久々にひいた風邪を気合とパブロンで直し学生ライブに臨んだ。ここ1週間学生ライブが重なったが北大関係は好調である。ジャズ研とは関係ない留学生が来てくれるようになった。lazy が良いと言ってくれた留学生がいたようでその情報が広まったようだ。店のシステムやらメニューを拙い英語で説明したら学生に褒められた。半分イギリスの血が入っていると冗談を飛ばすと「そうなんですか」と納得されてしまった。突っ込まんのかい・・・!この時期にしては新入部員も顔を見せてくれている。ある先輩が自分も最初は先輩に連れてこられて奢ってもらったという経験を話していてそれが功を奏したようだ。6月の学園祭の前に顔を一年生に覚えてもらえると助かる。大体受付は一年生が受け持っていてチケットのもぎりをやっている。通し券で300円であるがチケットはすぐなくしてしまう。300円程度で部長呼べ・・・とは言いづらいので何回か買う事になる。その点面が割れるとチケット失くしたんだけど・・・と言いやすい。打上も大勢残ってくれてケチと思われるのもしゃくなので翌日の自分用に買った食材も調理して出してしまった。嬉しい誤算である。週明けからの周年記念ライブの宣伝も出来たので良かった。思わず飲み過ぎてしまう。学生にとって僕の世代の人間は北京原人と同じである。知らないことは知ったかぶりせずに謙虚に教えを乞いている。あっちこっち体にガタが来ているが気持ち的に元気なのは半分学生と交流しているからだと思っている。
カテゴリー: As times as go by日記
As time goes by日記 5月1日
As time goes by日記 5月1日
連休だというのに寒い。ストーブに火を入れる毎日である。札幌ではライラックの咲く頃に気温が下がることが有る。リラ冷えと言うが美しい表現である。ジャズの曲で「ブルーベリー ウィンター」という曲が有る事を最近知った。花が咲くころ冷え込むとブルーベリーに甘みが出ると言う事で
その時期の事をブルーベリーウィンターと呼ぶらしい。リラ冷えという訳語がぴったりと思う。社会人になってからの連休の想い出は全くない。サービス業であったのでそもそも連休などなかった。連休の想い出は子供の頃に遡る。叔父から「いつか、動物園に連れて行ってあげる」と言われて子供ながらに指折り数えて5月5日のこどもの日を楽しみに待っていた。おにぎりの入ったリックを背負って叔父の家に行くと何か空気感が違う。叔父は慌てて支度をし動物園には連れて行ってくれた。後から分かったのだが叔父は「someday」と言ったのである。「someday my prince will come」のsomedayであって子供の日の5月5日ではなかったのだ。この話は親戚筋が集まると僕が還暦を過ぎるまで言われ続けている。2025/05/01
As time goes by 日記 4月19日
おりしも日米関税交渉が始まって赤沢大臣のトランプ大統領に対する卑屈な姿を見せつけられた。
ハーバード大学がトランプの脅しに屈せず凛とした態度で接したことは称賛に値する。1兆円以上の資金の引き上げと留学生受け入れ資格剥奪の脅しにも負けなかった。アラン・ガーバー学長が拒否を表明するとオンラインで100万ドル以上の寄付があった。この時期の40倍以上の額という。
同大学が75年にわたって研究している「人の幸せとは何か」の問いに「年収、学歴、職業」ではなく同じ志を持つコミュニティで頼り頼られる「良い人間関係」ということが答えであった。このことが寄付の多さに関係しているのかもしれない。金は出すが口は出さない・・・という関係が学問的には一番成果を出す構造である。いま日本では日本学術会議の法人化をめぐって国会審議が始まっている。大学を国家に隷属させようとする行為は日本の国力を落とす事と同義である。この法整備に関して当の学生から反対の声を聞いたことがない。寂しい限りである。2025/4/19
As time goes by 日記 4月16日
lazyの打ち上げで主役の座に収まっている酒が有る。宮崎県のイモ焼酎、その名を「いも美」という。メインボトルを選定するに当たって配達をお願いしてる酒屋の焼酎を一通り飲んで決めた。薩摩焼酎のように匂いぷんぷんさせて片肌だして歩く薩摩おごじょとは一線を画す酒と感じている。ヤクザな焼酎なのだが品を感じさせるのである。藤純子演ずる緋牡丹博徒の其れである。残念ながら緋牡丹お竜は熊本県出身ではあるが・・・。学生も初めての酒がいも美という者も多い。時々品切れになり違う焼酎を出すと一口飲んで「これはいも美ではない」と当てる無意味に舌が肥えてくる者もいる。大石学は「E more me」という曲を作ってCDに収録してくれた。ワンノートサンバのようにミの音を中心にハーモニーが広がっていく美しい曲である。タイトルもしゃれている。「もっと光を」と呟いたのはゲーテであるが大石は「E・・もっとミを・・」と叫んだのである。この「いも美」が原因で打上の席でひと悶着起きたことが有る。ピアニストの荒武裕一朗が来たことが有る。荒武は宮崎県出身である。打上の席ではテーブルの真ん中にいも美が鎮座している。荒武はいも美の事は勿論知っていた。県人はあまりいも美は飲まないです・・。何を飲むか・・との僕の問に事もあろうか「いも美で良いです。」と答えたのである。「が」ではなく「で」という助詞を使った事に腹を立てたふりをした僕は「無理して飲まなくても良い」といも美の蓋を閉めた。慌てた荒武は「いも美が飲みたいです」いも美が飲みたいです」と「が」を連発したのであった。なぜこんなことを想い出したかと言うと今日博多華丸大吉の漫才を聞いていた。「イカが採れない」との切り口で始まる話であった。八代亜紀の持ち歌で「舟歌」というものが有る。「お酒はぬるめの燗がいい・・さかなは炙ったイカでいい」と歌い出される。ここに華丸はいちゃもんをつけるのである。イカが取れなくなった今日この頃「イカでいい」というセリフなないやろ・・・最低でも「イカがいい」だろう・・もっといえば「ご主人今日イカは入荷しましたかだろう・・・と話にイカのぶんざいで尾ひれが付いて行くのである。僕と同じ発想と感じた。
2025/4/16
As time goes by 日記 4月3日
韓国でアメリカでそして日本で社会を大転換させるかもしれないことが起こっているが書き留めておけるだけの事実確認をする余裕がない。移ろう日々の出来事を備忘録的に書き記しておく。
昨日見知らぬ方から封書が届いた。ジャズボーカルOとあり名古屋からであった。中にはポストカードと小さなおかきの詰め合わせが入っていた。今は名古屋に引っ越したが一度お邪魔したことがあると書いてあった。演者を全員覚えているわけではないが演奏をしたのであれば記憶の片隅に残っているはずであるが申し訳ないが全く記憶にない。その日たまたま居合わせたM川に聞くと自分のライブに一度来てくれたという。歌ったわけではなかった。そうするとたった一度だけ訪れた店にわざわざ挨拶文を送ってくれたことになる。今日日こういう事を出来る人は少ない。在札時代に知り合えなかったことを残念に思った。ちょうど女賭博師の映画を見たところだ。一宿一飯の仁義を通す女博徒と重なって見えた。マイクを持つ手に緋牡丹の彫り物が入っているのかもしれない。
As time goes by 日記 4月2日
4月1日は残念ながらApril foolの与太話ができる人物が来なかった。やっと雪も消え滑って転ぶ心配が無くなったので心的負担が軽くなる。だがルンルンという気持ちとはほど遠い。古希を超えてから急速に足が弱ってきた。足というかバランス感覚がなくなってふらつく。階段も登りは手すりがないと心もとない。外出も必要最低限となる。歯も弱ってきている。こうなってくると天気の良い日に散歩に行って林檎を丸かじりできることがどんなに幸せかと思うのである。
年配のお客さんに年を聞かれた。エイプリルフールは過ぎていたので直球の返答をすると驚いた様子で「私より10歳も若いのかい」と言われた。その方の年は81歳である。例にもれずずっと病気の話をしていたが声にははりがある。その方から「長生きしてください」というお言葉を頂いた。受け止めが難しい。
As time goes by日記 3月26日
21周年のお知らせのコンテンツのアクセス数が120回を超えたところで満を持して周年記念ライブスケジュールを掲載した。翌日ドキドキしながら予約状況を確認したら延べ人数で9名であった。まあ、良しとしよう。HPの統計情報が取れるようになって2カ月程であるがアクセス数は大体予想通りであった。バズることもないしアクセス数の多寡によって一喜一憂する事もないが多少Youtuberの心境が理解できた。Youtuberにとっては視聴回数が承認欲求を満たしてくれる基準であり金の卵を産む鶏なのだ。それは時として真偽のほども関係ない世界になったりもする。ネット上には糞情報で溢れかえっている。時々陰謀論的情報を信じ込んでいる学生を見かける。情報源がSNSだけだとすると再生回数が多い情報に影響されやすくなるのだ。ショート動画や文字数の少ない旧ツイッターの情報だけに接していると集中力が欠如してくる。映画を早送りしポップスのギターソロを飛ばして聞く行為はその作品の価値を半減させる。自分でも最近集中力が衰えてきていると実感することが有る。本を一気読みできなくなったのは視力の衰えだけではないようだ
As time goes by日記 3月25日
三嶋のベースソロライブが昨日終わった。集客しづらい演奏形態であったので予め学生のベース奏者に撒き餌をしておいた。何とかかっこはつくとは思っていた。ところが前日くらいに一般客の予約が結構入りほぼ満席状態になった。三嶋が何回か来ているうちにできた縁がつながったのかもしれない。演奏内容も予想を遥かに超える内容であったと思う。初めて来た時に辛辣な意見を言ったのを覚えているので今回の演奏は嬉しい限りであった。こういうイベントがあるとご褒美と称して翌日は自分に怠惰な一日を送ることを許してしまう。尻に火が付いている状態なのに焼けても尻程度だ・・と思ってしまう怠け者なのである。そういう人間は組織のくびきにつながれていた方が良い仕事をする。高邁な政治思想など持ち合わせていなかったが権威主義的なものには反抗する若さだけは持ち合わせていた。大した牙ではないがスッカリ丸く矯正され「私会社の為お国の為死ぬ覚悟であります」と言って最後の勤務地となった東京経理財務本部に赴いたのが30年前である。その年の3月20日地下鉄サリン事件があった。事務所は銀座2丁目にあったので事件発生当時、事務市内では何やらざわついた雰囲気が支配してていた。部下が有楽町駅前で配布されていた号外を持ってきた。地下鉄でサリンが撒かれたとあった。仕事、通勤で地下鉄丸ノ内線や銀座線を利用するものも多くいたので全員の安否を確認する指示が出た。札幌からも安否確認の電話が鳴りやまなかった。今はあの事件の意味するところ、何故防げなかったのかなど考える余裕がある。だがあの時点では被害を受けた方を慮る余裕などなく会社更生法の適用を申請した会社の生き残りのために奔走していた・・・と言えばまだかっこがつくが実際はその役目から外された。戦力外通告を受けたプロ野球選手の様であった。解雇されるわけではないので消化試合の守備要員のような仕事はあったがプライドが許さない。やめる口実を探していた。サリン事件もその一つに利用された。こんな街にはいたくない。