腹立ち日記vol29 連休

今日7月23日から4連休である。あれ、こんな時期に連休あったのかなと体に馴染まない。24日はオリンピックの開会式の予定でスポーツの日と言う源氏名がついている。半年前はまだオリンピックやろうとしていたのだ。指導層の見識の無さがここでも露呈している。先日も森喜朗会長が「今やめると違約金が発生する」と発言している。アスリートありきの発想はない。僕はコロナ禍が有ろうがなかろうがオリンピック招致には反対である。福島復興の象徴としてのオリンピック・・・・。あの時期汚染水は海に垂れ流し、生活基盤の復興事業は遅々として進んでいない。安倍総理の完全にコントロールされていると言うセリがいかに空々しく聞こえたことか。ラジオを聴いていると朝から山下IOC代表のコメントが流れていた。モスクワオリンピックに日本が不参加を決めた時自分はどれだけ残念な思いをしたかを考えると選手たちにはぜひ参加させたいと言う。山下選手は最高の柔道家ではあったが組織のトップに立つと金メダルの数しか頭になくなり国民目線で思考することができなくなる。NHKの論説委員が中止ありきで議論するのは拙いと後方支援をする意見をはく。そしてアスリートが開催されると信じて今もトレーニングに励んでいるとコメントする。この循環コードが1日中流れている。感染者数が過去最多の日にである。
NHKは完全に政府広報である。
この連休に合わせてGO TOキャンペーンが開始された。不要不急の外出を自粛するようにと言いながら旅行には行けと言う。ブレーキとアクセルを同時に踏むようでもあり便秘薬と下痢止めを両方も飲まされているようでもある。その旅行にも心得がある。4人家族の場合と言う例が載っていた。旅行中の会話はできるだけ避ける。食事はできるだけ部屋でとるようにする。風呂は大浴場ではなく内風呂で済ます。買い物はホテル、旅館内で済ます等々・・・・。こんな旅行楽しいのだろうか。エロビデオは見ていいが決して興奮しないでくださいと言われているようなものだ。
このキャンペーン東京発着の旅行は除外になった。キャンセル料は国が代理店に払うことで落ち着いた。よく考えると腑に落ちない。外出を自粛している人がいる。あるいは旅行に行く余裕などない人もいる。かたや旅行に行くと言う人がいる。その経費やキャンセル料を税金で負担する。キャンセルなど電話一本。メール1通である。どうやって証明させるのであろうか。我々の給付金には死ぬほど面倒くさい書類を提出させるのに代理店には言いなりか。このこと自体国民を分断することにはならないのか。

ミックスナッツ

柔和な顔の人がいるものだ。何となく幸を運んできてくれそうな・・・・。僕の身近には三人いた。店の近くのコンビニの店員さん、八百屋の元気のいいお姉さん、道新の集金のお母さん。原田知世でなくとも、薬師丸ひろ子でなくとも心を和ませてくれる人は身近にいるものだ。今回は道新の集金のお母さん。角川映画には出ていないがキャリア30年のベテランで先月引退した。少し腰は曲がっているが雨の日も雪の日も自転車で元気に集金に回っている。86歳になったと言う。昔は朝早くに来て何度もチャイムを鳴らされて、それで目が覚めてしまい苦情を言ったこともあった。今では僕の生活パターンに合わせた時間帯に来てくれる。それでも毎回遠慮がちに「起こさなかったかい」と聞いてくる。毎月少し立ち話をする。
住んでいるのは僕のご近所で一人暮らし。北海道中部地震の時も一人で乗り切った。近くに身内はいるかと聞いたことが有る。市内に姪娘さんがいるらしいが「迷惑はかけられない」と顔に屈託がない。僕は何かあったら来てねと言ってある。毎年期変わりに販促品なのであろう、ファイターズの選手名鑑と家計簿はいらないかと聞かれる。野球には全く興味はないし店の帳簿だって適当につけているなどと余計なことは言わず必要な人にあげてと言う事にしている。
最後の月自動引き落としの依頼書を持ってきた。僕は「お母さんが元気に集金に来るのを楽しみに新聞取っているのでやめようかなあと思っている」と言った。本心である。今の時代ネットでも読める。
「旦那さん、嬉しい事言ってくれるねぇ」と顔をほころばせた。
「30年間ご苦労さん」と言って緑茶のセットを渡した。お母さんはこんなことしないでと遠慮したが文字通りつまらないものである。受け取ってもらった。
月は変わって日曜日の昼下がり。チャイムが鳴った。電気もガスも払った。新聞の集金は終わった。国保の督促は日曜には来ない。怖いものはない。開けると道新のお母さんであった。
「昨日で全部の集金が終わったよ。長い間有難う」とわざわざ報告に来てくれた。
口に合うかどうかわからないけど・・・・と言ってミックスナッツ手渡された。
毎日少し齧ってお母さんの健康を願っている。

After the rain (M・ルグラン作)

降りやまぬ雨はない。
コロナ禍もいずれ終わる。ペストもチフスもサーズもマーズも一応一回終わった。誰もがコロナ騒動が一日も早く終わればいいと思っている。だが前の生活と同じでいいかどうかは別問題である。今回の事で色々なことが浮き彫りにされた。夜の街と昼の街が区別され、富裕層と弱者が分断され大企業と中小企業が分断され、白人と黒人が分断されアメリカと中国どちらにつくか迫られる。こんなご時世にも中間マージンを抜いて稼ぐ会社があり、そこに勤めることが一流市民の証だと思っている人間がいてその人間が日常生活で自分に都合が良いシステムを再生産していく。香港の事を対岸の火事と思ってはいけない。小さな火種は日本でも起きている。自粛がほとんど命令になり、そこに罰則まで課すという議論が当たり前のようにされたりする。「安倍辞めろ」とヤジを飛ばしただけで道警に排除されたりする。魚は頭から腐る。人間の社会も同様である。洪水が起こればラジオからは一日中「命を守る行為」を促し三密だのソーシャルデスタンスだのを教育勅語のように復唱させられる。小池都知事などは自粛から自衛にと究極の自己責任を唱え出している。国の役目は国民をどう食べさせるかであり行政は市民を守るために税金を集めている。個人でできることには限界がある。
まだ感染者が増加している中で着地点を想像することは難しいかもしれないが思い描いていない社会にならないように意識だけは持っていたい。
カミュが「ペスト」の中でパオロ・ジョルダーノが「コロナ時代の僕らの」あとがきで言っている。人間は忘れやすい。・・・・・・
G・オゥエルの「1984」の世界は限りなく現実に近い。

腹立ち日記vol28 小道具

東京都発着を除きGoToキャンペーンをクランクインさせようとしている。ある事柄を分類すると映画で言う大部屋に入れられる。例えば僕がやっているライブバーは行政にとっては遊興施設でストリップ劇場、覗き劇場と同じ類で所謂「夜の街」の名札をつけて歩かされる。「クラスターを発生させた人たちよ」という国民のひそひそ話が背後で聞こえる。
では今回の観光業界の分類はどうか。「旅行代理店業界」と観光地の「旅館や飲食店」が同じ大部屋に入れられている。感染者が増加傾向にある中「密」にならない高級施設に旅行に行けるのは限られた富裕層である。その旅行商品を扱っているのは大手旅行代理店である。今回の政策は「旅行代理店業界」を設けさせるためであって観光地の「旅館や飲食店」と観光客は小道具に過ぎない。
百歩譲ってGo Toキャンペーンが実施されたとする。東京都が除外されたままだ。小池都知事は怒るべきである。都民ファーストを掲げていたはずである。税金を使って施行される政策である。国民全員人に公平でなくてはならない。「都民を排除するなら全面撤回」と言わなければならない。だがやっていることは「夜の街」パンチを繰り出すだけで現政権と裏で政争を繰り返すだけである。都民も「小道具」である。
7月10日5000人規模のイベントが解禁になった。早速行われたのは麻生副総理のパーティーで3000人集まっている。白玉団子のような関係者が所狭しと押しかけ会場は餡蜜状態である。目的は政治資金の調達である。選挙が近いかもしれない。
国民も「小道具」と思っている人がいる。

日本映画探訪記その4 黒いドレスの女

角川映画である。僕が見る原田知世主演作3本目になる。これを見ると原田知世とのお別れになる予感がしていた。原作は北方謙三。今は歴史ものとか中国物を書いているがデビュー当時はハードボイルド小説の旗手であった。このタイトルは推測であるが「白いドレスの女」を意識している。キャサリン・ターナーの主演で映画化されている。キャサリン・ターナーが謎めいてエロくて、本当に悪である。相手役のウィリアム・ハートは手玉に取られてしまう。
ドレスの色が変わる。黒い方である。映画の冒頭黒いドレスを着た女がバーに入ってくる。
「座っていいかしら」
「どうぞ」女は煙草に火を着け、マルガリータを頼む。煙草を一服してマルガリータを一口飲む。
「このペンダント貰ったの」
まあ、こんな感じで映画が始まる。原田知世がミステリアスな女を演じているつもりだ。髪型も肩までの長さで軽くウエーブが掛かっている。はっきり言って髪型も服もまるで似合っていない。勿論謎めいた女には全く見えない。たばこの吸い方も育ちの良いお嬢様がちょっといたずらしてみましたという感じだ。それにショートカクテルは両手で飲むものではない。
普通の映画会社ならミスキャストだ。ところが角川映画である。角川春樹が原田知世に大人の女を演じさせてほしいという意向だったのだと思う。監督は崔洋一だ。日本映画は50年代が黄金期で60年からは衰退期に入っていた。新人にはなかなかメガフォンを握る機会はやってこなかった。角川映画の功罪の功を上げればそういう若い映画人にメガフォンを取らせたことだ。崔監督もその一人である。
冒頭のシーン。僕には中学の学芸会にしか見えないのだが崔監督はどうしてああいう演出にしたのであろうかと考えるのである。崔監督も原田知世の演技力の無さはすぐにわかるはずだ。
指導してどうにかなるレベルではない。そこを逆手に取ったのではないか。どう見てもヤクザ者と渡り合うタイプには見えないようにして周りの人間そして観客もだます。
アイドルでデビューした人間は必ず演技派に脱皮していく時に壁にぶつかる。フアンであればそこまで付き合うのであろうが僕にはそこまでの時間の余裕がない。さようなら原田知世。
付記
ビデオには特典映像が付いていて映画のパンフレットが見られる。映画はタイトルが流れる前原田知世が高速道路を歩くシーンから始まる。パンフレットには原田知世が裸足で高速道路を歩くシーンから始まるとあるがちゃんと靴を履いている。

日本映画探訪記その3 聖の青春

薬師丸ひろこと原田知世には今回休んでもらう。
藤井聡太がとうとう棋聖位を獲得した。まだ17歳である。藤井聡太の人気で将棋に興味を持つ人が増えた。一将棋フアンとしてはうれしい限りである。藤井聡太の前にも何人かの天才棋士がいた。村山聖もその一人である。村山は羽生善治との勝負に命を懸けていた。羽生との将棋1局はほかの人と指す20局分に相当すると公言してはばからない人であった。小さい頃かネフローゼの持病もちで将棋を指すことは相手との戦いでもあり体力勝負の自分との戦いでもあった。29歳で名人にも挑戦できる順位戦のA級に上り詰めていた。だが羽生との名人戦を戦う前に夭折した。そんな棋士村山聖の伝記、大崎善生「聖の青春」の映画化である。実在の棋士が多数出てくるがキャラクターなどもちゃんと研究して作られている。特に羽生善治は表情、対局姿勢、物言い、服装までかなり似ている。村山と羽生の駒あしらいと言ったらいいのだろうか・・・指先の表情まで気配りが行き届いている。
実際の村山聖は変人タイプであったがその終盤力には定評があってプロ棋士の間でも「終盤は村山に聞け」と言うセリフが流行っていた。将棋が強いと言う事は終盤が強いと言う事であると思っている。藤井聡太もそうであるが相手王に積み筋がある時は消して見逃さない。そして終盤の局面を想像しながら序盤から駒組をする。積んでいるエンジンが違うのである。
僕の棋力はアマ2段くらいだと思うがこのクラスの人の指し手は意味が分からないことが多い。米木のソロのようだと言えばjazzフアンにはわかりやすいかもしれない。
将棋はパソコンでやるゲームの何倍も深いと思っているのでこの映画を見て将棋フアンが増えてくれると嬉しい。
だがその前にjazzファンが増えてくれないと困る。
付記
大崎善生は札幌出身の作家で切ない恋愛小説が多い。「別れの後の静かな午後」は札幌オリンピックの時代の札幌を舞台にした小説で当時の事が懐かしく思い出される。将棋が好きになる小説も一冊紹介しておきたい「サラの柔らかな香車」橋本長道著。勝負の世界を生きる三人の少女をめぐり「才能とは何か」を問う

腹立ち日記vol27 強盗

腹立ち日記vol27 強盗
Go Toが強盗にしか聞こえない。何を奪うのか。国民の平穏に暮らす権利である。
Go Toキャンペーンの見直しがされた。東京都発着の場合だけ除外すると言う限定的なものである。全面撤回し1.7兆円は医療施設充実化今後来るであろう二波、三波対策に回すべきと考える。大体なぜ今の時期なのか。感染者はまた増加傾向にある。何もなければオリンピックが開催されていた。莫大な金額が動く。その利ザヤがなくなって困るところがある。電通であったり竹中平蔵のパソナだったりする。全国旅行業協会に加盟する大手の代理店から購入する旅行商品に関して税金で補助をする。それがGo Toキャンペーンである。その一般社団法人 全国旅行業協会の会長は二階俊博自民党幹事長である。持続化給付金の中抜き構造の裏コードである。

日本映画探訪記その2 天国に一番近い島

角川映画で薬師丸ひろ子を出せば原田知世を出さないわけにはいかない。原田知世はプロデューサー角川春樹の秘蔵っ子である。あるオーディションで次点になったが返すには惜しいと言う事で角川春樹がデビューの機会をうかがっていた。デビュー作は「時をかける少女」監督はこの映画と同じ大林宣彦である。プロデューサーがデビュー作で原田知世が輝く様に取ってほしいお願いした。この時点で原田知世は何物でもない。チョット可愛い素直なド素人にすぎない。いい意味でも悪い意味でも原田知世は「お人形さん」である。でも輝いているのである。大林監督は本当にやさしい人なのだと判る。
二作目がこの「天国に一番近い島」である。森村桂原作でニューカレドニアの事である。原作があるのだが少女原田知世がニューカレドニアを旅して感じたことをカメラに収めると言う半分ドキュメンタリーにもなっている。監督は演技指導もほとんどしていない。原田知世も伸び伸び演じている。と言うより28日間のロケを楽しんでいると言ったほうが良い。監督は一点だけ条件を付けた。眼鏡をかけさせたのである。時代は80年半ばバブル期に入っている。情報時代でもある。眼鏡をはずせば見えるものも見えなくなる。だが世界は見えるものだけなのか・・・・。その分心で感じて旅をしてごらんと言ったのである。するとロケが一週間程経過すると原田知世が「監督コロコロという音が聞こえてきました」報告をしに来たと言うのである。それは風が貝殻を転がす音なのだそうだ。サンゴ礁でできた島では起こる自然現象である。
この話を聞いた時僕は「時をかけるオヤジ」になっていた。15年前、石垣島に従業員慰安旅行に行ったことが有る。僕は海岸で本を読んだり、ぼーっと水平線を眺めていた。さわやかな風が吹き抜けていた。近くではTがヤドカリを捜していた。そういえば「コロコロ」と言う音がしていた。偶然なのだがTは「ともえ」という名であった。
この時期ニューカレドニアは独立運動でもめていた。大林監督はその痕跡は一切映さずひたすら美しい自然と原田知世と現地の人との交流をカメラに収めていく。
そして問うのである。自然とは人間とは、幸せとは

日本映画探訪記その1 ねらわれた学園

とうとう手を出してしまった。薬物でも女子大生でもない。角川映画である。40年前角川映画を1本だけ見たことが有る。「キャバレー」というタイトルで多少jazzに関わりがある内容だったので見に行ったのである。あまりのリアリティの無さに唖然とした。それ以後どんなにTVスポットが流れようが角川映画は見にはいかないと決めたのである。角川書店の売れ筋原作を大物俳優とオーディションで発掘した新人の組み合わせでプロモーションしていく自己顕示欲の強い角川春樹の手法に辟易していた。そこで発掘された新人も何人かは大きく羽ばたき、メガホンを取った監督も何人かは鬼籍に入った。大林宣彦監督もその一人である。亡くなってから何本か見直した。だが角川映画を排除すると仕事の全貌がわからない。片手落ちになる。それに年金をもらう年齢になってから初めて見る原田知世や薬師丸ひろ子に自分がどういう印象を持つかに興味があった。
制作されたのは80年初期、時代はしらけ世代に入っている。そこに一昔前善の善との戦いと言った価値観を高校の中に持ってくる。不埒な同級生を取り締まる今でいう自粛警察みたいなものが生徒たちの中から自発的に組織される。驚くほど今の時代に似ている。余談。数日前実際に富山県の小学校での「密」を取り締まるパトロール隊の写真を見た。小学生にこんなことをやらせては絶対にダメである。
映画の中ではこの動きが生徒の中から自発的に起こる。ここに敢然と立ちふさがるのが薬師丸ひろ子扮する学級委員長なのである。頭が良くてかわいくて性格もいいと言う三拍子そろった高校生、いつの時代も学年に数人いる。僕の時代にも勿論いた。
薬師丸ひろ子はある種の超能力を持っている。それを使って悪と戦うのであるが映像的に表現されると陳腐さを感じる。当時の映画的な技術では最先端を行っていたとのことであるがCGが当たり前の時代になるとそういうところから古くなる。でもそこにスタッフ全員の心意気も感じるのである。新宿の高層ビル街に花火を打ち上げるカット。花火が手書きなのである。フイルムにサインペンで一コマ一コマ書いていくのである。映画は1秒に静止画24コマを動かすことによって時間が流れていく。だから花火のシーンが一分であっても作業が膨大になる。ハリウッドであれば半年かかるところを大林組は徹夜で一日で仕上げたという。そして薬師丸ひろ子にはスタッフにそういう気にさせる何かを秘めていると大林監督自身が述べている。一部分ミュージカル仕立てになっている部分がある。どう見ても全員踊りに関しては素人だと判る。薬師丸ひろ子もセーラ服で踊っている。手に汗握る。全員一生懸命なのが伝わってくる。Jazz研一年生の学祭の演奏と一緒である。僕はどの芸も下手なものは基本的に嫌いである。
だが条件によってそれが感動に代わることが有りえる。
大林監督曰く映画は映っているものでしか表現できない。
薬師丸ひろ子が図書館で読む本、同級生がはいているパンツ、剣道部の男子が家で木刀の代わりに振る金属バット、空き地に倒れている自転車、その意味は見る側のイマジネーションに委ねられる。正解のない入試問題。
40年前の、ある意味青春学園物の映画を60歳過ぎて見ても面白かった。見させるだけの可愛らしさが薬師丸ひろ子には有った。セーラー服で学校に通う薬師丸ひろ子が家では着物を着ているのである。「おうー」と思うのである。僕が高校生だった70年代にもいた。新年会に着物を着てきた子がいた。勿論「おうー」と思った。この歳になって薬師丸ひろ子のフアンになってしまった。どうしてくれるのだ大林監督

アウトブレイク

爆裂音と共にジャングルのから這い出てきた一匹の猿がアップで映る。映画アウトブレイクの出だしだ。ある感染症と戦う軍医が主役でダスティ・ホフマンが演じている。設定は確かコンゴだと思ったが内戦で生活の場を追われた猿を媒介に感染症が拡大する。これは内戦であったが農地獲得のための開発であったり、宅地造成であったりリゾート開発であったりするかもしれないが野生の動物にとってこちらの事情など小島よしおではないがそんなの関係ない。生活の場を失えば人間の生活圏にも顔を出すことになる。ウィルスを背負って・・・・。たまたま今のコロナ禍を予感させるような設定になっている。ウィルスも生き物である。寄生するものが蚊であったり、鼠だったり蝙蝠であったり猿であったりするだけだ。そこに人間と言う最高の住み心地の物件が向こうからやって来た。そしてそれは世界中移動してくれる豪華客船のようなものだ。こっちに住み替えようと言う事になるはずだ。ウィルスは人間の何倍、何百倍桁が判らないほど進化が早い。完全に封じ込められたのは天然痘だけではなかったか。(バイトのK子、医学的に間違っていたらこっそり教えてください)強力な抗生物質を開発すればそれを上回る新型のウィルスが出現する。永遠の追いかけっこ。ウィルスにも軒先貸すような棲み分けはできないのであろうか。
おりしも西日本は何十年に一度の豪雨に見舞われ避難を余儀なくされている。ラジオでは頻繁に「命を守る行動をしてください」と流れる。でもその裏に」決めるのはあなたです。と言うニュアンスが感じ取れる。何十年に一度と言うが去年もあった。最近よく何十年に一度の自然現象が起こる。
過度の開発で地中に吸収できる水分が空気中に拡散し巨大な積乱雲になって雨をもたらす。土木工学の積算で作られた護岸には自然の怒りを鎮めるだけの力はない。
砲撃で歯をむいた猿と濁流と化した雨は出どころは同じではないのか