2017年 レイジー・バード・ウォッチング

 師走の定番は今年の十大ニュースである。このランキング路線に乗らず、のらりくらりと2017を振り返ってみよう。第一四半期では何といっても12周年ライブだろう。ピアニストとして異能の持ち主キム・ハクエイと天才肌の鈴木央紹との共演が叶った。ぶっつけ本番での完成度がレベルの高さを窺わせていた。才人は違う。この後が問題だ。飲み会のお開きの頃に新しい奴がやって来て悪夢の飲み直し。このパターンを仕組んだのが、そう春の嵐ことLUNA&Loud3だ。ロックの狂喜乱舞、輝かしき歌毒が全身に回ってしまった。余談になるがモリ・カケ並みの手口で姑息にリクエストしていた輩がいたと聞く。「サンシャイン・ラブ」「ホンキー・トンク・ウイメン」「フォーエバー・ヤング」。この裏取引は重罪、証拠書類の処分と逃げの一手は許されない。ところで3月は学生、社会人ともに異動時期でイベント満載だ。LBもご多分に漏れずこの“地獄の季節”に首まで浸かっていたらしい。それがため4月は虚脱感に襲われ、ブルー一色になるのだそうだ。そんな中でも3月と4月をひと跨ぎした若井俊也の本格トリオは、ひと時の濃縮清涼剤の役割を果していたのではないだろうか。磨けば磨いただけ発光する上昇の3人。連休明けにはダウントゥ・アースの本田珠也カルテットが登場。このガチンコな快感、聴かなきゃ損々。「宮古高校校歌」が頭に焼き付く。5月の終わりにLB財団の交流事業でカナダに長期派中のマークが一時帰国、つかのま旧交を温めたのは心休まるものだった。話を戻して、珠也は6月にZEK!のCDリリース・ツアーの一環で再登場。アアアー・アアッ!ド迫力の2日間。そして6月恒例の大石、ZEK!を脱北した米木さんとのDUOだ。筆者のこだわりだがDUOは面白い。7月に入ると我らが池田篤。ソリ身で吹きまくるアッちゃんは“凄い”の一言だ。例年8月のところ一月前倒しとなった臼庭メモリアル・ライブ。今年はトロンボーンの後藤とギターの和泉が参集。欠いてはならぬ「アンチ・カリプソ」ほかJazz-rootsの曲多数が演奏された。初めて聴いた後藤の音は太く分厚くデカかった。今年は臼庭の7回忌になる。もうそんなになるか、という思いだ。実は7回忌に合わせ臼庭の母上が譜面集をCD付きで1冊にまとめられ、それを札幌で縁のある人に進呈して頂いた。ここには母上のご苦労と臼庭の思い出がギッシリ詰まっている筈だ。高値で横流しするつもりはないが、もったい無くて筆者は未だ包みを開封していないのだ。8月には、纐纈雅代が初登場。モンク漂う独創的な演奏だ。このアルトは注目しておいた方がいい。9月に入ると再びLUNA登場。南米もの一色の歌唱に菅原のトロンボーンが抜群の効き目。月末にはチコさんだ。およそ30年振りという加藤崇之とのDUO、加藤のバッキングにプロの恐ろしさを見た。そしてチコさんの「Eighty Naked Soul」、CDのタイトルどおり永遠にソウルの塊。10月は、キム・ハクエイのレギュラートリオ。プログレ特有の高等テクニックと創り出される雰囲気はこのバンドでしか体験できないものだ。いよいよ年末に向かう。11月は若井俊也のトリオ、春先とは異なるメンバーだったが、本道が誇る一哲や丈造と同世代の若者集団が着実に台頭して来ていることを突き付けられた。そうはさせじと月末には鈴木央紹のツワモノ・カルテット。久しぶりの原大力の気持ち良さに目がウルル。ギターの荻原は正真正銘の逸材だ。そして最終月。先ごろレポートした大口・米木珠玉のDUO。聴き逃していたら今年最大の悔いになっていただろう。最後に一つ付け加えたい。この秋口のことである。巷で言われている“岡本さん、あわや事件”だ。岡本さんのライブではなくライフに関わる一大事が起きたのだ。いまご本人は不死鳥のごとく現存している。そして、今日(14日)本田珠也と対決する。その勇姿を観に行かぬ訳にはいかぬ。では、一握りの読者の皆さん、よいお年を。
(M・Flanagan)

2017年12月 二者卓越 & ボイス・ビー・アンビシャス

2017年12月 二者卓越 & ボイス・ビー・アンビシャス
2017.12.7 DUO 大口純一郎(p)米木康志(b)  
小ぢんまりした老舗レストランにしかない重みと格調、大口さんの魅力である。数年前にこのDUOを聴いたことを生々しく覚えている。それは東日本大震災のあと、東京から東北各地を経てツアーの締めくくりが札幌だった時のことだ。この国が極度に張りつめていたことと演奏の関係は問わないにしても、筆者が聴いたピアノ・ベースDUOの生演奏でその後を含めてこれほど記憶に残ったものは珍しい。それゆえ開演前から気分が高ぶるのだ。最初の曲はエバンスの「タイム・リメンバード」だったが、大口さんの大胆な音使いは会心の切れ味で、後ろに回わった時のデコレーション・マジックに我々はハッとさせられる。待ちわびていたことが惜しげもなく進行していく快感に浸るしかない。曲名は分からないが、米木さんの長尺ベースから始まる曲があった。大口さんはその間うつむき加減に聴き入っていた。素人の目にはどう入るか探っているのだと見えた。だが、「米木のベース・ソロを聴いていて、子供の時に見た風景を思い出していたんだよ」。この後刻談にはいささか驚かされた。“病みつきになる”という言い方がある。それは聴き続ける年数に勝って記憶に刻まれた深さを尺度にした方が正しい時もあるように思う。大口さんは筆者にとってそういう演奏家だ。その他の演奏曲は、「イスパファン」、「ウェル・ユー・ニードント」、「アローン・トゥゲザー」、「ニュー・ムーン」、「ハイ・フライ」、「イマジン」など。何度も背筋がゾクゾクした。
2017.12.8 DUO&LUNA 大口純一郎(p)米木康志(b)&LUNA(vo)
 近年のLUNAはジャンルを超えた幅広い歌唱を提供し、LB芸能事務所の花形に躍り出た格好だ。しかし、スター街道にも不運が待ち構える。昨年の12月、LUNAは米木さんと共演するはずのところが、悪天候によりその願望は未遂となってしまったのだ。今回は自称リベンジ・シンガーの願いが叶うとともに、大口さんと初共演するという1等前後賞付きの大口ボーナスGetだ。ここのところ黄金のロックとボサノバの谷間に沈んでいた観のあるジャズ本流であるが、我が国の最高峰が後ろということで、スタンダード中心の選曲になった。聴きなれた曲であっても、気が入り気持ちよく歌っているかどうかで、聴き手への伝わり方に歴然と差がついてしまうが、今般、結果は言うまでもなく、心底晴れやかな歌いぶりであった。
運よく選曲されたのは「マイ・フェイバリット・シングス」、「サムワン・トゥ・ウォッチ・オーバー・ミー」、「ヒア・ザット・レイニー・デイ」、「アイ・ウイシュ・ユー・ラブ」、「ヒアズ・トゥ・ライフ」、「ハンド・イン・ハンド」、「マイ・ブルー・ヘブン」、「ストリート・ライフ」、「マイ・フーリシュ・ハート」、「ハウ・インセンシティヴ」、「リメンバー」、「降っても晴れても」、義務曲「諸行無常」など。この日は奇しくも真珠湾アタックの日だ。始まる前は不吉な予感に襲われていたが、3DAYSの中日で勝ち越しが決まった。LUNA1日限りの熱唱にスタンディング・オベーション。
2017.12.9 DUO&高野 大口純一郎(p)米木康志(b)高野雅絵(vo)
 歌の生命線は自然な形で自己投影できているかどうかだと思う。いわゆる“書き譜”演奏のような歌はのど自慢の一種に過ぎず人の心を動かすことができないというのが、筆者のシンプルな基準である。前置きはさておき、数カ月前に高野を聴いた時、仕込みのダシが自家製になって来たという印象を受けていた。今回は、その印象の延長線上でやり切れるか?開演直後は伴奏美の極致のような後ろの音にやや上気している嫌いもあったが、最早、勝負に出る決断をするしかない。俄かに自分の軌道をモノにして行く様子は、ライブにスリリングな華を添えるものであった。LBマスターから“よいしょ禁止令”が出されていたが、この日はそれを跳ね除ける高野のベスト・パフォーマンスだったと言える。馴染みの曲が見事に生まれ変わっていたが、それらは「ソー・メニー・スターズ」、「塀の上で」、「カム・トゥギャザー」、「6月の雨;チルチルとミチルは」、「泣いて笑って」、「スパルタカス愛のテーマ」、「ジンジ」、「死んだ男の残したものは」、何とも壮絶な「both・side・now」、「ハレルヤ」、「ブリジス」で、他には何も残さなかった。
 さてさて、大口・米木3DAYSで三種混合を摂取した結果、格段に生命力がついた気分になった。二人の巨匠には卓越を卓越する次元の演奏を聴かせて頂いた。そしてそこに敢然と挑んだシンガーよ、ボイス・ビー・アンビシャス!
(M・Flanagan)

2017.11.24-25  ソフィスティケイテッド・レイジー

鈴木央紹(ts)荻原亮(g)佐藤ハチ(b)原大力(ds)
札幌では中々テナーを聴く機会がなく、毎年訪れる鈴木を楽しみにしてきた。今回はピアノとギターが入れ替わったカルテットなので、これまでとの違いが浮き彫りになって欲しいと願う。文脈を転調するが、上手い演奏家が上手く吹く(弾く)ことに耳を奪われてしまうことは、誰しも身に覚えのあることである。初めて聴いた時の鈴木は筆者にとってそういう上手さの演奏家だったように思う。ある時からその印象が変わって来たのだ。上手さに押し出されまいとして、程々に目を閉じて聴いていると糸口らしきが現れる。上手さの後ろ側にあるものに触れることができ始めるのだ。いつのまにか鈴木は明らかに重要な演奏家になっていたのである。調を戻すと、例によってこのライブでも鈴木は難しそうなことを苦も無げにやってのけるのだが、聴き逃してはいけないところが多すぎる贅沢テナーを満喫し、改めて鈴木の存在感とジャズにおけるテナーの重要性を感じた。「ゲッツのように吹けるなら一人残らずゲッツのように吹こうとするだろう」という主旨のことを発したのはあのコルトレーンだが、鈴木はゲッツの至近距離に位置する一人といってよい。ここで言うゲッツとは想像の連鎖のことである。初お目見えの荻原は鈴木同様に淀みのなさが際立つプレイヤーだった。こじつけると、ジム・ホールのまろやかさとパット・マルティーノのスピード感がブレンドされていると云ったところか。このフロント陣2人に加え、いたずらに冒険をおかさずに堅実さをキープするベースと硬軟にわたりハウ・カムフォータブルなドラムスの守備陣2人。この調和は近年最上位のものだろう。
演奏曲は「ザ・モア・アイ・シー・ユー」、「貴方と夜と音楽と」、「I’ve grown accustomed to her face」(直訳では“彼女の顔が馴染んで来た”ぐらいだが、鈴木は“〇〇も見ていりゃ3日で慣れる”と不規則解説して、原から女性を敵に回すなよ!とたしなめられる一幕も)、「アイ・シュッド・ケア」、「ウィッチ・クラフト」、「レイト・ラメント(p・デスモンド)」、「グルービン・ハイ」、「ソニー・ムーン・フォー・トゥ」、「ハウ・デープ・イズ・ジ・オーシャン」、「マイノリティー」(G・グライス)、「ジス・オータム」、「マイルストーンズ」、「ユニット・セブン」(S・ジョーンズ)、「ターン・アウト・ザ・スターズ」(エバンス)、「デューク・エリントンズ・サウンド・オブ・ラブ」、「モナリザ」等々で、N・キング・コールものや名曲、隠れ名曲が満載となっていた。
このカルテットは選曲その他、トータルに大人向けの感じがする。その典雅な含み益に目を付けたムーディーズは、なまけ鳥を“Sophisticated-lazy”に格上げした。
(M・Flanagan)

2017.11.10  ドキュメント24

若井俊也(b)北島佳乃子(p)山田玲(ds)
最近、何度か若手のライブを聴いたが、彼らならではの溌剌としたプレイには、掛値なしの好感を持つことが多い。今回は聞くところによると、店側の意向により若井を介して東京の生きのいい連中に白羽の矢が立ったらしい。楽器編成は世に溢れる典型的なピアノ・トリオなので、若手ポイントだけでは、聴き手を攻略できないのだと思いながら開演だ。1曲目(北島の曲)の入りのところで早速意表を突かれてしまった。彼女の外見から美麗な演奏をするものと想像していたが、いきなりロイクなのだ。これは気分の良い驚きで、最初の1コーラスに絡んだ音がライブの最後まで頭から離れなかった。もう一つの驚きは山田のケレン味を排したアグレッシブなプレイだ。見た目はあどけなさの残るワンパク風だが、殻を割って出たくてしょうが無いといったドラミングはストレートに伝わって来る。後ろでこれだけやられると、機嫌を損ねる格上?もいるのではないかと勘繰りたくもなる。言い伝えどおり人は見かけで判断しては決してならぬ。この三人は個々の共演歴は別としてトリオは初演ということらしいが、彼らの演奏現場には「安全第一」の看板がぶら下がっておらず、この目には新しく迫り来る足音がはっきり見えて来た。若者というだけでは何らアドバンテージにならないと割り切っていた筆者にとって、来るべきジャズ・シーンという視点が弱かったことは、少し反省しなければならないと思うのだ。結果的にこのライブは、北区国営放送局が様々に行きかう筆者の思いを追ったドキュメント24になってしまった。きつい凌ぎ合いで真っ向勝負している彼らの今後に期待を膨らませつつ演奏曲を紹介する。「ブラッキー・スナッピー」(冒頭に触れた北島作品)、「ハルシネーション」、「フォー・マイ・レイディー」、「アイム・オール・スマイルズ」、「アイ・リメンバー・エイプリル」、「ジス・ワンズ・フォー・バド」、「エスターテ」、「イフ・ユー・クッド・シー・ミー・ナウ」、「ジ・エンド・オブ・ラブ・アフェアーズ」、「ネイティブ・プレイス」、「ゼアズ・ノー・グレーター・ラブ」。バップ系も上々。
バン・マスには、作曲:宮川泰、作詞:安井かずみの歌謡ポップスを贈っておこう。『あなたに笑いかけたら/そよ風がかえってくる/だから一人でもさみしくない/若いってすばらしい』
(M・Flanagan)

2017.10.13  Transoniqe

ハクエイ・キム(p)杉本智和(eb)大槻”KALTA”英宣(ds)
 これまでハクエイ・キムのトリオを数回聴いた。卓越した演奏力以上に強く感じたのは、旋律感覚が独特であり、米国音楽的な趣きから離反していくようなエキゾチズムであった。今回はレギュラー・トリオということで、更にその核心部分が見えて来るものと期待が膨らんでいた。なお、ベースとドラムスは初めて、つまりこのトリオ自体が初聴きである。
 冒頭は、これまでに聴いたことがある「コールド・エンジン」と「ホワイト・フォレスト」だった。札幌育ちのハクエイには記憶の原風景に冬があるのは疑いなく、曲名はその冬を想起させるが曲想は異国情緒漂うものである。2曲聴いて過去の演奏と変わっているように聴こえたのは杉本の不思議なベースによるものと思われる。この後、杉本のベースは予想以上にフィーチャーされていった。1stの最後に採り上げられた曲は組曲風の長尺演奏で、聴き応え十分であった。気になってハクエイ本人にこの曲名を訊ねたところ「メソポタミア」と答えてくれた。間髪入れず店主が「何をユーフラテス」と応じ、かなり好評を博していた。それでホントに「イインダス?」。話を戻すが、この曲のストーリーを当てずっぽうに解説すると、未開のゆったりした時間帯が終焉を迎え、それと引き換えに新世界である文明が勃興してしまう、すると人々が慌ただしくなると共に止むことなく争いが起こりはじめ、ついに文明は気を失ってしまった、という筋書きに違いないのだ。まぁ音楽を楽しむためには、こういういい加減な推量も許されるだろう。
 後半に入ると、シンセやイフェクターが多用された。ここからは予想どおり宇宙的広がりをもって進撃することになるのである。特筆すべきは、ここに発生する浮遊感は“ふわふわ”してはおらず、むしろ重層的に空間を支配している感じがした。三者の対等のぶつかり合から産み出されるエネルギーによってブ厚さが形成されているのだろう。勿論、ピアノが軸となっているのだが、ベースの効果音を伴うグルーブと攻撃力が際立つドラムスが押し寄せてきて、混然一体となったバトルが繰り広げられた展開は圧巻だった。とりわけシビレたのはこの展開が、ジャズとプログレッシブ・ロックを融合させたようなサウンドになっていたことだ。ここでバップの名曲なんぞやったら構想が台無しになっていたことだろう(「ドナ・リー」なら結構面白かったりするかも知れないが)。是非は別として、このトリオにはキャバレー仕事の経験があるベテランたちの放つ独特の臭気はない。面倒な話は脇に置いて付け加えておくべきは、三者の音量バランスが非常に良くレギュラー・バンドならではのクオリティーの高さを見せつけられたことである。
 ところでプログレッシブ・ロックとは、筆者の世代で40年以上も前に一世を風靡した音楽分野である。その中で屈指の名バンドと言われたELP(エマーソン・レイク&パーマー)のキーボード奏者キース・エマーソンにハクエイは影響を受けたらしいのだ。筆者もそれを感じながら今回のELP(いい・Live・Performance)のレポートを終わる。なお、バンド名“Transoniqe”とは何でも“音速に近い”という意味らしい。これじゃ誰も追い着けないわな。
(M・Flanagan)

2017.9.30 チコ本田 ソウル・フィールズ・フォエバー

チコ本田(vo)加藤崇之(g) 
 「何を歌ってもソウル。」これは万人の声を代表した加藤のチコさん評である。その加藤によれば、30年ぶりのDUOとのことで幾分そわそわ感が窺われた。この“ブランク永い”をギター1本によってどう太刀打ちするのか、興味津々ななかで1stがスタートした。1曲目の「アイ・キャント・ギブ・ユー・エニシング・バット・ラブ」を聴いていて思い出したことがある。ロックバンド=ザ・フーのリーダーP・タウンゼントが言っていたセリフだ。「俺たちは音を絞り出しているんだ!」。この感覚は次のバラード「バット・ビューティフル」や続く「ホワット・ア・ディファレレンス・ア・デイ・メイド(縁は異なもの)」、「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」、「サムタイムス・アイム・ハピー」を聴いていても全く変わらなかったし、最後まで残っていた。このセット最後はその昔、珠也に歌って欲しいとねだられたという「フー・キャン・アイ・ターン・トゥ」、微笑ましいなぁ。2nd最初は、加藤が不用意に漏らした“フリーも結構やってるよ“の一言に引っ込みがつかなくなって、ギターのインプロビ゙ゼーション2曲、オマケが最初に付いているのも妙なハプニングだ。DUOに戻って、ファンキーの最高峰「マーシー・オン・ミー」、季節を導く「オータム・リーブス」。次は「トゥインキー・リー」という曲で日本のグループ・サウンズが歌っていた。どういう訳か50年ぶりくらいに聴いたのに直ぐ思い出した。この時、筆者はいかに記憶力のムダ遣いをして来たかが分かった。その次も個人的に懐かしい「ユー・アー・ソ・ビューティフル」、チコさんの静かなる激唱にジョー・コッカーも目を覚ましたことだろう。まとめ段階に入りスタンダード連発、「サニー」から「バット・ノット・フォー・ミー」、「ジョージア・オン・マイ・マインド」、「ユードゥ・ビー・ソ・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ」へと流れて行った。アンコールは「ワイルド・イズ・ザ・ウインド」、この歌の主と思われるN・シモンとチコさんは似ていないが共通点があるような気がする。チコさんの歌唱に「ぐう」の音も出ず忘れるところだった。加藤はどうだったのか?このギタリストの創造力と適応力と技術力は、抜群の切れ味で「ちょき」の音が出ていたのだった(スベった)。真顔を取り戻して俗っぽく断言すると、このライブはチャージの2倍以上楽しめたということなる。
 ところで、チコさんのソウルとは何なのだろうか。黒人の声質や音楽のジャンルとは関係ない。歌心に秘められる深層部の伝わり方が、他のどのシンガーとも違っているところに何かありそうだ。もう少し突き詰めてみたい誘惑に駆られてしまう。収穫を得るためには英知より感性を持ってチコさんのソウル・フィールズに行ってみる必要があるだろう。では、フォエバーをイメージし、格調高く方丈記のイントロをもってエンディングとしたい。”行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず“
(M・Flanagan)

2017.9.8 LUNAのあきない

LUNA (Vo) with 菅原昇二(tb)南山雅樹(p)竹村一哲(ds)
 レイジー・バードと曖昧な専属契約を結んでいるLUNA9年目の定期公演である。彼女はこれまで、ジャズからロックまで野心的なライブを提供してきたが、今日は早々に出し物が南米中心と宣言してスタートした。
筆者は南米音楽に明るくなく、超有名曲以外は殆ど知らない。知っている曲を予定どおり楽しんで帰るというのはライブの大切な要素であるが、ミュージシャンが何を伝えようとし、聴衆には何が伝わって来るのかという尺度において楽しむことにライブ本来の醍醐味を見出そうではないか。緊張感と緩んだ感じと自分自身が上手く繋がれば、来て良かったということになるだろう。けれどもそこには個人的な難関が横たわっていた。ボーカルである。気に懸けてきたのは表現力に関する問題ではなく外国の言語の問題である。ボーカル人は、曲を紹介する下りから歌詞をよくよく読解する大変な基礎作業を行っているものと推測できるが、筆者は歌詞を意味としてよりも楽器的肉声として受け入れることにより、どのような言語の歌詞にも抵抗感がなくなっていった。これには、一つヒントになることがあった。米国生まれの香港系中国人でカンフー映画の英雄=ブルース・リーがあるインタビューでこんなことを言っていた。“あなたのアイデンティティーは米国人かそれとも中国人か”という問いかけに対し、“私はhuman beingでありたい”と答えていた。このことと言語問題を短絡的に結ぶことはできないが、気分のうえでは世界中の言語や風土の壁を低くすることができたようなのだ。今回の南米は英語より更に馴染みのないポルトガル語やスペイン語であるが、LUNAの情感たっぷりな歌唱によって、何度か胸に刺さりつつ一気に聴き進むことができたのだった。それでは、多くの知らない曲を紹介する。蝉のささやきという意味の「オ・ソープロ・ダ・シガーハ」、ブラジルの枯葉こと「フォーリャス・セカス」、9月だからという理由で採り上げられた「セプテンバー・ソング」、余りにも暗すぎる「オホーツク・ブルー」、軍事政権下のブラジル政府と庶民を比喩した「酔っ払いと綱渡り芸人」、一転して前向きな「ザッツ・オール」、その身を海に投じた女流詩人を歌ったフォルクローレ「アルフォンシーナと海」、切々と歌い上げる「ダニー・ボーイ」、ショーターのネイティブ・ダンサーでも聴かれるナシメントの「砂の岬」など、アンコールはLUNAの1丁目1番地「諸行無常」。まぁ、最近品数の多いLUNAの商いと聴衆の飽きないがシンクロしていたとでも纏めておこう。
ここで臨時ニュースが一つ。年末にLUNAと大物との共演が計画されているという噂を耳にした。JアラートはLUNAの新たな飛び道具を検知中。
(M・Flanagan)

2017.8.18  纐纈に入らずんばモンクを得ず

纐纈雅代(as)米木康志(b)竹村一哲(ds)
纐纈を聴くのは初めてである。音楽において第一印象は結構重要だ。記憶に残る入り口になり得るからである。今日では女性の管奏者が珍しくはなくなったが、そういう潮流に属する評判の一人という以上には予備知識がなかったため、演奏が始まると音色と作り方がオーネット・コールマン風で意外だった。同時にこれが彼女を特徴づけているのだろうと察した。このトリオは、オーネットの名高い“ゴールデン・サークル”と編成が同じなため不思議な偶然を感じてもいた。今どきオーネットがどれくらい聴かれているのか全く想像がつかないので、だれ?それ?と言う人のために、我流解説をすると“中心に向かって逸脱するクリエイター”、といったところである。また、別の面でこのライブを特徴づけたのは、さながらモンク特集の様相を呈していたことである。漏れ聞いたところによると、纐纈は最近になって天の啓示があったらしくモンクが舞い降りて来たのだそうだ。ライブでのモンク曲は定番のようなものだが、「レッツ・コール・ジス」、「スキッピー」、「テオ」、「ハッケンサック」、「ジャッキーイング」、「アグリー・ビューティー」、「クリスクロス」、ここまで盛られるのは異例だと言える。オーネットの「ディー・ディー」は別扱いとして、脇役に回った感のある「ラバー・マン」、「ソフィティケイテッド・レイディー」そしてアンコールの「セント・トーマス」ではあるが主役を脅かす出来栄えになっていた。今の纐纈を理解するためにはオーネット通りとモンク通りの交差点付近に立っている必要があるのだろうが、若干その手前で聴いてしまったのが悔やまれる。従って、筆者はこのライブから最大級の満足を得たとは思わないが、際立つ個性によって纐纈の記憶化には成功したと感じている。これが彼女の経歴その他を全く知らない者としての第一印象である。標題はモンクなしには纐纈を語れないということと、危険を冒さなれば巨人モンクの魂を手に入れられないという意味を込めたジャスト・ア・ジ語呂合わせだ。
折角なので。前日のライブについて一言寄せたい。メンバーは田中朋子(p)岡本広(g)米木康志(b)竹村一哲(ds)だ。数あるLBライブの頂点に君臨する伝説のクインテット(臼庭、C・モンロー、津村、米木、田中)については何度か触れてきた。前の三人はもう生で聴くことができない。そのクインテットが演奏した「ベラクルーズ」を田中は選び、追悼のオリジナル曲「レクイエム」を演奏した。伝説のクインテットによる不朽の名演は今なお生き続けている。目頭が熱なった。
(M・Flanagan)

2017.7.28-29 臼庭 潤メモリアル・ライブ

後藤篤(tb)和泉聡志(g)本山禎朗(p)秋田祐二(b)田森正行(ds)
回を重ねて来た臼庭潤メモリアル・ライブは、毎年、臼庭と縁のあるミュージシャンによって彼の愛奏曲やオリジナル曲が演奏されてきた。今回は、臼庭の到達点の一つであるjazz-rootsに関わった和泉と後藤が加わっている。臼庭はこのjazz-rootsに行き着くまでに長らく“jazzとは”“黒人音楽とは”そして“それを演奏する自分とは”と自問し続け、その帰結としてこのグループを率いることになった。正直に言うと、筆者は臼庭がLBで繰り広げた比較的スタンダードな選曲を交えたライブの支持者ではあっても、jazz-rootsについてはそれほど熱心ではなかった。そこで、今年のメモリアル・ライブに先立って、アルバム化されている「Jazz-Roots」と「Jazz-Roots Live!」の2枚を聴いて見ることにした。準備するのは、我々が勝手に思い込んでいるオーソドックスなジャズなるものを意識の中から取り除くことだけだった。すると、クルセイダーズ・ライクなサウンドが賑やかな一方で、演奏は例の臼庭らしい臼庭が“うっ素晴らしい”のだ(恥笑)。筆者はJazz-Rootsを大分誤解していたかもしれないと思った。臼庭は常々「楽しくやることだよ」と言って自己説明していたが、A・ヒッチコックの言葉“映画とは退屈な部分を取り除いた人生である”に近づけて言うと、臼庭の「楽しく」には音楽の退屈に対する徹底した異議申し立てが含まれていたのではないかと思えてならなくなった。臼庭自身、聴衆に対しては彼の「楽しい」一面を示すことを以て良しとしていたに違いないとしてもである。
ライブの話に切り替えよう。今回は泉と後藤が参戦しているので、当然ながらJazz-Rootsのサウンドが意識されたものであった。後藤のトロンボーンは、予想外にぶっとい音で小細工無用の大らかに突き抜ける歌いっぷりは聴き応え十分、初めて聴いたがいい値札がつきそうだ。臼庭はよく「難しいことやる必要ないよ」と言っていたが、後藤は「臼庭さん難しいことやるんですよ」と言っていたのが面白い(又は「尾も白い」)裏話だ。20才くらいの時に臼庭から声がかかったという現在30代後半の和泉は、LBでその実力は証明済みだが、咄嗟に選択されるソロ・フレーズの緊張感、効果音やバッキング、カッティングのタイミングと切れ味は抜群で気持ち良いぐらいサウンドを豊にしていた。人呼んで8系のスペシャリスト田森は本人も認めるように嬉々として演奏しており、彼の本領が如何なく発揮されていたのだった。最近、多様なビートをモノにしている本山の気後れしない奮闘ぶりも大変好ましい。そして、晩年の臼庭と共演した盟友秋田だが、この日のグルーブ感は神(又は「カニ」)がかり的で、これは間違いなく臼庭メモリアルが引き出したものと断言しておく。
選曲はもちろん臼庭に因んだものだ。「アンチ・カリプソ」はLBでのレコーディングCD「LIVE AT LAZYBIRD」にも収められている。元々はE・ジョーンズの余り目立たないアルバムにある曲で、エルビン以外では臼庭がこの曲を普及させた立役者という説もある。モンクの「ベムシャ・スイング」と本田さんの「スーパー・サファリ」を臼庭が選曲した記憶はないが、他曲の中で天才的に引用していたのは鮮明に覚えている。田中朋子さん作の追悼曲「レクイエム」は、やり場のない時に聴くと泣けてしまう決定版。それからヒッチコックの“知り過ぎていた男”から「ケセラセラ」、イタリア映画の同名主題曲「ひまわり」が提供された。いよいよ臼庭の座右の曲S・ロリンズの「ペニー・セイブド」とクルセイダースの「ハード・タイムス」で大きなひと山が作られた後、様々な音楽を吸収していた臼庭の引き出しからブラジルものの「ベラクルース」、「ナナ」がふた山目となって、我々は臼庭山脈を視野に捉えることができたのだ。両日ともアンコールは臼庭の作品でJazz-Rootsのエッセンスが凝縮した「アーバン・ナイツ(Urban・knights)」で締めくくられた。時折、筆者の脳裏から飛び出した臼庭はこのメンバーの中央付近で「楽しそうに」サックスを吹いていた。
かつて臼庭とLBマスターと筆者は、果てしない駄洒落トライアード・ラリーを繰り広げたが、あの日のギャグ・ルーツは未だに根腐れを起こしていない。(続く)
(M・Flanagan)

2017.7.7 池田「いる」の証明

池田篤(as)壼坂健登(p)若井俊也(b)伊藤宏樹(ds)
 冒頭から脱線してみよう。最近、金銭の授受が「あったか・なかったか」という政治ネタで『悪魔の証明』なる言葉を耳にすることがあるのではないだろうか。これは「ない」ことを証明する難関の話だ。それを拝借すると、我が国に世界的なアルト・プレイヤーが「いない」ことを証明しようとすると、全国のアルト・プレイヤーをつぶさに聴いて回らねばならず、証明は不可能になってしまう。一方、世界的アルト・プレイヤーが「いる」ことを証明するのは余りに容易だ。池田を連れてくれば証明を果たしたことになるからだ。ひと月ほど前に池田の25年くらい前の演奏を聴いてみたが、そこには既に確立された池田が「いた」。従って時を遡っても「いない」ことを証明する必要はなく、全国行脚の難を逃れることができた。
 それはさて置き、池田はレポートしづらい演奏家の一人である。ソロからビッグバンドまで広範な活動を行き来していて、特に、五十代になってからは圧巻のパフォーマンスを繰り広げていると言い切ってしまうと、それから先に進めそうになくなるからだ。つまり、池田クラスになると凄さレベルの再確認という聴き方で静止してしまいそうになるのだが、池田自身には静止せざる時の無常さが襲い掛かっていた。前回(昨年12月)と今回のライブの間に、あの辛島文雄さんが生涯を閉じたのだ。このライブにおいて池田は、辛島さんに捧げるオリジナル数曲を演奏した。Jazz人生賛歌「イッツ・ウェイ・オブ・ライフ」、亡くなる10日前が最後の共演になったという追憶の「ラスト・セット」。池田のコメントがなければ、含みを持たない1曲ずつという聴き方になったかも知れない。だが、いや応なく捧げられた1曲ずつとして聴くことになった。生前に辛島さんから“難曲なので演るなら自分のバンドで演ってくれ”と言われたらしい「スパイシ-・アイランド」は渾身のレクイエムとして我々の耳に焼き付けておくべき演奏であった。ライブが甚だ深刻な雰囲気だったように思われるだろうが、これは筆者の“印象操作”であって、実際は今日のジャズ・シーンの最前線を走りゆく『池田「いる」の証明』ライブだったのだ。計画中のLB殿堂入りミュージシャンに池田を外すわけにはいくまい。
 メンバーのことに少し触れてみよう。初めて聴くピアノの壼坂は、若干22歳の若者とのことであるが、相当弾きこんでいる腕前である。しかし、それよりも、バンドの中にピアノを乗せていく役割意識を楽しんでいる様子が伝わって来たのが嬉しく、可能性を秘めた逸材。ベースの若井はLBで大関の地位にスピード出世したことは周知のとおりであるが、回を重ねるごとに“大関の名に恥じぬ”演奏が頼もしい。地元24区選出の伊藤はこのメンバーに熱くならない訳には行かない。ある曲でドラムソロが収まらなくなる一幕があり、演奏展開に暗雲が立ち込めた時、池田がそっと絡み始めてこの両者による繋ぎの流れに持ち込まれたのはハプニングではあったが、これも“ライブだけの特権”だ。
 冒頭の『悪魔の証明』に戻るが、LBに悪魔が「いる」か「いないか」を問われれば、「いる」派の圧勝に違いない。一体誰のことだろうか?自分のことかもと慌てる人物を安心させるために、それはJAZZという人格を持った音楽であると纏めておこう。
(M・Flanagan)