2021.8.20 松島&山穰5 ウルトラQ

松島啓之(tp)山田穰(as)本山禎朗(p)柳真也(b)伊藤宏樹(ds)
ウルトラQとは、怪獣系の草分けと思って頂いても結構であるが、素朴にウルトラ“Q”uintetのことである。それはさておき、ご存知のとおり松島は定期的な出演枠を持つtpのトップ・ランナーである。そして今回は継続的に共演を続ける山穰入りという願ってもない贅沢な編成だ。LBでの山穰は7、8年ほど前のLiveを最後に少し遠ざかっている。従って、待ち望まれた再登場である。思い起こすと山穰と言えば若き‘90年代を駆け抜けた花形プレイヤーという印象が強過ぎて、個人的には演奏家としての全体像が明快にならない。職業評論家なら豊富な情報を背景に俯瞰的に論ずるのだが、素人のライヴ・レポートというものは、限られた聴音体験しか持ち駒がないので、そこは割り切るより他ない。そうではあるが地方都市にいて、“これは是非聴きたい”と気がはやるLiveに足を運び、それが僅かずつ積み重ねれられた位置で、Liveの素晴らしさを伝えたいと願うことに徒労感はない。少し勿体ぶった物言いになったが、これも行動抑制下のストレスによるものと容赦願いたい。まずはおおよその流れを紹介しようと思う。最初の数分でこの日の全貌が掴めた気がした。自明のことだが、演奏が終わるまで全貌が分かる筈ないのだが、時として“今日は行っちまうな”と確信することが、時おり起きるのだ。松島の「Back to Dream」で幕を開けたのだが、2管で立ち上げ、松島のソロへ突入した、彼は音一発でライブの醍醐味をぶっつけて来る。こっちに向かって突き抜けてくるのだ。そして山穰のソロ、彼はどのような局面でもロジカルに演奏を発展させるタイプと思っていたが、やや感情を前に出す展開に持って行っているような印象を受けた。そしてそれが何ともこっち(胸)にくるのだ。この様子は最後の最後まで継続して行ったのである。開演が導く快演の連鎖というべきか。最初の数分に予期したことが的中したのは、勘が冴えていたのではなく成るべくして成ったに過ぎない。2曲目はガレスピーの名曲「Con・Alma」、松島のワン・ホーンによる「Skylark」、N・アダレー「Tea met(と聞こえた)」、柳を大きくフィーチャーしたP・チェンバースの「Ease It」、松島作「Treasure」、山ジョーのワン・ホーンによる「My Foolish Heart」、音の深みを握りしめて離さない雰囲気が充満していて、説得力に溢れていた。バラードと言えば内省的味わいを噛みしめるのをイメージするが、その佇まいを保ちながら情感が注がれていく様に喉元から変な唸り音が出てしまった。制限時間一杯に選曲されたのはお馴染みの「Lotus Blossom」、ウルトラ“Q”uintetの百花繚乱サウンド、中でも山穰のソロは圧巻だ。鳴り止まぬ拍手が残業命令となって「I’ve never been in love before」に突入した。迫り来る閉店時間と忍び寄る国防婦人会の見回りに最高度の緊張感が走る。だが、事なきを得て無事終演した。いつまでも拍手は鳴り止まなかった。これは忘れられないLiveになりそうだ。記憶に納められた財産は減価しないからである。振り向けばドアの前に“立ち見”のお客さんがいて、ドアーズの“Touch Me”を思い出してしまった。
晴れないモヤモヤがまとわり付いて久しいが、それを吹っ飛ばすLiveが終了した。禁酒法の適用下でウーロンを含みながら、ふと思い出したことがある。Tpのクラーク・テリーがエリントンをこう評していた。『彼は人生も音楽も常に生成過程におきたいんだ』。
(M・Flanagan)

So what

So what
D
昨年の一月初旬の事である。身近で初めてコロナの感染者Xが出た。あるライブにお客さんとして来ていた。その事実を知ったのは数日後、それも直接は関係のない人間からであった。こういう情報はすぐ伝わり、悪意はないもののなぜ発表しないと言うような言われ方もした。直後のライブは2,3回中止にし自分とミュージシャン2名はPCR検査を受けに行った。9割は連絡のつくお客さんであったのでその旨連絡した。Xはlazyの前日に言った店には自分で連絡したことを知って憤慨した。その後しばらくしてXから入院してライブを穴開けたことを詫びるメールが来た。感染したことを非難する気は毛頭ない。だが詫びるポイントが違うのでなぜ連絡をくれなかったのかを聞いた。保健所の判断でlazyにいた日は濃厚接触者に該当しないし、知らせる知らせないかは個人の権利であると言った。Xは学生である。行政はどこかで基準を作って白黒をつけるが世の中杓子定規に動くわけではないことを説明し納得してもらった。濃厚接触者の基準があるのである。当たり前の話だが。
E♭
百貨店大手伊勢丹が社員、出入りの業者にPCR検査をしないように指示を出した。検査をせざるを得なくなった場合は結果が出る2日前から会社を休むよう指示を出していた。先の濃厚接触者の定義とかかわる。濃厚接触者が出た場合はその職場は封鎖せざるを得ない。その法の目をくぐる措置と言える。だがこの問題は一企業の問題ではないと思っている。現在過去最高の感染者数である。だがPCR検査数は伸びていないのである。これは初期の頃からの政府の政策であり、感染者数を低く抑え込むための統計操作である。と言う事は感染者数の割合はもっと多いはずである。無自覚感染者が白昼堂々闊歩して感染を拡大させている。最近のクラスターが出る職域、領域が変わってきている。学校、塾、百貨店、北海道で言えばアイスホッケーの試合。「夜の街」のクラスター頻度は落ち目になっている。だからライブは安全ですと言う気はさらさらない。ただ政府のゲームセンターのモグラたたきのようなまん防延長対策には流石に辟易している。
ニュージーランドでは一度収まったが感染者がでた。一人出ただけで3日間のロックダウンである。感染経路を徹底的に調査し封じ込めるためだ。ジャシンダ首相にお願いされれば法的整備などなくとも3日間ぐらいは我慢する。臭いにおいは元から立たなきゃダメ・・・というトイレの消臭剤の手法が一番効くのである。
こういう状況なのに明後日の松島&山譲2daysは満席である。こういう日に限って道の時短調査員が来そうな悪い予感がする。言い訳は考えてある。
「お酒は出していませんね」
マイルスのように「so what」って言ってみたいものである。

終戦と敗戦その2

8月15日の靖国神社前の映像を見た。降りしきる雨の中、参拝に訪れた国民が列をなしていた。そこにいた国民のほとんどは戦争を賛美するつもりもなく右翼思想の持ち主でもなく素朴な気持ちで行っているのだろうと想像する。そしてそのことが何より根深い問題なのだと思う。
靖国神社の宮司が、戦争初期、日本軍人の妻にかけた言葉を読んだ。
「あなたの夫は天皇陛下のために笑って死んだ。『おお、よく死んで下さいました』と褒めよ。泣いては天皇陛下に済まない。夫は靖国神社で生きている。夫の名を辱めるな」。
これが靖国神社の正体である。
戦後の日本の平和と繁栄が先人たちの屍の上に成り立っているという言われ方をする時がある。誰しも死者に鞭打つような発言をしたくない所に付け込むすきがある。全くの間違いである。日本は終戦を迎えた。完敗して無条件降伏を受け入れ特攻を肯定するような価値観を全否定したうえで人権人命を尊重する社会に変質したことで獲得した繁栄のはずである。
小津安二郎監督の映画の「秋刀魚の味」の一場面である。戦友の笠智衆と加東大介がばったり出会いバーで飲むことになる。
「日本が戦争に勝っていたらどうなっていたのですかね」
「負けてよかったんだよ。つまんない奴が威張らなくなった」と言うやり取りがある。
小津は当時の事をチクリとユーモアをもって批判して見せる。
「終戦以来74年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられました」
天皇のお言葉である。昨日安倍元総理の発言を掲載した。「命を捧げた英霊」と「戦没者の皆様の尊い犠牲」の上に成り立った反映であるとするなら先の戦争は正しかったと言う意味になってしまう。お二人の言外にある「歴史認識の違い」をじっくり考える必要がある

終戦と敗戦

「終戦の日にあたり靖國神社に参拝致しました。先の大戦で父や母、妻や子、愛する人を残し戦場で尊い命を祖国の為に捧げたご英霊に、尊崇の念を表し御霊安かれとお祈り致しました。」
安倍晋三
靖国神社を参拝した際の安倍元総理のコメントである。一見どうと言う事のないコメントに見える。重要なのは命を捧げたのではない。捧げさせられた・・・端的言うと時の為政者に命を奪われたと言う事である。必要なのは謝罪の言葉である。
また中国と韓国から猛反発を食うであろう。わざわざ緊張感を高めるような行動をして危なくなるとアメリカの後ろに隠れてアカンベェをして見せる。それは外交コストあるいは防衛コストの増加を意味する。オリンピック以上の税金の無駄遣いである。
今日8月15日は終戦記念日と呼ばれている。黙っていて戦争が終わったわけではない。ポツダム宣言を受諾して日本の敗北で戦争が終わったのである。この敗戦を終戦と呼び変えたところに戦後のほころびのすべてがあると考える。アメリカ追随によるアメリカからの独立と言ったある意味論理矛盾を起こす2回宙返り2回ひねりという「ねじれ」の中で我々は生きている。敗戦という現実を経済成長などの華麗な衣装で覆い隠してしまったことをもう一度「反省」しなおすべきと考える。そうすると基地問題、領土問題、慰安婦問題、憲法問題のスタート位置が見えてくる。
アウシュビッツでの収容を生き延び、35年間アウシュビッツ・ミュージアムの館長を務めたカジミエシュ・スモレンさんが残した言葉を紹介したい。今を生きる若い世代に語り掛けた言葉である。「君たちに戦争責任はない。でも、それを繰り返さない責任はある」
ドイツは政権トップも謝り続けている。だから国際社会から日本のように難詰されることがない。

ロンメルとエーデルワイス

知らない人の名は何かと何かを足したような名前だなあと思う事が良くある。
今日は「手洗い消毒法」の提唱者ハンガリーの医師ゼンメルワイスの命日だそうである。当時の医学界では受け入れられず、精神病院で看護人になぶり殺させる非業の死を遂げた。
追悼の意を込めていつもより丁寧に手を洗った。
五輪とコロナ感染は無関係という人がいる。
少なくとも五輪に投じた予算、人的リソース、ホテルや体育館などの空間、食料、広報などあらゆる兵站を感染対策に投じられたことだけは確かである。
茂木健一郎などの科学者も五輪とコロナ感染は無関係と豪語している。そういうなら科学者らしく根拠を示してほしい。人の往来が増えれば感染拡大につながるから不要不急の外出を自粛しているのではないのか。五輪関係者が海外から5万人来て、警備、運輸関係者が全国から相当数集まってきた。現在過去最大の感染者数である。今の数字が2週間前の感染と考えるならオリンピックに関する移動が開始した時期と合致するのではと素人でも考えるのである。
その一端を警察官が証明してくれている。応援に来た千葉、静岡、福島で感染者が増加している。警備の警官の感染者数は72人である。
ところがコロナに勝った証としての五輪が終わった4日後、東京では「これは災害と同じで制御不可能である」と急に自己防衛を迫られている。これは良く戦争映画で見られるが・・・例えば「男たちの大和」なら艦長の役所広司が沈みゆく大和の司令塔で「もういいだろう」という。そこで初めて「非難せよ」という指示が出る。
その後は誰の命令も聞かなくても良い。生き延びられるものは生き延びよと言う命令である。
そんな重い指示を簡単に出してもらっては困るのである。
西村大臣は12日に「今からでも帰省をキャンセラ、キャンセラ・・」と歌い出した。迎え火の前日に言ってもキャンセルは難しい。でも政府としては「帰省をキャンセラ」と言ったからな・・・感染が拡大したらお前たちが指示を守らなかったからだからな・・・と羽田空港の搭乗率などを出してしたり顔で言い訳を言うはずである。
帰省が不要不急の用事なのかを考える時に参考になる意見を丸川珠代五輪相が言っている。
バッハ会長が警備員を従えて銀座を散策した時の事である。
「銀座散策は不要不急の用事ではないのですか」
「それは個人の考えで」
ああ・・・個人の考えでいいんだぁ。
「キャンセラ」を歌った西村経済再生担当大臣は靖国参拝に出かけた。これは不要不急の用事ではない。自民党総裁候補に入れてもらうための必要条件が、産経新聞のカメラマンを伴っての靖国参拝だからである。
それは必要至急の用事だよな。

2021.8.6  本山禎朗4 ヒートでジャンプ

本山禎朗(p)米木康志(b)伊藤宏樹(ds)+山田丈造(tp)
札幌は連続真夏日の観測記録を更新する熱波の只中にあった。しかも個人の話で恐縮だが、ワクチン摂取により少々熱っぽく頭がフワ~ットしている始末である。かかる事情下とはいえ、例年と異なり今回の米木さんが本年最初で最後ということなので、奮い立たねばならない。加えて丈造の参加で真夏の夜のジャズはあらゆる熱を好作用に導くだろうと期待が膨らんでいった。そしてスタート時間の繰り上げを余儀なくされているなか、リーダーの本山が時間の制約に配慮して簡潔に開演宣言を行ったのだった。
1曲目はガーシュウィンの「エンブレイサブル・ユー」、これは熱さ求めて前のめりになるのを戒めるような端正で落ち着いた演奏。2曲目は米木さんが今年リリースしたアルバム“SIRIUS”からハロルド・ランドの「ワールド・ピース」、終始ベースのビートに乗っかって各自が開放的なプレイを展開し、ややアクの強い曲を一般人の耳にスンナリ入ってくるように仕上げられていて、聴き応えがあった。次は数多くの名演・名唱がのこされている「アイ・フォーリン・ラブ・トゥー・イージリー」、丈造のバラード感性が格段に研ぎ澄まされていることを印象づけるものだ。4曲目はE・マルサリスの「スインギン・アット・ザ・ヘブン」、多くのライブがそうであるように、終盤の聴かせどころは渾然一体感を流し込む仕様である。そしてその通りとなったのである。締めくくりは「ストレイト・ノー・チェイサー」、ぜい肉なし。
ご存知だろうか、1960年代にフィフス・ディメンションという歌のグループがあった。彼らには“ビートでジャンプ”という割と知られたナンバーがある。“ビート”から煩わしい濁点を取っちまえばスッキリするだろうと他愛ないことを考えていたが、演奏者・客ともども熱さ満開の“ヒートでジャンプ”に行き着いてしまったと言える。
なお、冒頭に述べたとおり、今年の米木さんは聴き納めとなるので、あと2daysを覗かせて頂いた。鹿川暁弓3とNate Renner3である。両者とも高鳴る緊張感を露わにすることなく一身に演奏する素振りが見て取れ、持ち味が十分引き出されていたように思う。三夜を通じて攻めの姿勢を緩めることのない米木さんに改めて頷かさせられた。そこには生き続けるジャズとは何かという問いが漂っていた。
(M・Flanagan)

電気グルーブ

何人かのツィッターは毎日チェックしている。そうすると横の広告欄にトレンドという欄があり今話題になっていることが表示される。その欄をクリックすることはほとんどないが昨日「電通グループ」がトレンドになっていた。我々の業界が苦しい中オリンピック関係で莫大な利益を出していることが話題になっている事への批判と思い開いてみた。勿論そういう内容のつぶやきもあったが、圧倒的多いのは「え、電気グルーブでないんだあ」という若者のつぶやきであった。
電通グループの今期、1075億円の最終黒字に転換 上場来最高益見込んでいる。確かに五輪でも儲けているが内情はそんなに楽ではないのである。今季自社ビルを890億で売却した。その電通を救うためにどうしても五輪を開催する必要があったともいえる。開閉会式の予算当初165億。最終のプロデューサー佐々木氏には10億でやってくれとの依頼があった。仲介料が発生するのは理解できるが110億は凄すぎない。この補填はまわりまわって税金で埋められる。コロナ専門の病棟何棟建てられるのであろうか。因みにリオの予算は20億であった。
宴は終わった。日本選手も活躍したし、結局みんな見たんでしょ・・・。もう終わったことにぶつぶつ言うのは止めて手打ち式にしませんか・・・という意見が絶対出てくる。
駄目である。こんな愚かな運動会さえ止められなかったことを猛省しなくてはならない。非常事態条項をネタに憲法論議を仕掛けてくると思う。戦争も止められない・・・・と言う事を現実的に考えるべき時が来ている。
·

Jazz紳士交遊録vol22 山田丈造

東京では北海道出身の有能な若いミュージシャンことが話題になっている。その先駆者的な存在が竹村一哲や山田丈造である。勿論最近の話である。大御所の話まですると水橋孝、米木康志、元岡一英、小山彰太、高橋知己、・・・石を投げると北海道出身のミュージシャンに当たるほど豊富な人材である。北海道は相撲王国でもあったがjazzミュージシャン大国でもあった。丈造に初めて会ったのはlazy でのライブにjazz研の先輩に連れられてきた時だ。
「こいつ、トランペットうまいんですよ」と紹介された。金髪でいかにもチャラそうな見てくれで気に入らなかった。音を初めて聞いたのは北大の学園祭だった。すべてが他の部員とはレベルが違っていた。話して分かったがjazzの歴史にも詳しい。造詣が深いと言ったほうが適切かもしれない。小さいころから親御さんのLPを聞き漁っていたからだ。ジヤズの遺産を消化したうえで自分の個性を継ぎ足す重層的な仕事をしていると感じた。だから林栄一、秋山一将のバンドに入ってもぶれない。音色もブリリアントだ。
丈造は今年リーダーアルバムをリリースした。素晴らしい内容である。「TAKEZO YAMADA SPECIAL」是非ご購入の上聴いていただきたい。そのアルバムのインタビュー記事がjazz誌に掲載されている。プロになろうと決心した時の事が書かれている。Lazyであるミュージシャンに言われたことがきっかけになっている。そのミュージシャンの一人、米木と8月6日にここで演奏する。感慨深いものがある。僕の役目は機会を作って後はじっと待つだけ。芽が出る養分の足しになればこんな嬉しいことはない。
付記
トピック欄もご覧ください

It’s a wonderful world

今日はルイ・アームストロングの生誕120年に当たると言う。残念ながら素晴らしい世界には程遠い。
政府はとうとう「重症以外は自宅療養」と言う方針を打ち出した。定義上入院しない限り重症であるかどうかは分からない。だから重症者が入院できないと言う事はありえない。究極の詭弁である。見つからなければ浮気はないと言う論理とどっこいどっこいである。まずは自助、家族がいれば共助まで。一人者は先ずは自助、死ぬまで自助でさようならである。
これが医療崩壊でなくて何なんだ。
なぜ諸外国のようにコロナ専用の臨時病院を開設できないのか。2020年2月。中国は「軽症者の」隔離のために体育館を軽症専用の臨時病院として使い、軽症者からの拡大抑止に活用した。武漢での感染爆発をそれで防ぎ通常の市民生活を取り戻した。昨日新たに一人の感染者を確認した。重ねて言うがたった一人である。変異株の可能性があると言う事で全市民のPCR検査を実施すると言う事である。中国の政治体制に与するものではないが参考にできるものは取り入れるべきである。アメリカのニューヨーク州でもクオモ知事があっという間に必要ベッド数を確保して見せた。なぜ東京でできない。施設と予算を全部五輪に突っ込んで大博打を打っているからである。
にっちもサッチモ行かないこの状態は人災である。
付記
トピック欄もご覧ください。

スポーツウオッシング

スポーツウオッシングと言う言葉があることを元ラクビー日本代表の平尾剛氏から教わった。
スポーツウオッチングではないので念のため。政府や権力者が自分たちに都合の悪いことをスポーツの喧騒で洗い流すことを意味する。オリンピックが開催されてからのアンケートで「開催して良かった」と思う人の割合が70%を超えている。この数字を見ると政府の思うつぼになっている。NHK他マスコミの報道の仕方もそれに拍車をかけている。
「五輪を反対している人がいるのも知っている。そういう人を見返したいと思って、この1年頑張ってきた。そういう人たちに思い知ったかと思ってもらいたいです。」
体操女子団体で銅メダルに輝いたエース村上茉愛のコメントである。「おめでとう」と言う気が一気に萎えてしまう。こういう人が将来IOCの幹部になると橋本聖子や山下泰裕のようになってしまうのだろうなと今から危惧するのである。スポーツが社会と切り離されたところで巨大化してきた事実がある。そして社会との接点を切り離すことが競技性を高めると信じ込まされた純粋培養的なアスリートがスポーツフアンをも分断する。スポーツの力と感動とメダルの数が最悪の感染爆発と向き合う事を妨げている。
川村健夫元官房長官は「日本のメダル獲得数が増えると自民党に票が流れる」と発言している。菅総理も同じ考えのはずだ。国民の健康より自民党の利益を優先すると言う事である。日本選手は手駒に等しい。村上茉愛のような発言は願ったり叶ったりと思っているはずである
何度も言うが決してスポーツが嫌いなわけではない。
付記
トピック欄もご覧ください。