G7の議題

今回の議題はコロナ問題、中国の海洋進出、人権問題、環境問題、ウクライナ問題多岐にわたっている。いくらG7と言っても一度に解決するわけではない。オリンピック開催の是非など議題には入っていなかった。ところがNHKのラジオでは「バイデン大統領が開催を支持した」と報じていた。ネット情報では海外メディアはほとんど触れていない。5月14日は新聞休刊日なので詳しくは分からないが反対の口封じの為にG7を利用したとしたら言語道断だ。
こういう席上で「オリンピックは止めなさい」と言う首脳はいないと考えるのが普通だ。「まあ、やるなら、気を付けて」程度の発言はすると思うのだが「各国首脳の熱い支持があった」などと報じるのは印象操作以外の何物でもない。続報を精査したい。
付記
休業中であるが店には毎日行っている。ネット環境が店にしかないからであるが、半分は健康の為に歩くのである。午後4時、店に着くとガラガラと台車の音が聞こえる。酒屋さんがビール樽を運んでいる。この界隈では二軒だけ堂々と営業しているがそこではないようである。ヒッソリといおうかこっそりといおうか営業している店があるようだ。酒屋さんとすれ違うように二人組がバインダーを見ながら歩いてくる。Lazyの隣の会館の前で話している。「XXXXは休んでいるんですかね」「張り紙していませんね」店の前に来たので聞いてみた「何の調査ですか」道の依頼を受けて休業の張り紙を張っているかどうかをチェックしているのだと言う。僕の所はシャッターを開けたドアに休業の張り紙をしている。たまたまその時いたから確認してもらえた。普通雑居ビルの1Fのシャッターに入居店舗全店の張り紙を張ることは無理である。係員は言う「場合によっては補償金が出ないことが有るんです」請負の人に言っても埒が明かないので剥がされるの覚悟で壁に張り紙を這って店を出た。9時にもう一度見回り来ると言う。今回の緊急事態下では見回りの回数がやたら多い。休業補償の申請の時一悶着がありそうな予感がする。
トピック欄もご覧ください。

鶴の恩返し

コロナ禍での営業が1年3ヵ月ほど続いている。一昨年の周年記念時には東京で緊急事態宣言が発出された。米木、鈴木央紹など東京組には予定通り来てもらったが客足は伸びず散々な結果に終わった。少額ではない負債を抱えながらのコロナとの戦いが始まった。その後札幌でも休業要請が出てどうにも資金繰りが回らなくなった時期があった。店の常連、北大azz研OBなど多くの人に助けてもらって何とか現在に至る。ミュージシャンにも助けてもらった。ベースの立花泰彦は店救済のCDを制作し道内のライブハウスを支えてくれた。Lazyにはライブ時の音源が多数残っている。想い出語りの為で販売の為のものではない。本山から自分が参加しているものを販売してはと言う提案を受けた。米木康志、楠井五月、小松伸之らの協力も得て
二枚のCDを販売させてもらった。本山本人も自分の参加CDあるのにこちらのCDを優先的に販売してくれて急場をしのいだ。落ち着いたらミュージシャンにも還元できる企画を考えたいとこの場に記した。だがずっと自分の火の粉を払うので忙しくその機会が回ってこなかった。現在も非常事態宣言下にあり店は休業中である。皮肉なことに休業中は赤字にはならない。数か月辛抱すれば補償金が入る。勿論その後も大変なのであるが少しでも恩返しをしたいと考えた。と言う事で下記のCDRを販売し全額ミュージシャンの援助に充てたいと思う。
本山は周りにも大変なミュージシャンがいるので少しでも手助けしたいと言っていた。その人徳を信用しての事である。内容については牛さんのライブレポートをお読みいただきたい。
タイトルに誤植があった。正確には「つる禿の恩返し」である。夜な夜な反物を織っているわけではない。
対象 6月1日本山禎朗solo piano
料金 ¥2000
購入方法 下記の口座にお振込みください。
北洋銀行 札幌駅南口支店 普通 口座番号3624418 名義ヨシダ ナオシ
申し込みの際はご住所をお知らせください。郵送いたします。

2021.6.1  本山禎朗 孤高のソロ

本山については、これまでのレポートで手短に触れるに留まっていた。そんな中でもう“ソロソロ”ひと踏み込みしようかなというタイミングでこのソロに巡り合うことになった。従って、いつに増して真摯に聴くことになったのである。時の流れは、これからのJAZZシーンを担おうとする連中が東京に活動拠点を移す中で、本山は東京との交流を巧みに消化しつつ、それを地元に還元している貴重な存在である。折に触れ彼の音に接してきたが、いつの間にか気になる演奏家になっていたというのが個人的思いである。私たちが音楽に共感すると言うとき、大別して理由は二つあるだろう。一つは演奏そのものに、もう一つは演奏に対する演奏家の姿勢に対するものである。普通は前者が優先的に享受され、後者は遅れてやって来る。ところが、継続的に聴き続けていると、これは逆循に転じていく。演奏家像を通じて演奏を聴くようになるのだ。思い浮かべただけで、直ちに音が聞こえてくるミュージシャンがいるのはこのためだと思うのである。どうやら本山はその中の一員になっているようなのだ。そういう思いで聴いていたのだが、彼の静かなる熱意が、静まり返った場内を独占していく様子が胸を打つ。孤高のソロというに相応しいライブとなったのである。演奏曲は、「ウィッチ・クラフト」、「エミリー」、「ペンサティヴァ」、「ミスティー」、「ブッチ&ブッチ」、「カム・トゥギャザー」、「リトル・ウイング」、「ソラー」、「プレリュード・トゥ・ア・キス」、「イン・ラヴ・イン・ヴェイン」。振ったら当たったというような、まぐれの演奏は有り得ない。試練のあとの成果、これに逆循はない。当夜の模様は、CD-R10枚限定で提供されるとのことである。手遅れにならぬようお問い合わせ願いたい。
ところで、昨年、本山はソロのインプロ・アルバムを2枚リリースした。それは幾つかの音楽誌で賞賛されたと聞く。そこに何が書かれていたかは知らないが、聴いてみると、音に向かう本山の姿勢が伝わって来るものであった。ソロといえば、聴くのをためらう向きもあるかも知れないが、筆者は途中で止めることなく2枚一気に聴き終えた。それだけで、お分かりになるだろう。
(M・Flanagan)

正欲 浅井リュウ著

正欲であって性欲ではない。でも少し性欲の事でもある。まず自分の事を考えてみる。少し頑固な所はあるが趣味、嗜好、性癖、思想どれをとっても万人が理解できる範囲であると考えている。ジャズのライブバーを細々やっているが一応認知されている職業ジャンルである。支持者がウィグル自治区の少数民族ほど少なくてもここでは問題にはならない。社会的に認知されているからである。そして今まで会ってきた人の趣味、嗜好も自分では興味がなくても理解できないことない。釣り、競馬、パチンコ、大丈夫だ・・・犬猫ウサギ、蛇、まだ大丈夫だ・・・「水が流れ出る蛇口」と言われるとノッキングを起こした車のように思考が止まってしまう。この小説には蛇口に特殊な思いを抱く人物が出てくる。世の中には一般の人が想像つかないような嗜好を持つ人がいて人知れずこっそり暮らしている。ジャズのように名前の付いたジャンルはまだいい。「わかるよ」と言われる辛さ。
見渡す限りの情報の海、独立して見える情報はすべてあるゴールに収斂されて見える。
「明日死なない為に」
明日死にたくない人は他者が人生にあらわれた人の言葉である。
この書の中の偽装夫婦は契約する。
「生き延びるため手を組みませんか」
付記
しょぼいフリージャズを聴かされる羽目になったことが何度かある。背中に「フリージャズ」という看板が下がっていた。一応フリージャズも認知されたジャンルである。

党首討論

党首討
二年ぶりとなる党首討論を聞いていた。世紀の対決と言われたモハメドアリとアントニオ猪木の異種格闘技の対決を見ている歯がゆさがあった。まるでかみ合わないのである。討論というのは聞いたことには答えてはじめて成り立つものである。議論することによって問題点を洗い出し国家の未来像を提示する使命がある。時間も短すぎる。持ち時間立憲民主党は30分、その他野党は5分である。その中で菅総理は前東京オリンピックの思い出を4,5分は話していた。情に訴えるつもりであろうが聞きたいのは具体策である。総理は側近に時間が短いので答えなければ逃げられると漏らしていたと言う。言語道断である。ワクチンの話になると金脈を当てたかのように嬉々として雄弁になる。接種回数を自慢げに語る。だがその回数、比率ともども統計の取り方に問題がある。例えば高齢者への接種が完了したとみなされるのは何%の住民が接種を終えた時点かと言う事である。自治体の判断に任されている。函館市の場合は60~70%である。国からは7月中に完了するようにと指示が来る。低い数値に設定しないと未達になるからである。かみ合わない論点は多々あったがここでは省略する。危惧していることは次の事である。あまりの誠実身の無い答弁に野党は内閣不信任案の提出を検討している。すると総理は衆議院を解散するかもしれない。国民は「こんな非常事態に選挙かよ」と怒って投票率が下がることになる。すると組織率の高い与党に利することになりこんな事態を招いた政権が国民の信任を得たとでかい顔して愚策を連発することになる。
自分たちの生活に直結していることから目をそらさないことが重要である。音楽人の前に一市民でありたい。

ローマの休日

今までで何度も見た映画のベスト5には間違いなく入る。輝くばかりのオードリ・ヘップバーンに会いに行くためである。どこかの国の王女様O・ヘップバーンと新聞記者のG・ペックのコミックラブストーリである。だがその裏にいくつかのメッセージとストーリーが隠されている。まずタイトルの「Roman Holiday」である。文字通り「ローマの休日」であるのだがダブルミーニングで「他人に苦しみを与えることで得られる楽しみ」の事でもある。猛獣と戦う剣闘士を想い出せばよい。この脚本は今ではダルトン・トランボ作であることが明らかにされているが封切時は伏せられていた。トランボが赤狩りの犠牲者であったからだ。その複雑な思いがタイトルに込められている。アン王女はヨーロッパ諸国を歴訪する。どこの国の王女かは明らかにはされていない。この作品は1953年に制作されている。ヨーロッパは二度の大戦で疲弊し、新しい平和の枠組みを渇望していた。今のEUみたいな共同体をトランボは思い描いたに違いない。それが皇室の親善外交と言う形で表現されているしアン王女の言葉のはしはしにも感じられる。一日だけの物語であるがその間に王女は成長している。公務に疲れ駄々をこねて執事たちを困らせていた。ところが一日の休日を終えて迎賓館に戻ってきた王女は寝る前に出されていたクッキーと牛乳を毅然と断るのである。そうした少女の成長物語でもあるのだ。
戦時中ある壁の下で祈りを捧げて戦火を免れた子供がいた。そこには願い事を書いた日本で言えば絵馬みたいなものが大量にぶら下がっている。そこを訪ねたG・ペックはヘップバーンに何の願い事をしたのかを聞く。「でも、絶対かなわないの」と答えるヘップバーン。ちゃんと王女の仕事に戻ろうと決めた瞬間である。見どころはいっぱいあるが「真実の口」に手を入れるシーンはG・ペックのアドリブでヘップバーンは本当に驚いている。ジャズぽいシーンである。
この映画は女性のファッションにも多大な影響を与えた。ヘップサンダルと呼ばれた編み上げのサンダル、首に巻いたネッカチーフ。これはちょっと目立つ鎖骨を隠す為であったが意図せず流行ったと聞く。首周りの太い人も無理くりネッカチーフを巻きゼイゼイと息を切らせながら歩いていただろう当時の日本の世相が思い浮かぶ。そしてあのショートカットである。女性が髪を切ると言う行為がまだ一大決心を示唆する時代である。この時からショートカットが一般的になっていった。この時のヘップバーンはホントにホントに可愛らしい。食べてしまいたい。だが髪を切れば誰でもが可愛らしくなるわけではない。隠れていたものが白日の下にさらされて逆効果の事もある。ものには限度と言うものがあることを知るべきである。
ここにはもう一点ジャーナリズムのモラルも表現されている。特ダネを狙うG・ペックとカメラマンのエディ・アルバートも王女との信頼関係から公表することを諦める。まだジャーナリズムが節度を持っていた時代の話である。

安倍三代 青木理著

どのような環境であれば安倍晋三元総理のような人物が出現するのか興味があった。少なからずこの本で理解できた部分はあった。だがその暗部はコロナウィルス変異株のように解明されていないのが率直な感想である。父は安倍晋太郎、母方の祖父が岸信介である。当たり前であるが父方の祖父がいる。阿部寛という。ほとんど知られていないし安倍晋三からもほとんど名前を聞くことはない。山口県の大地主で真面目で優秀で土地の人から敬愛されており、安倍晋三はその地盤を引き継いでいる。阿部寛は反骨の政治家で「富の偏在は国家の危機を招く」との訴えは現在にも通用する警句である。初めて衆議院に立候補した1937年には日本が国際連盟を脱退し日中戦争の泥沼に足を突っ込んだ年である。演説会には警官の目が光り中止に追い込まれることもあったと言う。だが地元村民の人望があり翼賛会の推薦なしで当選した。どう考えても安倍晋三とは対極にいる人のように思える。安倍晋太郎は家どうしのいざこざから母親なしで育てられた。政治家としては印象が薄い感があるが必ずしもそうではなかった。父同様東京帝国大卒で非常に優秀であった。地元の在日にも慕われるリベラリストでもあった。1985年の国会答弁で衆目を集める発言があった。戦争責任について次のように外務大臣として述べている。
「わたしもやはり第二次世界大戦は日本を亡国の危機に陥れた謝った戦争であると思っています。国際的にも、この戦争が侵略戦争であるという厳しい批判があるわけであります。そうした批判にたいして十分認識してこれに対応していかなきゃならない・・・・」
当たり障りないと言えばそれまでであるが保守系政治家としては実にバランスの取れた意見であると思う。晋三のように「侵略の定義は定まっていない」などど歴史修正主義に走ることはなかった。どう考えても祖父、父親の思想はDNAに組み込まれていないとしか思えない。悲願の憲法改正は溺愛された岸信介に捧げるオマージュに思えてくる。地元の人にも「晋三さんは東京の人だから・・」といまいち愛着のある意見は聞かれない。晋三は小学校から成蹊学園で一度も受験を経験したことがない。同級生の人物評も「いたって普通、成績もよくもないが悪くもない」との感想が多い。ギターリストの加藤崇之の意見は載っていなかった。教官の意見も「可もなく不可もなく」が多い。ただ憲法の指導教官が総理の安倍晋三に会った時憲法を勉強する際必ず読む憲法学者の名前を知らなかったのには驚いたと記されている。枯葉を知らないでjazzミュージシャンになったようなものだ。ここまで書いてもあの極右思想と超お友達優先思想の萌芽は読み取れない。阿部寛、安倍晋太郎の章は面白かった。

学問の有用性

半世紀以上前になるが大学時代ある教授に言われた言葉を今でも覚えている。「君たちは社会に出たら有用になるよう求められる。大学時代は思い切り無駄なことをしなさい」日本文学の教授で折口信夫先生の弟子であったと記憶している。当時の日本は高度成長期、雇用形態も終身雇用、年功序列、企業内組合が三本柱で企業にも余力があり新卒社員にも即戦力などという理不尽な要求は無かった。教授の助言もそういう時代背景を反映したものではあったが僕は字面を真に受けjazz喫茶と映画館に入り浸る学生生活になってしまった。
今の時代は経団連の圧力もあり文科系の予算はどんどん削られている。産学協同の研究も多くみられ金を生む研究が求められる。学生にも即戦力が求められ、大谷翔平のように初年度20勝がノルマになったりする。労働者も同じ労力であれば給与の高い企業に流れるし、より良い給与を求め転職をすることも全然珍しくもない。労働市場は流動化しその緩衝材として非正規雇用の人員が穴埋めする。学生も4年のうち最低一年は就活に費やす。就活を勝ち抜くための留学体験であったり協調性をアピールするための部活だったりもする。大学が産業界の予備校化している。ある大学の先生の話である。学生たちの悩みで多いケースが「文学部に行って将来何をしたいの」と周囲から問い詰められることだと言う。何かになるために大学に行くのではない。知的に変容するためである。教育を職業教育に短絡化する思想が蔓延すると国力は必ず落ちる。実際大学生の学力はその論文数からも低下していることがわかる。理系の論文数もネイチャー誌の掲載数からも世界的レベルで落ちている。僕の周りにいる北大azz研の部員たちもそれぞれいい子で優秀であると思うのであるが優秀になるための情報を効率的に身に着けてきた感がある。二十歳そこそこで全人格的は人間を求めるべくもないが自分が育成変化の過程にいると言う事は認識していた方が良い。
麻生財務大臣の講演の一部を聴いた。知識への敬意が全くない。「そもそも中学まで義務教育にする必要があるんですかね。学校出てから因数分解使ったことありますか。世の中で使わないことを習う必要はないんだよ。将棋の若い人・・・なんていったっけ・・あの人だって学校行っていたらあんな風にはならなかった。早い時期から自分の得意なこと見つけて・・・」
将棋の若い人とは、藤井聡太の事を言っているのだと思うが藤井二冠は大学こそ行っていないが高校卒業寸前で退学した。それまでは学業も優秀であった。丁稚奉公的に将棋界にはいったわけではない。退学した理由も強くて勝ち進むので対局数が増えと勉学の両立が難しくなったとの理由からだ。講演を聴くと麻生大臣はまず因数分解と微分積分の違いが分かっていない。親の会社の麻生セメントも潰しそうになって辞めさせられた。そういう人が財務大臣である。国民は危機感をもつ必要がある。
自分が知らない事、できないことを担ってやってくれている人がいる。その集合体が社会、国家である。学問は何を知っているかよりも、何を知らないかをわかる事の方が重要と思う。政治家はそれくらいわかる想像力を持っていてほしい。
大前研一氏という経営コンサルタントがいる。理系学問の重要性を説いている
「文系の学部・学科で学ぶ知識の多くはスマートフォンやパソコンですぐに検索できるし、USBメモリーなどに入れてしまえば、その価値は高く見積もっても、せいぜい5円程度だ」。日本企業凋落の要因がわかる。
付記
緊急事態宣言延長で店は6月20まで基本的には休業する。知り合いに会う事は禁止されていない。国民の自粛疲れによる開店要請には応ずる準備がある。
居酒屋で「酒」を抜くとイヤになる。

Autumn in New York

ニューヨークは秋になる前に死亡者数0を記録した。検査の陽性率もカウント始まって以来の最低記録である。大量検査、隔離、ワクチン大量摂取以外の対処策を取ったとは聞いていない。トランプ支持者のマスク、ワクチン嫌いの中でのこの数字である。ワクチン嫌いのニューヨーカーの打ってもらうためにヤンキースの観覧券やらマリファナも配って接種率を高めたと聞く。お土産の有り方は置いとくとして効果があると言う事である。
NHKラジオからは「アスリートの美談」「聖火ランナーの美談」が聴こえてくる。ワクチン打ってオリンピック始まってしまえば日本選手の誰かが金メダルを取る。そうすれば今までの不手際など国民は忘れてしまう。支持率も持ち直すだろうと言う政権とIOCトップの思惑である。金銭欲と名誉欲と政治的野心が混ざり合って悪臭を放っている。
牛下がりの午後、休業中であるが一度は店に行く。たかだか10分くらいの道のりであるが救急車と出くわす頻度が異常に多い。餅をのどに詰まらせたお年寄りの搬送もあるかもしれないが他の要件と考える方が自然だ。
医療従事者7千人だけでなく消防関係者も3万人、救急車も24会場に最低2台配備されると言う。一般の都民の緊急搬送はどうなる。座頭市のつぶやきが来こえる。
「いやな都政だな・・・」
来日する「ぼったくり男爵」等五輪貴族の足に車両4000台と大量の運転手が動員される計画だ。運転手へのPCR検査やワクチン接種の予定は立っていない。安全安心の実態である。
代々木公園のパブリックビューイングが中止で最終調整に入っている。当たり前である。こちとら10人集めてライブするのも御咎めがあるのに3万人規模・・・ふざけるなと言いたい。
だが切り倒した木は元に戻らない。禿げた頭の如しである。
分科会の尾身茂委員長も前回初めてオリンピック開催に関して踏み込んだ意見を述べたように見えた。だがそれは見えただけであった。もっともらしい事を並べているが結局「中止せよ」とは決して言わない。それは賛成していることに等しい。御用学者の宿痾である。
五輪、五輪とおだってみても残るのは「国民の権利の蹂躙」である。

安全安心

サッカーで言えば波状攻撃を受けているチームのバックスラインが下がるように「安全安心」の基準も下がりっぱなしである。
菅総理の発言である。
2月22日「ワクチン接種を前提としなくても安全安心な大会を開催できるよう、総合的な感染症対策の検討を進めている」
5月25日「主催者として安全安心の開催実現に向けて、審判や、選手と接触するスタッフへの接種を調整していきたい」
6月1日から五輪選手のワクチン接種が始まると言う。アスリートには申し訳ないが一般の接種も混乱しているところに持ってきてだ・・・・。東京と大阪で大規模接種が始まって接種率が改善されたかのような錯覚に陥るが全体の2.5%に過ぎない。ワクチンが届いたら今度は注射のうち手がいない。歯科医師、救命士、薬剤師も駆り出される。いよいよ困ればシャブを打ちなれた極道に頼む手もある。「ウィルスの玉とってこいや」
こんな状況なのに6月1日には選手団の一陣が来てしまう。オーストラリアのソフトボール選手団30名だ。どんどん既成事実が積み上げられてしまう。
まだ付き合って間もない彼女に「なんか、できたみたい。だから一緒に暮らそう」と言われて洗面台に洗顔剤やクレンジングクリームを置いて行かれるようなものだ。もう後には戻れない。
「現下のワクチン危機は、恥ずべき不平等であり、これがパンデミックを長引かせている」と
WHOテドロス事務局長は発言している。これは発展途上国に対するワクチンの分配の事に言及しているのだが問題は同質である
この状況で五輪選手に優先的にワクチン接種することが許されるのであろうか。