村上春樹の文章を読んでいて思い出したことが有る。村上はある時期まで一人称で小説を書き「僕」を採用していた。文章を書く時自分の事を何と呼ぶか問題である。私、わたくし、俺、僕、わし、拙者、おいどん、あたい・・・・。ブログを立ち上げるにあたって数秒ほど悩んで僕になった。だが今の実生活では9割「俺」であらたまった美千代の席では「私」を使っている。僕が「僕」という言葉を使っていたのは中学生までである。だが文章となると何故僕の方がしっくりくるのか・・・。俺だと少しぞんざいに感じ私だと少し改まった感じがする。間をとって僕を選んだのかもしれない。僕らの世代にある日本人中流意識の表れである。ついでに家族、親戚の呼称である。学生と飲んでいて話題が家族の事に及ぶと違和感が有る表現に出会う。皆母親の事を「おかあさん」と呼ぶのである。「単位落としてしこたまお母さんに怒られた・・・。」上半身Tシャツなのに靴はリーガルのローファーみたいな組み合わせで違和感が有る。バイトしながら学費を捻出する苦学生でありながら甘えている印象を受ける。有る世代までは人前で話す時は母親父親と呼ぶようにと教育されたのだと思う。自分は自宅でお母さんと呼んでいたのは高校の途中までであったような気がする。ある年からは母親の事はテレクサ・テンでお母さんとは呼べない。ずっとおふくろである。先日叔父の葬儀が有った。その席で僕は3番目の年長者であったが全員「ちゃん」付けで呼び合っていた。共同体の中では当たり前の呼称であるが外から眺めているとちよっと違和感を感ずるのではないかと思う。女性は9割5分自分の事を「わたし」と表現する。吉原の遊郭の様に「わちき」とかガード下のパンパンの様に「あたい」と自称することはない。日本の様に職業、地方、階層によってこれほど呼称が豊かな言語はない。女性の自称が「わたし」に収束していったのは社会での女性の位置の象徴でもある。
