札幌の6月にしては異常に寒い。外は降りやまぬ雨はないというセリフが嘘のように一昼夜音もたてずに降り続いている。外では回転しない客待ちのタクシーが無駄に排気ガスを吐き出し、運転手は負け続ける野球球団の選手のように戦意を喪失した顔つきで時計を気にしながら煙草を燻らせている。客のいない店内は余計寒々しくこの季節としては珍しくストーブを点けざるを得なかった。周りのスナックのカラオケも鳴りを潜め、冷蔵庫のブーンという音が通奏低音のように小さく鳴り続けている。いつもより小さくかけているアート・ファーマーのフリューゲルホーンが雨音をじゃましないように静謐に流れている。こういう日の新聞の占い欄は妙に当たる。金運は最低だった。「出費を抑えて辛抱」か。舌打ちしたくなる内容だ。まあ今日はどこにも寄らず帰ろうと思った。愛情運は最高で「最愛の人に愛されている事が分かる日」と有った。かみさんと別れた俺には関係のない話だが・・・・・・。
客商売をしているとゲン担ぎでついつい金運だけは見てしまう。今日は早めに閉めようと思っていた矢先その女は入ってきた。肩まできっちり切りそろえられた黒髪。青と白のボーダーのTシャツの上に黒いパーカーを着ている。赤いスリムなパンツにヨーロッパ地図を極彩色で塗り分けたような賑やかなスニーカーを履いていた。カウンターの真ん中に座るとピースを取り出しマッチで火をつけた。カウンター越しに見るとマッチ棒が載るほど長い睫毛でゆったり来ているパーカー越しでもわかる大きな胸だった。化粧はほとんどしていないようだが男好きのする顔立ちであった。30歳代半ばであろうか・・・・・。カウンターに出しっぱなしになっていたグレン・モランジを指差し「寒いから、ストレートで。マスターも何か飲んで」完全な為口であった。一部上場企業の秘書課勤務でないことは確かだ。
「じゃ、ビールもらいます」
「この寒いのに」
「じゃんけんと一緒で最初はグウから」
「とりあえず、ビールってやつ?」
「そうともいうね」
「私の同僚でマレーシアから来た娘、皆、とりあえずビール、とりあえずビールっていうから『とりあえず』はビールの会社だと思っていたみたい」
「その娘は『月極駐車場』は全国チェーンの駐車場会社だと思っているよ」
「え!。違うの」
「冗談だよね」
「冗談だよ、でも私パーだから時々そんなことも知らないのかと本当に思われるみたい」
俺はライブハウスとはいえ一応客商売に分類される業種を営んでいる割には愛想が悪いといわれる。特に明らかに年下の人間にオーダーであっても為口をきかれると頭に血が上ってしまう。でもその娘には腹が立たなかった。むしろおおらかさを感じた。
「このウィスキー、何ていうの」
「グレン・モランジ。スコットランドのシングルモルトだよ」
「なめらかな味だね。品がある。オードリ・ヘップバーンみたい」と言ってグラスをゆっくり回した。
「私、大雑把だから・・・・。最北端の農家が自家用に作ったどぶろくに似てるよ言われた。このウィスキーとは全然違うみたい」
俺は思わず笑った。その娘も笑った。
「ワァンコの事聞かせて」その娘は唐突に話題を変えた。
「ワァンコ・・・・・・。俺は猫は飼ったことはあるが犬は詳しくないな」
「犬じゃないよれっきとした人間。顔がチャウチャウ犬がほっかぶりしたような感じなので、『ワァンコ』私がつけたの。本名南原敏英、ここでギターを弾いたことがあると自慢してた」
南原と言う名前だけでは思い出さなかったかもしれないが、弾く時の表情がチャウチャウ犬がほっかぶりしたようなギタリストがいた。数年見ていないと思う。一本調子ではあるがやりたいことは十分伝わるステージだった事を思い出した。何でもできるが、どれも香港の裏通りにある土産物屋で売っているバッタ物のブランド品の様なギターとは違っていた。ただ全国レベルで通用する演奏家だとは思えなかった。そう、自家用どぶろくのように。
「思い出したよ。南原・・・。しばらく見ないけど知り合い?」
「付き合っているの」くぐもった声で言い直した「付き合っていたよ」八分音符一個くらいの間があった。
「別れたの」俺は成り行き上聞いた。若いやつの好いた、腫れたのの話はコンビニの数より多い。でも聞いてやるのは料金に含まれている。
「微妙」と言って涙目になった。
「もう、意識ないんだ。でもまだ、話できる時期ここでライブやったんだとワァンコ何度も自慢していた。時々様子見に行っているよ。手握りながら私がずっと話しかけるだけ。付き合っている感じはもうしない」
外はとうとう本格的な雨模様になってきた。それにテンポを合わせるかのようにその娘の涙も大粒になっていた。
「マスターにはギター褒められた事ないと言っていたけど私には言いたいことが分かったの。私jazzはよくわからないけど・・・・・。ワァンコのギター本当はどうだったの。教えてそれ聞きたくて田舎から出てきたの」
俺はゆっくりタバコを一本フィルターに火が回りそうになるまで吸った。
「いいギターだったよ。長くやっていたら東京でも通用するギターリストになっていたよ」
「本当に!私の耳イヤリングつけるだけの耳でなかったんだね」
「そうだね、ウサギの耳くらい繊細なんだよ」
グラスにモランジを足してあげた
「店のおごりだよ」
「いいよ。お金はあるんだ。店暇だったんでしょう」
俺はくわえ煙草で手を振った。
「ところで南原は天秤座?」
「そうだけどどうして」
新聞の愛情運の占いも当たっていたのだ。