前説
珠玉の名作映画のVHSビデオが4,5百本ある。だがビデオデッキが故障して視聴不可能となってしまった。勿論第三の男もある。時々映画が見たくなると近所のレンタルビデオ屋に足を運ぶのだがネットフレックス全盛の時代に在庫はどんどん縮小し減価償却したDVDは格安で販売されている。第三の男もその中の一枚であった。もうこういう映画を見る人も減ってきたのだろうな・・・と思うと少し寂しくなる。捨て犬を引き取る気持ちで購入してきた。480円
何度となく見ているのだが冒頭から新発見が有った。或いは毎回見てはその都度忘れているのかもしれない。ウエストミンスター寺院の鐘の音から始まるのであるがマイルス・デイヴィスのIF I ware bellのR・ガーランドのイントロなのである。舞台はGHQに占領されているオーストリアである。ロケはオーストリアであるがセットはイギリスで撮影されている。冒頭ビックベンが写されるのもその影響である。いわゆるミステリーに分類されざるを得ないのであるがそこに着目して見てもすっきりしない。オーソンウェルズ演ずるハリー・ライムは戦後のオーストリアでペニシリンで一儲けしている悪党でGHQから追跡を受けている。その友人ジョセフ・コットン演ずるホリー・マーチンがアメリカからハリーに呼び出されるが到着当日ハリーは交通事故でなくなっており埋葬のシーンから始まる。そこには愛人であったアンナとハリーを追いかけていたGHQのイギリス将校キャロウエイ少佐の顔も見える。この映画がミステリであるならばホリーが呼ばれた理由が明らかにされなければならない。一緒にひと仕事しようや・・・と言う事らしいのであるがホリーどう考えても何の能力も無いように見える。職業は西部劇ものを描く三文小説家であるがドイツ語は全く分からずオペラを見ても付いて行けず、作家と言う事で持ち上げられて講演会をするがジェームス・ジョイスの「意識の流れ」についての見解を求められるシーンでは名前さえ知らないことが露呈してしまう。ホリーはあほなアメリカの象徴なのである。この映画を撮るにあたってキャロル・リード監督と脚本のグレアム・グリーンはウイーンの現地調査を行い戦争の傷跡や悪質なペニシリンの闇市場を状況を踏まえたうえでアホなアメリカ人をウイーンに来させるというところから始めるということだけ決めてフィルムを回し始めた。極めてジャズ的な手法である。交通事故を装い死亡を偽装したハリーはホリーと再開するのであるが大観覧車の上から戦争で荒れ果てたウイーンを俯瞰し文字通り上から目線でアメリカは伝統あるオーストリア・ハンガリー帝国の文化的遺産を破壊し何十万を死に追いやった。たかがペニシリンの薬害で何百人死のうと取るに足りないことではないのかと言い放つ。ある価値観の崩壊を匂わせる。ハリーは悪の権化、聖なるホリーという名のアメリカ人は無教養、非知識人として対比して描かれる。観覧車からウイーンを見下ろし大言壮語を吐いたハリーは最後地下水道の中で汚物まみれで死ぬのである。高低の対比・・・。アンナとハリーの関係も単なる愛人関係ではないことがわかるが具体的には語られない。アンナがどれだけハリー惚れていたかののろけ話を聞いた後にエースコックの子豚のようなハリーが現れると思わず聴衆はこの男のどこが良いの…・と突っこみを入れたくなる。ホリーは旅券偽造でロシア側に捕まったアンナを助けるためホリーをキャロウェイ少佐に売る。ホリーはイエスを裏切るユダでありハリーは堕落したイエスでありアンナはイエスを見守るマグダラのマリアなのである。
ラストシーンは冒頭の墓地と同じ場所で終わる。音楽的言うとよく後テーマに戻ってくれたよね…という感じである。ハリーの本当の埋葬が終わった後墓地を後にするアンナ・・・並木道をこちらに向かってくるロングショット。彼女を待つホリーには一顧だにしないで通り過ぎる。グレアムグリーンの小説ではハッピーエンィングで終わっているがキャロルリード監督はそうはしなかった。カメラワークも特徴的で有る部分だけカメラが傾いている。これはホリーの心の動きとシンクロしている。この映画にも映画史上に残る名セリフがある。観覧車のシーンでのハリーのセリフである。
「イタリアではボルジア家30年の圧政の元にミケランジェロ、ダヴィンチやルネサンスを生んだ。スイスでは500年の同胞愛と平和を保って何を生んだか。鳩時計さ」このセリフは脚本のグレアムグリーンの作ではなくオーソン・ウェルズのアイディアである。映画の中ではハリーが堂々とこのセリフを吐いているが参政党の選挙演説の様に嘘が多い。ダヴィンチはメディチ家の庇護のもとその活動をしたし鳩時計はスイスではなくドイツで作っている。だがこの映画のヒットによってスイスでも鳩時計を作って観光土産で一儲けしている。まあ、東京にバナナ園はないが東京バナナがお土産のベスト5に入っているのと同じだ。
夜のシーンが諧調的で限りなく美しい。石畳の映像はブラッサイの写真を思わせるがブラッサイもオーストリア・ハンガリー帝国出身であった。一年に一度は見たい作品である。