30年前負け犬と呼ばれ石をぶつけられるのを覚悟の上東京から帰ってきた年3人で始めたのがjazz幼稚園の前身である。楽器ができなくとも結構。音楽を楽しみたい人の為のワークショップという触れ込みで始めた。その裏には良いリスナーを増やしたい・・・という今でも持ち続けている真意が有った。一昨日今は東京に住んでいる「さやか」がlazyを訪ねてくれた。20年ぶり位である。jazz幼稚園のメンバーでTSを吹いていた。その当時は女子大生で構成員の中では一番の若手であった。最盛期は組員15名準構成員4,5人抱える一大組織に発展しlazyでの東京組のライブも一声で満席に出来る位であったので今考えると慢心していた。さやかは物持ちが良いのか当時のフライヤーや僕の作った譜面を持参してくれた。その日ライブレポートを書いてくれている牛乳屋さんもいて想い出話に花が咲いた。
lazy開店前はzippyやジングルで月2回くらいの全体練習の上年1,2回の発表会をやっていた。初級者から上級者まで色々な編成で出番を作っていた。コンセプトは大人の学芸会である。構成とMCは僕の担当なので笑の仕掛け花火は各所に仕掛けてある。オープニングはカーラ・ブレイのアイダ・ルピノである。僕はGのオープンチューニングで怪しげなアルペジオを始める。そこに微妙なタイムで三管のテーマが乗っかってくる。よく言えばマイルスとショーターのネフェルティティのフィール、正直言えば誰かがずれている。執拗に繰り返すテーマが熟したころ詩の朗読を乗せる。長田弘の詩集にクラッシックの作曲家をモチーフにしたものが有る。毎回その中から選んでいたが「ハイドン」が人気であった。朗読はさやかにお願いしていた事が多い。さやかは出だしの一節を覚えていた。「ハイドンは言った」で始まる。僕も何を言ったのかは覚えていない。気になるので本を捜したがすぐには見つからない。でもハイドンは何かを間違いなくいったはずである。それはオイドンが補償するでごわす。牛乳屋さんと当時セミプロ活動をしていたささと3人でスーパーギターートリオの真似事で「地中海の舞踏」をやったことが有る。毎回ササを呼び出すのは悪いので牛乳屋さんと二人で半年くらいかけて仕上げていった。本番2日前仕上げにササも入って貰って仕上げようとリハに臨んだ。正確な譜割を書いた譜面がその日なかったので僕はインド音楽の様に口承伝達を試みた。「ダバダバダ、ダバダバダ、ウン、ダバダバダ」ササはどこか半拍違うと言い出した。僕ら二人の中では出来上がっている。本番は近い。こちらに合わせろと言ったが真面目なささは原因を探ろうとしそれで牛乳屋さんは調子を崩し本番では力を出せなったという。キャノンボール伊藤という組員がいた。その名の通り体形が似ているのである。当初TPをやってみたいと言っていたがtpは音が出るまで時間もかかるしsaxはすぐ音が出ると騙しasを勧めた。勿論有る構想が有っての事だ。そのasは池田篤が選んでくれた。楽器が届いて2週間後発表会が有る。マーシーマーシーマーシーの最初の2小節だけ死に物狂いで覚えてもらった。本番バックはジェームス・ブラウンを待つJB’sの様に執拗なファンクパターンを繰り返し主役のお出ましを待つ。そこにスーツ姿のキャノンボール伊藤が登場しダバダバダッパーと水を噴き上げるアフリカゾウの様にパオーというフレーズを吹き終える。バックはそこでテポドンとカットアウトする。すかさずMCが入る。「今回はここまで、この後は来年」会場はドッカーン。一年後ちゃんと最後までやり遂げた。
続く