌には散々苦しめられた。最近は少しずつ日が長くなってきてコルトレーンの“Equinox”(昼夜平分点)を思い出しながらレポートしている。週刊文春のようにスクープはないが、このライブは、正に昼夜平分点を目掛けた充実の“春分砲”となっていたのだった。
(M・Flanagan)